「その人は東から来たと言っていた。ちょうど君たちと同じように」

 手元で回転する葉っぱに語りかけるみたいに、囁くようにそう言った。

「その前に、アルブスの民のところにいたらしい。私もよくは分からない。アルブスの民のことはあまり外では語ってくれるなと、そこで言われたことを忠実に守っていたんだね。私たちも別にアルブスのことが気にかかっているわけじゃあなかったので、そこにはほとんど話が飛んでいない。そんなことより異邦人のいた世界、異邦人が見た我が世界、そして神のことに話が飛んだ」
「神……」
 真佳が呟くと、カ・ルメは微笑った。「そう、神!……だって、神ソウイルはその力を残してこの世界の誰の目からもお隠れになってしまっただろう? 神ソウイルと言語を交わすには、当時も今も我々は神託を授かるための媒介者を別に必要とする。でも、異邦の地では?……そこは神が健在する、神の地かもしれなかったから」

 ……不思議なことを言うんだな、と真佳が思ったのは、神や宗教というものに縁遠い国で生まれて成長してきた故かもしれない。この世界に神がいないのならば、では異世界になら神が在らせられるのかもしれない――などという考えに、真佳は至ったことがない。それは新鮮で、実に精彩な考えだ。

「結論から言うと、異邦人は神ソウイルを知らなかった。いや、正確に言うと、それがこの地にどんな影響を与えた神かは知っていた。『君たちの創造主だろう』『魔術についてはこちらも随分世話になった』『善き神に守られているものだ』……神ソウイルについて、異邦人は否定的な言葉を扱わなかった。神ソウイルでなく異邦人を神聖視した今なら分かるけど、そりゃそうだ。当人が崇め奉っているモノを悪し様に言って、この地で旅が続けられるはずがないものね」

 どこか他人事みたいにカ・ルメは言って、苦笑交じりに肩を竦めた。まるで若かりし頃の自分を恥じている仕草のように思えたが、真佳としては、五百年経っても人間は精神的成長をやめないのだなということのほうが驚きだ。

「神ソウイルと会話したことが無かったことは残念だったが、私たちの神をきちんとした敬意をもって接する、そんな異邦人と話すのがつい楽しくなって、毎日のように通ったとも。その時、かの異邦人は族長のテントを間借りしていてね、ジークを引き連れて族長のテントに遊びに行った。ほら、我々長命種と言われているだろう? 種の存続の危機というものをあまり感じないものだから、子どもが生まれるということ自体結構稀で、ジークと年が近いのも半ば奇跡に近いんだ。だからだろうと思うけど、昔っから二人で行動することが多くてね。魂の片割れって言われても納得するくらいには、ずっと行動を共にしているかもしれないね」

 ……ではやっぱり、兄弟とかではなかったんだなと腑に落ちた。兄弟だと思っていたわけではないけれど……族長宅で出会ったカ・ルメの両親らしき男女が、ジークのほうをあまり気にかけていなかったためだ。兄弟であるならば微塵も気にかけていないのは不自然のような気がする。顔立ちも似てはいないと思うのだが、カ・ルメのほうは分厚い眼鏡をかけているため、目鼻立ちという点では実質よく分からなかった。
 幼馴染、というのなら納得する。あの距離感は、血とかそういうものでなく、お互いの人生の交わりだけで形成し得るものではないかと思うので。

「ああ、因みに……その当時の族長というのは、今の族長とは別人になるんだけど」
「えっ、そうなの?」

 驚きが口に出たが、でもまあそれはそうか……。長命種とは言え、五百年も経てば族長が変わることくらい……。

「異邦人がやって来たことで、我々一族が真っ二つに割れたのさ」
「……ええっ?」

 我ながら間の抜けた声が出た。前の族長が亡くなったとかの普遍的な理由を想像していた。

「仲間割れ……ってこと?」
「うーん、流石にそこまで刺々しいものでは無かったんだけどね」

 つまんだ葉っぱに向かって、カ・ルメは困ったように吐息した。昔話を始めてから、カ・ルメはずっと真佳を見ない。

「いわゆる、異邦人を崇め奉る派閥と、引き続きソウイル神を崇め奉る派閥にぱっくり分かれてしまったのさ。前の族長は、異邦人を崇める側の派閥だった。ずっとソウイル神こそが神だと信じて生きてきたんだ。崇めるものが違う者との対話の仕方を、私たちは当時持ってはいなかった。結果としてなあなあなままに分かれて暮らすことになってね。異邦人はそれに心を痛めたのか、いつの間にやら姿を消したし、彼らがその後どうしているのか、私にもよく分からない」

