ざっ……と木の葉が風に強く揺られる音。森の木々が早朝の空にざわざわとざわめき、この二ヶ月ですっかり腰まで伸びた、真佳の癖を帯びた黒髪が、風に攫われて宙を舞う。

「来たな」

 とヤコブスが言ったのとほぼ同時期に、真佳のほうも“それ”を感じ取っていた。森の中に隠れた一本の木の上、そこに二人の人間の気配がする。……いや、正確には、“人間”と数えていいのか不明だが。
 風で煽られた木々の隙間から、文字通り風みたいに颯爽と地面に降り立って、

「や」

 カ・ルメとみんなに呼ばれている彼女はひどく軽薄に片手を上げて、挨拶代わりにそう言った。


バーゼ・セグレータ



「ジークも来てくれるとは思わなかった……」

 とは言ったものの、実際のところ来ても可笑しくないなとは思っていた。カ・ルメが昨日ジークの名前を話題にしたのもそうではあるが、ジークにとってのカ・ルメとは、即ち真佳にとってのさくらと同じくらい価値のある人間なのじゃないかと思われたので。カ・ルメがそうしたいと言ったなら、粛々とそれを遂行する任に就くだろう。

「来たくて来たんじゃない。成り行きだ」

 と、憎まれ口をジークは叩く。
 ヤコブスはこちらには取り合わず、カ・ルメのほうに直接問うた。

「安全地帯は見つかったんだろうな」
「任せてくれよ」森の中を足早に歩きながら、カ・ルメは安請け合い並みに請け合った。「ここらは私の縄張り……というわけでも無いけど、それなりに踏破はしてるんだ。人の寄り付かないところの一つや二つ、当たりをつけるのは簡単だよ」

 昨日の族長との対面から一転、ぺらぺらとよく回る舌で軽口を叩きながらも道を辿るその歩みだけは慎重だ。斯くいう真佳だって、ここばっかりは気を抜いて歩くわけにはいかなかった――大きめの岩がごろごろと散在し、地面から露出した根っこがまるでそういう呪いみたいにうねうねと陸地へ侵食している。こういうのこそ、この国の信心深い人にとっては、悪魔の使者の前兆だとか言われて然るべきなんじゃなかろうか。
 カ・ルメとジークが真佳とヤコブスを迎えに来てから、四人揃って森の中に入るまで、そう時間はかからなかった。真佳が何か言う前に、「早く。あんまり人に見られたいとは思わない」と、いつになく真剣な様子のカ・ルメに先を急かされたからである。森の中に入ってしばらくはカ・ルメ、ジーク双方真剣な面差しで平坦な森を分け入っていたため話しかけるタイミングがつかめなかったが、足場が不安定になった頃合いになって、漸く二人は緊張を解いたらしかった。
 因みにの話、ヤコブスは安全地帯云々と言ったが、崖上に送られてからこっち、真佳の口からもカ・ルメの口からも、昨日の話をヤコブスにした覚えは無い。本当に想像だけで決め込んでやがる。それが間違っていないっていうのが何だか癪だ。

「ほら」

 カ・ルメは大きな岩の頂点で立ち止まってあたりを眺望するような動きを見せた。地に足をつけていた状態では分かりにくいのだが、この岩、優に三メートルくらいの高さがある。これまでの地面が傾斜していたために、奇跡的にこの馬鹿でかい岩の上に足を乗せる機会を賜った。
 ……真佳の今の地点から見て八十パーセントが地面に埋もれたこの岩の正式な高さを測ることが出来たのは、カ・ルメがこの岩の地面から露出している縦半分、つまりこの岩を皮切りに断絶している三メートル下のほうを、真佳らに披露したからだ。
 カ・ルメが指さした先は三メートルの崖を下った下方で、大きめの岩が散在し、木々の茂みに溢れた見通しの悪い土地である。岩や木の根が平坦の邪魔しているために広間と言うには抵抗があるが、一応広間と言えなくもない。そのすぐ向こうには森があって、カ・ルメが指しているのは森に入ったすぐそこだ。
「……?」カ・ルメが何を指さしているのか分からずに数秒目を凝らしてから、「あっ」とそれに気が付いた。
 森の木々とぼうぼうに生えた茂みの間に、明らかに人工物の何かがぽつんと主人の帰りを待っている。自然に紛れ込みやすい緑色なので見にくいが、あの質感はテントの類いで間違いない。

