「いやー、やっぱ自分で動くよりは誰かに運んでもらったほうが遥かに楽だな」

 首をコキコキ鳴らしながらカ・ルメが言う。まるでストレッチでもしているかのような言い草だが、実際崖を登ってきたのは当然のことながらジークのほうだ。ジークのほうがこの発言に突っ込むどころか気にした風な印象も見られないのは、きっといつものことなのだろうなと普段の関係を察せられる。計三名もの人体を運んで崖を二往復した等の本人は、疲れた顔色も見せず当然みたいな顔を進行方向に向けていた。

「ここから村まで、俺とカ・ルメが道を作る。夜の森は歩きにくい上にすぐに居場所と進行方向を見失う。その点、俺とカ・ルメはそういった心配がまるで無い。鼻が利くからな」

 言って、ジークは恐らくほとんど無意識的に、鼻の頭を軽く触った。

「アンタらは俺とカ・ルメを見失わないようについてきてくれ。カ・ルメか俺、どっちかについていれば離れていても村には着ける」
「まあ逆に、迷子になってもにおいで君たちの居場所を探す自信には事欠かないから、迷子即ち死みたいな緊張感は持たなくていいけどね。ただ時間を無駄にすることにはなってしまうので、極力迷子にならないようにはお願いしたい」

 はんっ、とヤコブスは鼻を鳴らした。「言われるまでもない」
 ヤコブスに視軸を向けられる。お前は勿論迷子なんていう気の抜けたことにはならないだろうな……とでも言いたげな圧を感じて、そうしてその肉声に身構えて、若干気圧された顔で応じると、しかしてヤコブスはついには何も口にせず、視軸の先を真佳の顔からジークと同じ、進行方向へとシフトした。今から自分たちは崖際から森に入るのだから、つまるところ進行方向については考えるまでもなく明白だ。

「分かった。出発しよう」

 ヤコブスが口火を切ったのを皮切りに、全員が進行方向に向かって歩行を始めた。カ・ルメとジークが真佳とヤコブスの前に出る。


月の眼


 嗅覚全てを覆い潰すような、濃厚な森のにおいがする。ああいった崖付近に好んで近づく人間など本来ならばいないのだろう。踏み固められた道は無く、木々が密集しているためにあっちこっちが根っこの凹凸でぼこぼこだ。月の数が多い分、場合によっては元の世界よりも明るく見える月の光も、高い位置に広がった葉っぱの数々に遮られてここまで光は通らない。
 先にジークが言ったように、夜の森では随分簡単に道というものを見失う。

「貴様は割合努力が出来る人間だと思っていた」

 森のにおいの海中で、ヤコブスが唐突にそんなようなことを口にした。ジークとカ・ルメは人三人分くらい開けた先で、まあどの道距離に関係なく狼人族の聴覚ならばそのくらいの会話は聞こえているのだろうと考える。

「さっきはカ・ルメと同タイプだと思ってた、みたいなこと言ってたじゃん」
「そういう話はしていない。怠惰ではあることは間違いなくそのとおりだが、君はやるべきことには向き合える」
「怠惰は肯定するのか……」

 勿論先に述べた通り、自分でも自覚済みのところではあるのだが、そうまですっぱり言い切られてしまうとそれはそれで複雑だ。
 カ・ルメを遠回しに小馬鹿にする話をしているのだが、聞こえているであろうジークもカ・ルメも、それに敢えて割って入ってきたりはしなかった。種族の違い故のプライベートな範囲の違いを、十全に理解してでもいるかのような対応だ。
 人間が出来すぎているだろうと一瞬間だけ思ったが、それもすぐに思い直した。そうか、五百年以上生きているのは間違いないのか……。であるならば、認めているからにしろ諦めているからにしろ、それくらいの距離感を保つ術は心得ていても不思議じゃない。彼女たちにとって、自分たちは童子も同然なのである。
 地面を靴が踏みしめる、ざっ、ざっ、ざっ、という音が、一瞬聴覚を支配した。

「別にそんなかっこいいのじゃなくて……私はただ、生きるのに必死だっていう、それだけだよ」

 遠い未来のことを思って何かを成したことは無い。ただ、目の前に次々と現れる難関を、毎回毎回あっぷあっぷで切り抜け続けてきただけであって。

「ヤコブスみたいに誰かを守るためとか、そんなかっこいい理由じゃない。それしか道がなかったから、自分で何とかしてきただけで」
「……」

 ヤコブスは沈黙を返した……と思った。すぐには返事をしなかったので。沈み込んだ自分の物言いに呆れてか、或いは期待外れに落胆したかして、そこで話を打ち切ったのだと考えた。

「それのどこがおかしい?」

 声をかけられて、それで真佳は自分の後ろを振り返る。よく考えたら、その答えが飛び出すまでには、ヤコブスが眉を片方跳ね上げるくらいの沈黙しか横たわってはいないのだった。