 そっか、としか、真佳には言いようが無かった。重ねて言うが、秋風真佳という人間は神や宗教というものに縁遠い国で生まれてきたのだ。いや、正確には、神は身近に過ぎたのだろう。数多のものに八百万の神が宿る日本という国で、誰か一人を殊更崇め奉るという発想が真佳にはどうしても及ばない。
 ……あれ、と、しかしそこで思う。
 カ・ルメは、族長が変わったと言っていた。前の族長は異邦人を信奉する側だった、とも。

「……カ・ルメは、その異邦人を信奉する側にはつかなかった、ということ……?」

 己で言っておきながら、おかしな話だと思っている。真佳らと会ったときからずっと、カ・ルメは異世界人を信奉する言葉を投げかけ続けていたはずだ。そんなカ・ルメが、異世界人を信奉する派閥に与しないということがあり得るだろうか?
 しかしカ・ルメは首肯した。真佳の考えが当たっているということを、カ・ルメ本人が認めたのだ。

「まあ、そう――何と言うのかな、私も、もちろんジークも、今では正直ソウイル神よりも五百年前のかの異邦人のほうを、真に崇め奉っている。でも、そちらの組に属することは出来なかった」
「…………どうして……?」

 空白が出来たので促す意味で問いかけると、カ・ルメは昔話を始めてから初めて、真佳のほうをまともに向いた――瓶底眼鏡で表情は見えづらいものの、その唇からは苦笑のような哀愁のような、そういった微笑が乗っていた。

「端的に言うならば、私たちは親を見捨てることが出来なかった」

 横薙ぎに風が吹き上がり、カ・ルメの持っている頼りなげな木の葉が一枚、風に煽られ強く右側に揺すられた。カ・ルメのおさげと真佳の長髪も、同じ方向に煽られる。
 ……カ・ルメとジークの両親は、二人と違って異邦人を信奉することをしなかった。そういうことか……と昏い気持ちで慎重に、ゆっくりと唇を湿らせる。
 一族、特にカ・ルメらのような放浪の民が二つに分かたれるということは、二度と会うことが叶わないということを意味してしまう。崇め奉るものを尊重して主張を異にするということは、自らの両親に二度と会うことはないと告げ知らせるということだ。
 昨日、カ・ルメの前に姿を表した両親の姿を想起する――カ・ルメが当時、そして現在、どういう思想を伴っているか彼ら彼女らが知っているかは不明だが、あの相当な心配ぶり、少なくとも何度かは両親を心配させるような“何か”を、カ・ルメがやらかしていたのは確かのように思われる。

「そのこと、ご両親は知ってるの?」
「私たちがソウイル神でなく、本当は異邦人のほうを崇め奉ってるって話?」

 カ・ルメの発言をきちんと脳内で反芻して、慎重に真佳は頷いた。きちんと聞いていないと、混乱して聞き違えそうな気がしたから。

「知ってるよ。少なくとも私がそうだということは。ジークは特に強く主張をしなかったから、きっと私に悪い影響を受けたんだと親御さんは思っているんじゃないかな。まあ、どちらにしても、当時は、という意味だけど。今、私がどういう主義主張をしているか、二人に改まって話したことは一度もないし、ソウイル神への最低限の礼と祈りは続けているから、まあひとまず分かってくれた……と、考えていたんじゃないかな」
「過去形なんだね」
「そりゃまあ、昨日君を、異邦人だと意気揚々と連れて行っちゃったからなあ……」

