「あれ、お帰りい。随分早かったね?」

 ジークと二人、むんずとテントの扉代わりになっている天幕をめくると、カ・ルメはいやにのほほんとした声色でもってそう言った。呑気に本でも読んでいたらしく、組み立て式の椅子に足を組んで腰掛けるカ・ルメの足の上にはペーパーバック本が開かれた状態で置かれている。紙の製造がうまく一本化出来ていないこの世界では、まだまだ紙は高級品ということらしいので、カ・ルメの持っている書籍は大体が古本という扱いなのだと思う。ページが黄ばんだりという経年劣化が見られるが、彼女が見ているのは何も古書であるとは断定出来ないということだ。

「アンタこそ喧嘩しなかったろうな」

 ここまで急いできた、と言ってもせいぜい速歩き程度だったので、真佳もジークも息が乱れているわけではない。素知らぬ顔でジークが聞いた。

「喧嘩? 誰と?」
「あの黒髪のやつと」
「ヤコブスな。名前覚えてあげなよ」

 まるで不出来な弟を嗜めるみたいにカ・ルメが言うと、「知らんそういうのは」……一言で一蹴。別に嫌いなわけではなく、どうも二人の名前を見る限りほかの種族とは違う名付け方をしているようなので、そういう関係で覚えにくいだけだろう、という希望的観測を述べておく。
 カ・ルメが短く吐息して、腿の上に開いて置かれた古臭い書物を音を立ててぱたんと閉じた。

「ジークじゃあるまいし、何? 私とヤコブスが喧嘩? 突拍子も無いことを口にするね。勿論極めて平和的に話し合いは終結したとも」
「ヤコブス苛々してなかった?」
「無いよ。多分。君ら私を何だと思ってるんだ」

 と言ってカ・ルメは唇を尖らせてあからさまにぶうたれた。ジークに引き続いて真佳までそんなことを尋ねてきたから、どうも面白くないようだ。

「いやだってヤコブスがさ。共生するのに向いてない人だから……。でも良かった。特に問題が無いんならいいんだ。もしかしたら険悪な雰囲気になってるんじゃないかって、ちょっと心配になったものだから……」
「心配で駆けつけてくれたの?」真佳の答えを受けてカ・ルメ。さっきまでの不貞腐れた顔はどこへやら、上機嫌気味ににんまり笑って、「ほーう? ジークも?」
「うるさいな」

 話を振られた当のジークは、心底鬱陶しそうな顔で一蹴した。……そこで否定しない辺り、初対面の時から思っていたが、ジークってカ・ルメに甘いよなあと考える。

「二人で急いで来たんだよ」

 わざと〝二人〟を強調した。ジークが鬱陶しそうな顔をした。

「俺は別に、アンタがまた冗談半分にあの男を怒らせて面倒事にもつれ込ましやしないかと思っただけで」
「流石にジークよりは考えて喋るよ、私は」
「うるせえな!」

 抑えていた声量を爆発させてジークが言った。本日朝から続いている様々なことを揶揄って敢えてそういった言い方を取ったことにもはや間違いはなく、そんなんだから我々は心配して戻ってくることになったのだよと、口には出さないまでも真佳は心の中でそう思う。

「まあ何も無かったんならいーんだけど。夜のこと、どうするか話まとまった?」

 代わりに別の言葉を口にした。ジークはまだ弁明をしたそうにしていたが、これ以上じゃれ合わせていたらきっとジークが完膚無きまでに可哀想なことになることは、いくらか予想出来たので。

「ひとまずね」

 と前置きしてから、組んだ足と閉じられたペーパーバックの上に頬杖をつきながら、カ・ルメは思い起こすように言葉を継いだ――。

「時間は十一時頃。幸いなことに対象は田舎であって、街灯なんかも存在しない。基本的にはその時分には全員が寝静まっているだろうから、周りに明かりになるような建物も存在しないはずだ、と、ヤコブスにそう告げられた」

 ヤコブスは元々はあの村の出身だ。過去の経験に基づいた発言であることは疑いようもなく、その想定は十分信頼に足る話と言える。実際真佳も数日あの村で過ごしてきて、大体その時間に布団に入っていたので間違いない。明かりなら魔力さえあれば無限に生成出来るとは言え、パソコンやインターネットがない上に紙が安価でないこの国では、夜起きていてもすることがほとんど見当たらない。せいぜいが聖書を読むか、それとも散歩をするかの二通り――でもカ・ルメが事前に言ったとおり、あの村には散歩出来るだけの光量を発する建物がそもそも存在しない。わざわざ指先に蛍の光にも満たない光を灯して散歩をする理由も、無論あの村の住人たちには無いはずだ。その頃合い、フォスタータと呼ばれるあの村が寝静まっていると断定しても、過言などでは勿論無い。
 ただ一つ、気がかりなことが真佳にはある。

