村長宅の二階には初めて上がる。勿論正規の方法であったとしてもだ。村長宅に招かれるとき、真佳は毎回居間で待たせてもらうだけだった。土地が有り余っていることと、村長という役職もあるのだろう、居間や外側からざっと周囲を見渡しただけでも広い家であることは分かり切っていたが、一人で放り込まれていたらきっと迷うだろうなという、そういう心許なさが心の裡に去来する。月明かりは屋根に遮られて限られた範囲からしか差さず、暗闇に侵されどこまで続くか分からない廊下が、ずっと左右に繋がっている。
 窓から這い上がって最初に見えたのは、すぐ正面にある壁だった。何の飾り気も無い真っ白な壁で、視軸をすぐ左に移すと板チョコレートみたいなドアがある。

「っと」

 後ろで息をつくみたいな声がした。続いてさくらの、「……本当に一瞬なのね」という驚きとも呆れともつかない密語声。後ろを振り返ると、丁度両脇にさくらとカ・ルメを抱え上げた銀狼の青年が、村長宅の窓枠に尊大にその足をかけているところであった。どの段階でスカーフを脱ぎ去ったのか、逆光になった月明かりにジークの銀の毛髪が綺麗に夜空に映えている。まるで星の連なった瞬き、天の川みたいな美しいその光景に、真佳は一瞬視界の主導権を奪われた。

「はい、スカーフ」

 とカ・ルメが言った。
 はっと我に返ったら、当たり前だが今の光景が永続的に続いていたわけでは無く、ジークはさくらとカ・ルメと並んで窓枠付近の廊下の端に立っていて、カ・ルメに突き出されたスカーフを渋々受け取っているところであった。あの美しい銀毛は、すぐにグリーンのスカーフの下に隠れてしまった。ちょっと惜しいことをした。ジークの髪が夜に見たほうが綺麗だということを、今の今まで知らなかった。当然だけど。ジークと夜を共に過ごしたことが一度も無いので。

「……何で外してたの?」

 と真佳が問うと、心底嫌そうにジーク。「……何か慣れん、マジで。崖登るときもつけてなかっただろ。登るとき耳が塞がってるとなーんかバランスが可笑しい」
 ……そういうもんか。よく分からなかったが、真佳には犬耳なんてものはついていないので多分分からない感覚なのだろうと思われる。

「こっち、おれ間取り大体頭に入ってるから分かるよー」

 と言って、実に気安くグイドが後ろを横切った。当たり前のような顔でヤコブスが続き、「ほら、二人一緒でも問題無かったでしょ」とさくらにそんなようなことを言いながら、カ・ルメとさくらが後に続く。
 特にそこに留まる意味も無かったので、真佳とジークも勿論それに連なった。
 グイドについていきながら、……ああ、なるほどな、と思量した。グイドが向かっている先は森の反対側、つまり南東の方向だ。村長宅は角部屋なので窓の数も必然的に多くはなるが、南東の方角には距離があるとは言え村の家々が多くある。壁に登るところを見られないために、わざわざ廊下側から中に入ったのかと合点した。
 この間取りだと……枢機卿が宛てがわれていたのは、どうやら居間の真上ということになる。ルーナとエルネストゥスがいるなら同じ階の別の部屋、というのが一番妥当なのではなかろうか。生前であっても死後であってもそうだが、特に死後は死体が上がった部屋にルーナとエルネストゥスが引き続き平然と寝起きしていたら驚きだ。村長は足が悪くて階段を上れそうになさそうだったし、枢機卿の部屋に誰かがいるとしたら見張りくらいなものだろう。
 ルーナとエルネストゥスは居場所不明として、見張りがいたら……まず間違いなく昏倒させる心づもりだろうな、という予感は何となくしている。ヤコブスならやるし、恐らくグイドも止める気はあるまい。むしろヤコブスの意志を汲み取って自らやる。そこの辺りは真佳も昏倒させる以外のやり方を思いつかないため、特に止めるつもりは無い。恐らく全員そういうことで腹は決まっているだろう。
 グイドが扉に手をかけた。一回、顔だけこちらに向き直り、ゆっくりと一つ縦方向に首を振る。ノブを回し、そっ……と、埃すら揺らさない慎重なやり方で扉を開けた。

「はい、こんばんは。随分遅かったじゃないか。あやうく僕がここで寝ちまうところだ」

 ……欠伸なんか漏らして女の声がそう言った。



萌芽



「ル、ルーナ……!?」

 驚きの声を上げたのは真佳である。ルーナと面識があるのは真佳とさくらの二人だけで、さくらは隣で訝しむように片眉を上げただけだった。声は上げなかったものの、ルーナがこの殺人現場にいるということは寝耳に水の事態らしいということは間違いない。それはルーナと面識ある、なしに関わらず、全員にとってそうだった。

「ちょっと待った、待った、君割合節操が無いな。別に僕は君たちを罠にかけたり突き出してやろうって腹じゃない」

 ルーナが慌てて行動を制止する言葉をかけたので、そこで漸く、ヤコブスがあの一瞬でルーナを昏倒させる手段を講じていたことを理解した。真佳からはヤコブスの背中からしか見えないので分からなかったが、多分目が本気の殺意で満ち満ちていたに違いない。侵入者からすればそれが正しい判断なのかもしれないが……。
 赤毛の髪をお団子に結った、ソウイル教シスター服に身を包んでいるルーナに対して、明らかに唾棄を孕んだ声色でヤコブス。