 さすがにそれに対しては自分でも悪手だったと反省しているのか、苦笑交じりにカ・ルメはあいている手で自分のおさげをいじくった。

「まだ異邦人を信奉しているんじゃないか、それでなくとも、今改めて異邦人と交わったことで、再び邪教に傾倒しやしないだろうか……と、まあそういうことを考えていても不思議じゃない」
「ジークのご両親は出てこなかったけど……」
「うん? うーん、まあ……五百年以上経ってなおああまで過保護なのは珍しいほうでね……。ジークの親御さんはそこんとこ放任主義っていうか、まあそのほうが普通なんだけど……。どうにも、本人たち待望の子どもということで、未だに子離れが出来てないっていうか、マジで五百年以上生きてるこっちが恥ずかしいんだけど……」

 などと渋い顔をして、握りしめていた木の葉を厳しい目で睨み据えてから(……かどうかは眼鏡のせいで分からないが)、親の仇みたいにそいつをぺっと地面に捨てた。親の仇、というか、多分親そのものに重ねた故の行動なので、この言い方も違和感を覚えないでもないのだが。
 言われてみればそりゃそうだ。カ・ルメは一見、自分たちと同い年か、ちょっと上くらいのお姉さんに見えるものの、五百年前の異世界人に出会ったことのある年齢の言わばいい大人である。狼人族の成人が何歳になるかは不明だが、五百年生きてて親のあの反応では、流石にいたたまれないものもあるだろう。

「実際には私はずっと異邦人だけを信奉し続けてきていたし、今改めて再燃したとか、そういうことでも無いんだけどね」

 と、カ・ルメはシニカルに苦笑した。親の心子知らず、という言葉があるが、その逆の場合は子の心親知らず、とでも言うべきなのか。そういったことわざがあったかどうか真佳の記憶としては曖昧だが、それはともかく……。
 カ・ルメが異世界人に出会って宗旨替えした以降五百年、カ・ルメは両親を安心させるために欺き続け、そして両親は危惧をしながらもそれでひとまずは安堵した。そういった、例えるならウミガメの甲羅の上に象でも乗っかってバランスを取っているみたいな、少しでもバランスを崩そうものなら一挙に世界が崩落するような、そういう微妙な平衡感覚の中でカ・ルメと両親は生きてきた。今、実際に象が足を滑らせるか、あるいはウミガメが自身の甲羅に乗っかったそれの重さに耐えきれずに挫けてしまいそうになっている。

「フォロー……は、しなくていいの?」

 というと、カ・ルメは、「うーん、どうだかな」と苦笑した。背中のほうで両手を組んで、革のブーツの爪先で岩が大半を占める地面をこつこつこつと叩いている。よく見ると岩には僅かな窪みがあって、そこにいくらか堆積した土を掘り起こそうとしているらしい。それに意味があるとも思えなかったが、カ・ルメは少なくとも、このとき真佳でなく地面の窪みと、自分の靴の爪先とに視線をやっているようだった。

「もうそろそろ、飽いているんだ。両親の顔色を伺って、いい子にしている自分というものに」

 穿たれた石に積もり積もった土塊だけに意識を集中させたまま、カ・ルメが言った。

「……本当を言うなら、五百年前から。この五百年間、異邦人を信奉する側に飛び込まなかったことを、私はずっと後悔していた」

 革靴の先端と石の表面とが乾いた音を響かせて、それに混じって、カ・ルメの靴底に踏みにじられた小石混じりの砂粒が、じゃりじゃりと挽き臼で擦り潰されてでもいるかのような乾いた音を立てている。真佳はそれを一歩引いたところで、黙って見て、聞いていた。

「だから――うん、そうだね」

 カ・ルメの靴の爪先が、土を掘り起こすのをやめていた。まだ未練がましげに石の表面に靴の爪先を立てて添えていたのだが、やがてはそれも諦めたみたいに踵を地面に落として曰く。

「私はもう、後悔する生き方をしない」

 真佳からは、このとき、カ・ルメの右斜め後ろから見た後頭部しか見られなかった。土を掘るカ・ルメの表情が、真佳には見えていなかったのだ。だからこの後、ゆっくりと振り返ったカ・ルメの顔を、真佳は有り体では見られなかった。吹っ切れたような様相でこちらを見据えるカ・ルメの顔を。

「君に出会ってから。私は、後悔しないと決めたんだ」

 ――それは決別だと、真佳は思う。


宵の明星

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