「通常だったらそうなんだろうけど、今は枢機卿殺しの犯人を――つまり、私ということだけど――」己の心臓の辺りを指し示して、真佳は言った。「探しているのだから、誰かが警備に起きていても何も不思議は無いのでは?」
「うん、それは私とヤコブスも考えた。でもそういうのはきっと夜通し警備に当たっているだろうから、頭数に入れていたら切りが無い。そういう人たちからは見つからないように気をつけつつ中に入るしかないと思う。ここまで何か質問は」
「無い」

 と真佳は即答。ヤコブスとカ・ルメが正しい。そういう人たちが二時や三時には身を引いてくれる保証はどこにも無いし、身を引いてくれない場合のほうが確率としては高いだろう。
 つまり村に行くに当たり、村人は全員寝静まっているとしても、一人か二人程度の警備は覚悟しておかなければいけないだろうということだ。とは言え相手もせいぜいがちょっと力に覚えがある程度、極力怪我はさせたくないし見つかりたくもないけれど、万一相対することになったとしてもこの面子ならば余裕で退けられるだろう。

「ヤコブスから聞いたんだけど、君のお仲間というのは教会に住んでいるんだろう?」
「うん、多分。ほかに移動になってなければ……」
「教会の中佐殿がいるんだ、下手な扱いは出来ないだろ」

 事も無げにカ・ルメは言って、そうして続ける。

「……で、どうする。合流したほうがいいって言うなら教会を経由しようって話になったんだけど、会いに行った痕跡が見つかれば今安全圏にいるその人たちにまで疑いの目が向くことになる。一応君の意見も聞いておこうという話になって」
「えー、さくらに関しては大丈夫だけど……」

 むしろここで変に気を使って仲間外れにしたが最後、一生恨み言を言われるんだろうなという確信のほうがずっと強い。さくらをヤワな女の子扱いするとむしろしたほうが被害を被る。それは多分マクシミリアヌスに関してもおんなじだ。

「ヤコブスのほうは? だってさくらもマクシミリアヌスもいるけど、ヤコブス側の仲間だって教会にいるでしょ。ヤコブスはその人たちを連れてく気でいると思っていたけど……。だからどの道教会を通らないといけなくなる」
「ああ、あっちはあっちで独自の通信手段があるから別に通らなくても村長の家で合流することは可能なんだって」
「通信魔術式持ってるってこと!?」

 ならもっと早く言ってくれたらこれほど話が早いことはなかったのにという不満を多めで口にすると、「いやいやそういうことじゃなくて」とカ・ルメは立てた右手を左右に振った。

「魔術式に頼らない方法を持ってるんだって。よく知らないけど、伝書鳩とかそういうのじゃない? ほんとによく知らないけど。本の中ではよく見る」

 ……確かによく見る方法だけど。本当にそういうのが現実的に可能なのか、それともこの世界独自の何かが他にもあるのか、カ・ルメも詳しくは聞かせてもらえなかったということだったので、真佳としてもその辺はきちんと聞かせてもらうことが出来なかったのが何だか悔しい。
 でもまあ、そういう手段をヤコブスらが持っているということに関しては驚かない。むしろ正当かな、と思う。一神教を謳うスカッリアという国で、神は同じとは言え別の宗教を信仰しているのだ。教会の追っ手がいつ差し迫るかも分からない状況、あのヤコブスが幾つかの手段を講じないほうが不自然だ。
 本当に教会に追われる立場になったら、ジークらに頼るのもいいけれど、ヤコブスに頼るのもいいかもしれない。本当にそうなったら、の話だけれど。だって、さくらが何とも出来ないで投げ出すことなど、世界がひっくり返ったって絶対にあり得ないことなのだ。

「じゃ、サクラちゃんも回収してくってことで……。私からヤコブスに言っとくね。先に君が彼に会うんなら、言ってくれても別にいいけど。そうしたら多分、そのヤコブスの仲間?というのが、サクラちゃんにも話を通してくれる算段になっているのじゃないかと思う」

 私もそう思う、というのを、言葉にせずに頷いた。とは言え、ヤコブスだってさくらの性格を重々知っているのだし、真佳らと合流すると言って聞かないだろうことは承知のこととは思うけど。
 ……マクシミリアヌスはどうするんだろう、という疑問が、当然のように湧き上がってきた。ヤコブスが連れていくとは思いにくい……が、マクシミリアヌスだって大人しくしているようなタマじゃない。二人とも、村に入った時点で騒ぎを起こすわけにはいかないということくらい認識しているとは思うのだけれど、どうにも心配が先に立つのは普段の二人のやり取りを目にしている身としては当然のことと言えるだろう。
 これに関してはあちら、つまりヤコブスの側に立つ〝大鼻〟トマスを初めとするガプサの面々に何とかしてもらうしか方法がないことが、何とも心苦しいところなのだが……こちらからではヤコブスらの通信のやり取りに割り込めない以上、ほかに方法も思いつかない。
 うん、とカ・ルメはまるで真佳に対するように頷いて、別に真佳の心中を察したわけでも無いだろうが言葉を継いだ。