「貴様の何を見てその発言を信じろと?」

 ……確かにそれはそのとおり。ルーナ・クレスターニは港町スッドマーレの教会宿舎で出会ったときから教会にその身を捧げるシスターであり、教会の雲の上レベルの役職にある枢機卿を殺害した犯人など、神の名を貶め教会に反目する異端者として到底許すことなど出来ないはずだ。神への傾倒如何によっては上の決定を待たずこの場で真佳は殺される。

「まあまあ、そう結論を急ぐなよ」

 やれやれと言いたげにルーナは黒褐色の瞳を片方閉じ、左手のひらを天井に向けてから肩を竦める仕草をした。やけに大仰で芝居がかった言動は、今に始まったことじゃない。

「君と僕とは初対面の上どうやら敵対しているが、僕とマナカ、サクラに関してはそうじゃない」

 ちらとルーナの視線が、ヤコブスの肩を飛び越えてこちらに向いた。部屋の二面の窓から真っ直ぐ差し込む月光が、ベッドの縁に腰掛けるルーナの白い顔を照らしている――枢機卿の死体が発見されたのってベッドの上じゃなかったっけ? 少し男勝りな喋り方をしているだけで、強度で言えば普通の女性とそう大差は無いだろうと甘く心算していた自分を恥じる。
 唇を舐める――肝の据わり方が異常だ、この女――恐らく、真佳自身より。

「貴様がこいつと仲が良かろうが良くなかろうが」
「関係無い、なんてことにはならない。これでも僕は不満を顕にしてるんだぜ。何で枢機卿を殺した犯人がマナカになるんだっていうね……。僕の知っているマナカはそんなことは起こさない。ここの村人たちの言い分は全て強引で、夢想的過ぎる」
「…………」米噛みにちくちくとした痛みを感じてでもいるみたいに、ヤコブスは自分の米噛みに手を当てた。「その言葉を信じろ、と?」
「むしろ僕としては、君がどうしてそこまで僕を敵視するかが分からないね。僕が教会の人間で、マナカが殺人の容疑者となっているから、というのは分かる。でもそれはその程度の話じゃないか? 何故そこまで疑われているんだ? 今僕が応援を呼ばないことが何よりの証拠にならないかな」

 そもそも真佳の無実を証明する側に回るのに必要なのはヤコブスの意見などではなく、真佳やさくらの意見なのだと言わんばかりに、実に不遜に言い切った。ルーナは知らないはずである――即ち、ヤコブス・アルベルティが現ソウイル教と意見を異にする新教側に身を置いているということを。

「…………」

 長く深く、ヤコブスが吐息した。

「……分かった、もういい。邪魔はするな。こいつの事件以外のことに突っかかるな。怪しい動きが見えたら排除する。それでいいな」
「勿論だとも」

 にっこり笑ってルーナが言った――さっきまでの、戦場に身を置いている戦士そのものの張り詰めた緊張感が嘘だったみたいに霧散した。そもそも都会で一シスターをやっている普通の女がこんなに肝が据わっているわけが無い。年齢的に戦争を経験しているわけでも無さそうだし……。真佳を助けたいという必死さを取り違えただけだったのかもしれないと、真佳は自分を疑った。
 ベッドからさっと立ち上がって、シスターの彼女は涼しい顔で。

「いやー、良かった。何も出来ないまま首都の教会に君を持っていかれるかと、ずっと冷や冷やしていたんだ」

 なんていうことを今さっきまでばちばちに敵対していたヤコブスの脇を通りながら口にする。シスターという役職が慈愛の象徴などとは思っていない真佳だが、もしかしたらルーナはさっきのヤコブスの突然の敵対行動に関しては、本当に何とも思っていたりはしないのかも。ヤコブスがガプサに所属しているという事情を知らない限りは、彼女自身が言ったとおり、ヤコブスはただ真佳を案じて警戒していただけだという、好意的な見方も出来る。

「……それは嬉しいんだけど」

 当たり前のように真佳の前に立ち真佳の両手を包み込むように握ってくれるルーナに対して、真佳は言った。

「ルーナはそれでいいの? 教会の人間なのにそこまで私に肩入れするのはまずいんじゃ……」
「全然問題無いとも。だって別に、君が殺したわけじゃないんだろう?」

 まるで当たり前みたいな顔と口調で。……そりゃまあ確かに、真佳が殺したわけではないのだけは確実なのだが。問題はそれを期間内に上手く証明出来るかどうかという話になってくるわけでだなあ。

「……まあ、大丈夫でしょう。私もついてるし」

 真佳だけに聞こえるくらいの声量で、ぽそっとさくらが囁いた。――真佳にとって、さくらがいるかいないかは割合重要な事柄で、それが安全材料になっていることは否めない。でも別に、さくらだって上手く解決出来るかどうか、絶対の自信があるわけでも無いのだろうにまた他人を安心させるためだけに何でも無い顔で請け負って……。
 承服しかねる顔で唇をもにょもにょさせていると、パンッと柏手(かしわで)の音がした。

「じゃれている場合か。始めるぞ」

 ヤコブスの冷ややかな声明が、結局最終的に真佳に覚悟を決めさせた。ルーナもカ・ルメもジークもさくらもガプサの面々もマクシミリアヌスも、真佳に手を貸すと言ってくれた人たち全員無事に何事も無く過ごさせるためには、結局のところ死物狂いで何とか真相を解き明かしてみるほか道は無い。一人増えようが二人増えようがやるべきことは一つだけ……そう思うとシンプルで、武者震いがしてくるね。引きつった片頬をほとんど無理矢理笑いの形に持ち上げた。
 枢機卿に貸し与えられた部屋に視線を転ず。何が何でも、手がかりになるものを見つけよう。今自分に出来ることを、精一杯……。

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