……何だかんだと理由をつけて、真佳はカ・ルメと離れて森の始まりの縁をふらふらと歩くことにした。ヤコブスと話したいことがあるからとか何とか、そういうようなことを言ったような気がするが、脳を通らずに反射的に喉から飛び出たその言を、正確に覚えているかどうかは自信が無い。

 ――私はもう、後悔する生き方をしない。

 カ・ルメが硬い口調で言ったことを、もう幾度となく頭の中で繰り返し繰り返し反芻している。カ・ルメは気付いているんだろうか。頭の悪い子ではないから、きっと気付いているんだろう。真佳が咄嗟に思い至ってしまったように、それは己の両親との……ひいては、カ・ルメの今属しているあのコミュニティーとの決別だ。
 アンニュイな気持ちを呼び起こさなかった、と言えば嘘になる。真佳に出会ってから……真佳に出会ってから(・・・・・・・・・)、後悔しないと決めたと言った。それは逆に考えれば、真佳と出会わなければ(・・・・・・・・・・)そうはならなかった、ということになりはしないだろうか。
 ……時々考えることがある。真佳がこの地に降り立たなければ、首都ペシェチエーロ周辺を飛び回っていた暗殺者の少年は今も元気に生きていたし、何らかの良い出会いによって正当な裁判の末に真っ当な道を歩み直していたかもしれない。教会で給仕をしていた青年は尚も神に献身を注ぎ、幸せでささやかな人生を全うし続けていただろう。南の街スッドマーレに住まう新聞記者は今もスクープを追い求めて人々にうんざりした顔を向けられながらも生き生きとした顔で街中を駆け回っていたかもしれないし、富裕の街チッタペピータに住まう自称吸血鬼と、それと懇意にしている暗殺者の闊達な性格の女の人は、今も出口の無い会話をぐるぐるとし続けては、そこに居心地の良さをお互いに感じていたかもしれなかった。
 もちろんそれは理想論で、態のいい夢物語で、そうして他人の幸せを勝手に決めることは不道徳だということも分かっている。それで助けられた人は間違いなくいるし、真佳がいたことでいい方向に働いた物事を全て無視して自分がいなければ、と夢想してしまうのは、彼らにとってもひどく失礼なことである。現にチッタペピータの吸血鬼は生を望んでいなかったのだから、彼が生き続けることを幸せと断定したのでは彼に無用の親切だと即座に怒られてしまうだろう。それでも――。
 それでもずっと考える。
 運命を歪めてしまった人のこと。
 その結果、生を落としてしまった人のこと。
 真佳は決して潔癖ではないと、真佳自身が識っている。


火先



「何をしている?」……警戒で塗り固められた鋭い声をかけられて、真佳は条件反射的に視軸をそちらへ流しやる。視線の先にはヤコブスがいて、やや驚いた顔つきで金の双眼を見開きながら、「……何だ、貴様か。紛らわしい」
 ……突然誰何の声を投げかけられたのはこちらなのだが。ヤコブスはそんなことはお構いなしに、咥え煙草の火先を自分の指の腹で苛立たしげに揉み消した。まるでこっちが悪いみたいじゃないか、と、真佳は半眼混じりに考える。

「……誰だと思ったの?」
「狼人族の片割れだよ」

 尚も苛立ちを隠すことなく揉み消した煙草をズボンのポケットに突っ込んで、新しい煙草を咥えて火をつける。細かい作業に向いていそうな細く繊細な指先が荒々しく動かされるのを真佳は黙って見届けた。どちらかというと、ヤコブスが魔力でもって編み出した、その小さな炎の揺らめきを。

「ジークのほう?」
「ああ、まあどちらでも構わん」
「ヤコブス、めちゃくちゃ怒ってるじゃん」
「あいつらが自分たちの属する側に俺たちを引き込んだつもりでいるからだろう。あれやこれやと詮索して……」荒々しく口に含んだ煙を吐き出しながら、その火先で真佳を指して、「貴様もあれこれ詮索しに来たクチか、アキカゼ」
「…………」

 一瞬呆けた顔でヤコブスを見たまま固まってしまった。

「……あ、あー、いや、別に、そういうつもりではなかったよ」

 別に汚れてもないはずのハーフパンツ(長ズボンを膝下まで折り込んでいるだけだが)の裾をぱたぱたと、土埃でも払うみたいな妙な挙動をつけてしまった。怪しまれたかも。伺うようにヤコブスを目線だけで見上げると、かの長身の男は別に興味を示した風でもなく「ふん」と鼻を鳴らして眉間にシワ寄せ、別に美味しくもなさそうに煙草を肺に入れている。チョコレートの甘苦い香りが、真佳の元へも漂った。
 ……アキカゼって、今、初めて呼ばれた気がする。

「貴様も勘違いしないことだ。あれらとは、たまたま利害が一致したからお互いがお互いを利用しているだけの関係だ。それが無ければ出会うことも無かったろうよ。要は目的を遂げるまでの繋ぎに過ぎん。安易に心を開いてべらべらと余計なことを宣うなよ」

 忌々しそうにそう言って、また荒々しげに煙草の煙を吐き出した。……アキカゼと個体名で呼んだこと、この分じゃあ本人は気付いてなさそうだ。
 ジークが必要以上に苛々したふうでヤコブスから離れた位置に佇立していたのを思い出して、そういうことかあ……と思わず頬が引き攣った。