「村長の家で起こったことだから、少なくとも村長がいてもおかしくないと私たちは考えている。とは言え死体が出た家だからね、別の家に避難しているとか、そういったこともあり得ないわけじゃないけれど……」少し声音を低くして、「もし同じ家に引き続き滞在しているようなら、見つからないように慎重に事を運ぶことが肝要になる。もしも見つかってしまったら、少なくとも無力化だけはしなくちゃいけない」

 その言い草は決して平穏なものでは無かったが、真佳は否定しなかった。むしろ無力化はしたほうがいいだろう。無傷で放置していたら、こちらの仲間なのではないかと村長のほうが疑われる。教会に目をつけられるというのがどういうことか、薄々真佳も分かってきていた。
 ただ、気になることが一つだけ。はい、と律儀に挙手をすると、「どうぞ」とカ・ルメが手のひらで指し示して当ててくれた。

「枢機卿にはお供が二人いたはずなんだ。一人は私の知ってる人で、もう一人は……私も知ってる人だけど、多分ヤコブスのほうが付き合いの長い人。その人たちも村長の家にいるかもしれない」
「うん、その指摘はヤコブスからもいただいていてね」

 もう一度頬杖をつき直して、カ・ルメはことりと小首を傾げて頷いた。

「一人は村に実家があるはずだから、そっちに行っている可能性が高いけど、もう一人――君がルーナと言っていたことがある、とヤコブスはたしか口にしていた。それで間違いない?」

 尋ねられて、戸惑いながらも頷きで返す。枢機卿とエルネストゥスとヤコブスと、四人でお茶を囲んだ時だろうか? よく覚えていたなと思うくらい、あの時自分が何を口走っていたか覚えていない。枢機卿とエルネストゥスと話をするのが嫌だったから生贄にしたみたいなことをヤコブスに言われたので、アドリブが苦手だということは答えた気がする。実際苦手だったがために口にした言葉を忘れてしまった。
 でもまあ、もう一人の名前がルーナであることは間違いない。真佳は口を挟まなかった。

「そのルーナって人はどうだろう、村長の家にいるか、或いは教会にいるかもしれない。そこのところは判断がつかないと言っていた。まあそこは私も判断のしようがないし、星を見ようにも今晩行動するとなると間に合わないし、ぶっつけ本番にするしかないかなって」
「ヤコブスの持ってるって言う通信は?」
「一方通行のものなんだってさ。ヤコブスからヤコブスのお仲間へ。ヤコブスのお仲間からヤコブスへの返事は期待出来ないと」

 きっと幾らも言葉を積み重ねられる類いのものではなく、もっと簡素なものなんだろう、と予測する。例えば昔の小説に出てくる、一方的で短文でしか送れなかった電報みたいな。
 通信魔術式でも持っていてくれればもっと楽に事が運んだところだが、基本的にはこの世界の魔術師は己の魔術式からのみしか魔力反応を引き出せない。双方で使える通信魔術式を作るには、まずマギスクリーバーという、個々人が指紋のように持つという魔力波みたいなものを、その魔術式上でのみ他人でも使えるよう調整する専門の術士が必要だ。教会お抱えのマギスクリーバーと好きに出会う機会は、当然教会から逃げ隠れしているヤコブスらには無いだろうし、無いものをねだってみても仕方がない。こればっかりは、諦めて受け入れるしか無いのだろう。
 真佳は神妙に頷いた。

「分かった。私もそれで異論は無い」

 頷いて、そのまま視線をジークのほうへ。ジークは怪訝げな顔をして、「俺に聞くな。アンタらがそれでいいって言うならそれに従う」了承しているみたいなことを口にした。それを請け負って、というわけでも無いのだろうが、カ・ルメがうんと頷いた。

「それで、深夜から明け方にかけて行動することになるから、ここしばらくは朝昼に寝ておこうって話になって」

 言ってる途中からカ・ルメは既に欠伸を一つ漏らしている。狼人族は夜型であるというようなことを言っていたような覚えがあるので、そもそもこの二人にとって今起きていること自体が異常なのだろうと考える。

「分かった。行動の一時間前に起きとけばいい?」
「うん、十時にテント前で……。まあそこら辺は適当に」

 聞くからに眠そうな声で彼女は言った。膝に置いているペーパーバックにちらりと目をやる。ヤコブスと話し合った後、真佳とジークが帰ってくるまで起きている必要があったために読書をしていたのかもしれない……などと、ちらりと思う。そうだとすると申し訳なかったな、とも。

「何か物音があれば俺なら起きられる。カ・ルメはゆっくり休養しておけ」
「うーん、そうする……。ありがとー」

 膝の上に置いていた本を組み立て式の簡易テーブルの上に起きながら、もう一度カ・ルメは欠伸を漏らした。伝えるべきことを伝えてしまった瞬間に緊張の糸が切れたみたいだ。
 ……ともあれ、真佳が気になるのはそういうことではなくって。

「……何だその目は」
「別にい? 優しいんだなーって思っただけ」

 休養しておけ、だって。あんな優しい声音で話すジークの声を初めて聞いた。

ソンニ・ドーロ~黄金の夢を~

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