「現実を歪めて、見て見ぬふりをし続けて、それで逃げ続けるよりはよほど真っ当な生き方だろう。俺だって道楽や猶予でガプサの連中を気遣っているわけじゃない。出来ることをやっているだけに過ぎんよ。出来ることからすら逃げ続ける人間よりかは……」そこで一旦言葉を切って、「……まあ、まともだろう」
「今好意的な言葉を言おうとした?」
「余計な詮索を入れるな。していない」
「本当の本当に?」
「………………」

 めちゃくちゃ鬱陶しそうな顔で睨まれた。好意的な言葉を使おうとしたとは思えないくらいの鬼の形相だった。何なら、ダメ押しとばかりにすぐに舌打ちが飛んできた。
 まあ、別にもうどうでもいいことだ。わざわざそれを言うだけのために真佳に話しかけてくれたというその時点で、ヤコブスの心根を受け取っているも同然だ。
 さっき、初めて貴様じゃなくて君って言った。にんまりと口角が持ち上がって落ち着かない。

「……何だ、気持ち悪いな……にやにやと……」
「感情を込めて言うのやめてもらえる」

 言いながらぷいと視線を前へ向き直す。カ・ルメとジークの背中はついさっきまでより離れていたが、まだ十分挽回出来る距離だと言える。少し足早になって二人の背中を追いかけた。
 ちっ、と、ヤコブスが後ろで舌を打つ。何やら言ってくるものと思ったが、特段何も言ってきたりはしなかった。本当に褒めたわけじゃないぞとか何とか言いたかったのかもしれないが、それを言い募ったところでヤコブスのほうが不利な状況には変わらないことに気付いたのかもしれない。そういうときのヤコブスの勘は、野生動物並みである。
 結果、二人揃って無言を選択して小走りで狼人族の姿を追いかけた結果、思ってたよりも早い時期に合流を果たせた上、村の外縁に足を踏み入れることが出来ていた。
 すんっ、とカ・ルメが鼻を鳴らす――

「教会の人間のにおい、そんなに濃くない。きっとまだ首都のほうから応援というのは来ていないんだろう」
「においで分かるの?」
「まあ……」上唇を湿すように舐めてから、「教会の人間っていうのは大抵、食べてるものが上等だからね」

 ……その舌なめずりはどういう意味なんだ。聞きたかったが何だか怖くて尋ねる勇気が体に湧いてこなかった。

「まあ、あれから一日しか経ってない。魔術式を駆使したって物理的に首都からここまで、即辿り着けるものではない。幸いなことに、ここから一番近い大きな街は富裕民が統治している、言ってみれば教会の介入出来ないチッタペピータだ」

 カ・ルメの眼差しがこっちを見た――……ような気がした。
 チッタペピータ、富裕の街、吸血鬼の、
 ――真佳の頭に一挙にあの街での出来事が襲ってきて、その場にいやにリアルな血のにおいだけを残してかき消えた。

「立地が幸いしたね。あと数日は猶予がある。でも前も言ったように、この村の人間はまず間違いなく恩赦を請う。教会に秘匿した位置に村を建て、そこに枢機卿をおびき寄せ、あまつさえ死なせてしまった、なんて、この村一帯が焼け野原になっても仕方のないくらいの不祥事だ」

 ――そしてその恩赦に使われるのは枢機卿を実際に殺した実行犯。教会の人間が来る前に真佳の身の潔白を証明し、ついでに真犯人を暴き立てなければ真佳の助かる道は無い。
 村の表面を舐めるように一瞥した。静まり返った小さな村で、街灯などは何も無く、また灯火が灯っている家屋も一見して見たら無いが、森が切り拓かれたこの立地では月の光だけで大抵のものは見渡せる。月は二つ。不知夜月と小望月――満月に近しいこの二つが、まるで闇夜に溶けた鋭い黒猫の眼のようにこの惑星の地表を凝視するように睨めつける。
 村の様相が伺いやすくてこちらとしては助かるが、それは相手も同じである。村の住人から闇夜に身を隠せないというデメリットまでをも孕んでいる。

「――よし、じゃあ手はずどおりに。まずはこの外縁をなぞるように教会までぐるりと回る。森から教会までの距離は身を隠すものが無くなるので、ヤコブス一人が音を殺しながら出来る限り速やかに行動。玄関から入るのは危険すぎることと、こちらが今日赴くことはあちらに伝わっているために一旦彼らが泊まっているだろう二階の窓枠を叩くことで様子を見る」