「喧嘩してるんじゃん」
「そんな間の抜けた話なものか」唾棄するような言い方で、「いいか、俺たちは、協力を受け入れはしたがあいつらに与したつもりは一切無い。むしろ協力させてくれと頼んできたのはあいつらのほうであるからして、主導権はむしろこっちが握っていると言ってもいい。今後、こちらの行動を万が一にでも制限するようなことがあるのなら、俺たちは即刻下りさせてもらうと、あの狼女に伝えておけ」
「ヤコブスが伝えなよー……」
「あれと曲りなりにも仲良くなっているのは貴様だろう……ああ、くそ……まかり間違ってでもほだされて帰って来んことだ、貴様を教会に突き出す処刑人の名前に、俺の名を刻みつけたくなければな」

 頭を掻きむしりながらの、ともすれば聞き漏らしそうになる早口の言いように、真佳はつい苦笑いを零してしまって咄嗟に何も言葉にすることが出来なかった。ジークは反省してくれたけれども、どうやらこっちに関しては絶望的だ。ヤコブスの堪忍袋の緒が切れる前に、何とかして事態を解決してとっととこの地からおさらばしてしまわなければ。

「ヤコブスには一応の確認なんだけど」

 と真佳は早々に持ち出した。怒りが頂点に到達して何も応じてくれなくなる前に、緊急で確かめたいことがある。ヤコブスは何も言わなかったが、片眉を持ち上げることで先の話を促した。

「ちょっと遅れたけど、今日の夜、当初の予定通り村に連れていってもらうことになった。ヤコブスも来てくれる……ってことで、いいんだよね?」
 ヤコブスは怪訝そうに片眉を跳ね上げて、「俺が行かん理由が何かあるか?」硬質な早口でそう言った。質問されるのも煩わしいといった態の応答だ。

「念の為。勝手に決めるのも申し訳ないので」
「そうかい」

 面倒くさそうにそう言って、面倒くさそうに煙草を吸った。真佳の言い分を認めたというよりは、これ以上面倒事を引っ張りたくないといった風だった。

「あと聞きたいことがあるんだけど」
「まだあるのか」
「ヤコブス、ここをうろついてたんでしょう。上に上がれそうな道はあった?」
「――」

 うんざりしているのを隠そうともしない声色から一変、鋭い視線でヤコブスはこちらを一瞥した。まるでやっと意味のある言語で書かれた本を見つけたみたいな一瞥で、つまりそれだと今までの会話が無意味と認定されていたって話になってしまうわけなんだけど。
 ヤコブスはじっ……と真佳を見据えていた後、片頬を歪めて「はんっ、」と、嘲るように笑った。

「愚鈍に信じ切っているものと思ったな」
「別に信じてないわけじゃないけど、盲目的に信じられるほど甘い世界とも思ってないので」

 吐息するののついでのように煙草の煙を吐き出して、ヤコブスは暫し、思案するような間を置いた。人差し指と中指とで挟んだ煙草の火先を上下させて、たまに唇に持っていっては煙草の煙を肺に入れ、思考をアウトプットするみたいに唇の先からくゆらせる。火先から緩やかに立ち上る歪んだ煙は、まさしく思考を整理するために綴られた、メモ用紙の束のようにも見受けられた。
 ……思案に徹しているから、だろうか……。先ほどまで立ち込めていた怒りや激情といった表情は、今のヤコブスの顔貌からは伺えない。
 煙草の火先を崖の上、その縁をなぞるように滑らせて、ヤコブスはついと口を開いた。

「結論から言うなら、見当たらなかった――残念なことに」

 ヤコブスが示す先を真佳も仰ぎ見て、続く言葉を耳にする。

「全部を見たわけではないが、少なくともテントから走って行ける距離には見当たらない。狼人族がおらぬうちに、万一ここにまで敵陣が攻めて来るようなことがあれば、俺も貴様も覚悟を決める以外道はない」
「それってどっちの? 捕まる覚悟ということ? それとも……」

 真佳の後ろで、ふ、と、ヤコブスが笑うような音がした。初めて聞くかもしれない穏やかな笑声に真佳は思わず後ろを振り返ってみたものの、その時には既に、さっきの笑声など幻想に過ぎないとでも言うかのように、ヤコブスはいつもの平静な無表情に戻っていた。
 真佳の質問に、どうやら本人は答える気持ちが無いらしい。それまで崖の縁を示すのに使っていた煙草を唇に近づけてゆっくりと堪能するように一服した後、ヤコブスは別の事柄を口にした。

「ともあれ、俺も貴様も、今はあの狼人族に行き来を委ねるしかないということだ、忌々しいことに」
「もっと向こうのほうは見てないんだよね?」
「見ていないが、見に行くつもりか? 居住地よりも離れた場所の道など、咄嗟のときに何の役にも立たん」
「いや、まあ、それはそうなんだけど……」

 可能性の話をしたのだが、でも……ヤコブスの言うとおりかも。続く道があるかもしれないが、それは有用性には程遠い。テントの位置を変えてもらうというのも一つの手だが、そのために大冒険をしていては、枢機卿を殺した人間を見つけ出す、という当初の目的がなあなあになってしまうだろう。
 これがカ・ルメやジークの思惑によるものかは定かではないが、少なくともヤコブスはそう考えてはいるようだ。
 難しいなあと真佳は思う。ジークと話をしたとおり、お互いに無駄な軋轢を生じさせたく無いと考えているのは同様だ。それなのに、どうにも平和的な和解に進まない。疑心暗鬼がお互いの溝を深くする(ヤコブスがそう思っているかどうか、明確に口に出したことはないが、効率を重要視するヤコブスのこと、このいざこざが非効率的であるということは理解しているものと思う)。

「……ヤコブス、ジークやカ・ルメと仲良くしたいと考える?」
「全く」

 お前は今まで何を聞いていたんだみたいな顔で一蹴された。何故自分は今、人類の歴史が何百年かけても解決出来ていない問題に直面しているのだろうかと、真佳は頭を抱えたくなってきた。

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