 改めてカ・ルメは事の詳しい詳細をきちんと言葉にしてくれた。行動するのがヤコブス一人であるためだろうが、村に着いてから後の行動を真佳はこのとき初めて教えてもらったことになる。でも確かに、合流するまでを全員で行動するリスクを犯す必要は無いのだ。おまけに真佳は現在容疑者に近い存在で、村のみんなに追われている。カ・ルメとジークはさくららとは面識が無い。安全性を考慮すると、それが一番理想だろう。
 カ・ルメの言に頷いて、森に紛れ込めるギリギリの位置から村の外縁をぐるりと時計回りに回り込む。別に褒められたことではないのだが、この数日間で外縁から目的の場所に至る道筋はほぼほぼ網羅を果たしている。
 こうして角度を変えて村の全体を改めて眺めても、窓に明かりが灯った家屋はほとんど見受けられないことが見て取れる。事前にヤコブスが想定していたように、村はすっかり寝静まってしまっていた。ただ唯一、一つだけ、煌々と明かりが焚かれている家が目に留まる――真佳も何度か行ったことがあるので、暗闇の中でも誰の家だかよく分かる。死体が上がった、村長の家だ。
 視界の端、カ・ルメとヤコブスが目線を合わせて頷いて、ヤコブス一人が木々の集団から抜け出した。この世界に忍者という言葉が浸透しているかは知らないが、まさしく忍者みたいな抜け目の無い足取りで一直線に教会宿舎へと突き進む。その後ろ姿を、カ・ルメとジークの間に挟まれて真佳は無言で見送った。さくらに話が通っているということはマクシミリアヌスに話が行っていないことは無いはずだから、変に接触して諍いを起こさなければいいけれどと、変なところで心配になる。大人二人に対して抱く心情ではないのは重々承知しているが、でもマクシミリアヌスとヤコブスだからな……という思いが先に立つのは否めない。
 ヤコブスの影が家屋の角に吸い込まれ、また複数の影を伴って出現するまで、ほんの数秒しかかからなかった。真佳らと同じ茂みに入る影の数は、一つ、二つ、三つ……って、あれ?

「マクシミリアヌスは?」

 ヤコブスが忌々しげに片眉をひん曲げたのが、月下の元に曝け出される――森に入ってきたのはヤコブスとさくら、それに〝樽腹〟グイドの三名のみ。影を見ただけで一目でそれと分かるような巨体を持ったマクシミリアヌス・カッラの姿は、あろうことか影も形も見当たらない。

「残ってもらった」

 と、意外なことにさくらが言った。殺人容疑をかけられた末村を追われるように逃亡し、さくらの知らない狼人族二人を引き連れてきた真佳に対して、そんな空白など初めからまるで無かったかのように普通に怜悧に当然に。

「しなきゃいけないことの前提がまず隠密でしょう。あの巨体、月明かりの下であろうが一目で誰なのかすぐ分かる。教会の人間というアドバンテージは最後まで有効にしておきたい。ここでマクシミリアヌスが私たちと繋がっているということが村の人にバレるのは、ちょっと困るの」

 ……まあ、確かにそれはそう言われてみれば一理ある。こういう捜査に慣れているマクシミリアヌスがいないというのに心細さも感じるが、マクシミリアヌスは別に夜中にしか捜査出来ないわけじゃないのだし。むしろ真佳との関係が不透明であればあるほど、堂々と昼間に動かせる。
 でもそれにしたって。

「よく本人納得したね? 絶対来たがると思ってた」
「だから私が止めたのよ。マクシミリアヌスの有用性を鑑みて、そのほうが勝ち筋を切り開ける可能性が広がるでしょって。アイツはあれで知性と理性の塊だもの。論理的に説得して理解しないタマじゃない」

 そこまで真佳に説明してからようやっと、本当にようやっと、マイペースと言うよりかは全てを自分のペースに飲み込むみたいな傲慢さでもって、さくらはカ・ルメとジークに至極悠然と目をやった。

「初めまして。ヤコブスから短いながらも話は聞いてる。貴方たちが協力者……よね?」

 後半は心持ち柔らかな言葉遣いでもって、さくらは言った。何せ到着してから即の遠慮無い言葉の放擲に、ジークもカ・ルメも面食らったようにきょとんとしていたものだったから。

「……初めまして」

 とジークが言って、それでカ・ルメも事態を受け入れたらしかった。

「……あ、うん、そう、君たちのお手伝いをさせていただきます。カ・ルメです。こっちはジーク。気軽にカ・ルメ、ジークって読んで。……で、君が……」口の端を喜びでもぞもぞ動かしながら、カ・ルメが自分でそれから先を口にした。「サクラ、で、いいのかな」

 さくらの目線がこっちを向いた。夜空に浮かぶ月光を思わせる銀の双眼――アンタが話したのか、と、その目線だけが物語る。
 再び目線をカ・ルメに戻して、さくら。

「はい、さくらです。こっちはグイド。図体はでかいけど記憶力はいいからって、ヤコブスが」

 話を振られてヤコブスがあからさまに面倒くさそうな顔をした。こういった形式張った、社交的な事柄からは極力逃れたいタチであろうことは、何となくだが察せられる。

「時間が勿体ない。行くぞ」

 だからであろう、小さく舌打ちを零してから、短い言葉だけを残してさっさと予定通りのルートに自ら先んじて入っていった。予定通りのルートというのは、つまり外縁の木々を利用して村長宅付近までぐるりと周るという意味だ。

「ごめんねえ、ヤコブス普段からああいうので」
「グイド」

 いらいらしたように一声。「はあい」とグイドが一言応じて、ヤコブスの後ろをついて走った。マクシミリアヌスほどではないにしろ、横と縦にでかい図体が木々の隙間にだんだん小さくなっていく。
 四人の間に何となく白けた空気が漂う最中、さくらだけが「行きましょう」と、素知らぬ顔で口にした。

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