「持ってきたの? テントを?」

 カ・ルメのテントが狼人族のあの界隈から消えようものなら流石に抜け出したことは一目で分かってしまうだろう。心配する真佳をよそに、しかしカ・ルメは否と言う。

「私のテントっていうか、古びれて使われなくなったのをね。一族のそういった、どこで使うか分からない不用品も族長の倉庫に入れられるんだけど、どさくさに紛れて拝借してきちゃった。色もちょうど良かったし」

 などとあっけらかんと。自分がその族長の静止を振り切って、こんなところでどこの馬の骨とも分からない人間相手に好き勝手やっているということについて、何らの後悔も無さそうだ。それがいいことなのか悪いことなのか、真佳には判別つきかねたが。

「あそこに降りる」

 肩幅まで足を広げて、わざわざふんぞり返るように屹立してからカ・ルメが言った。何となく分かっていたので、真佳は驚かなかった。溜息混じりに一言。

「また私とヤコブスがジークに抱えてもらって……?」
「ご明察!」瓶底眼鏡の奥で笑いながら。「あ、お望みなら私が運んであげてもいいんだけど」
「断る」

 カ・ルメのそわそわしながらの申し出を、普通にヤコブスが切って捨てるように断った。「そんな即答しなくても」と、カ・ルメは不満そうな膨れ面。

「……あのう……」

 真佳は遥か下方――と言っても三メートル程度なので、狼人族の洞窟に連れていってもらった時よりかはソフトであると期待するが――に設置されたテントを見下ろしながらおずおずと、伺うように――カ・ルメよりも後方に控えているジークに視線を投げて、言葉を継いだ。

「前回より、もうちょっとだけ、優しくおろしてもらえると……」

 ありがたいのだけど、ということを口の中でもにょもにょ付け加えると、ジークに「はんっ」と笑われた。鼻で。
 もしかしてちょっと楽しんでるんじゃないかと真佳は思った。
 前回と同じ要領で(とは言え前みたいに無理やりにでなく)、ヤコブスも真佳も同意の上で左右の肩にそれぞれ担ぎ上げられる。……そう、それぞれ。あの時はそんな余裕は無かったが、改めて思うとそれだけでもすごい技量だ。曲りなりにも鍛えてると言える大の男を、女子高生と同じ要領で、軽々しく担ぎ上げてしまうなど。
 ジークは時間をかけなかった。一人軽々しく飛び降りたカ・ルメに続いて、……一瞬追っ手でも気にするように背後に視軸をやってから、三メートルの崖上から何ら躊躇することもなく飛び降りた。一瞬胃の腑が浮き上がった――と思ったら、既に崖下に降りていた。「…………」あまりに一瞬で済んでしまったので、拍子抜けして真佳は目をぱちくりと瞬かせた。ジークが丁重に(とは、よく考えたら言えなかったかもしれない。少なくとも雑では無かった)地面に下ろしてくれて、硬めの地面の感覚を靴の裏側で感じてから、ようやっと息を吐き、崖の上を仰ぎ見た。思ったより一瞬だった。

「あの洞窟へは一飛びでは行けねえんだ」

 真佳から手を離し、既に興味も無さそうに真佳から離れようと歩き出していたジークと呼ばれる狼人族が、離れる間際に小声で告げる。

「こんな低い崖、あの時並みの雑さで落下しろっつうほうが無理な話だ」

 はんっ、と、再び鼻で笑ってそう言った。

「………………」

 落下する前に言ってくれればいいものを、真佳が怯えているのを見てやっぱり楽しんでやがったな?
 去りゆくジークの縦に長い背中を見送りながら考える。睨み付けるとか怒るとか、そういった感情は拍子抜けのあまり湧き上がっては来なかった。人騒がせな……という呆れと、早く済んでしまったことへの安堵みたいなものがある。何にせよ、あの時みたいな三半規管をシェイクされる感覚を再び味わわずに済んでほっとした。

「テントは二つ拝借してる」

 カ・ルメが森の出入り端付近を指して言うのでよくよく目を凝らして見ると、確かに奥のほうにもう一つのテントがあった。木陰が邪魔をして本来の色が分かりづらいが、手前のものよりさらに濃い色をしている気がする。ここは森が深く、人が立ち入れるような立地でもないためか、崖上で横切った森のそれよりも、飲まれそうなくらい影が濃い。

「私とマナカ、ジークとヤコブスで分かれて使う」

 左右それぞれの人差し指を立てて分けるように互いの距離を取りながら。……まあ、それは妥当なことだろうけども。ヤコブスとジークのテントか……。息が詰まりすぎてどっちかが窒息死しないかどうかが心配だ。

「手前を任せていいか? ジーク」

 と傍らのジークに尋ねると、話の内容云々よりもカ・ルメにそんなことを聞かれたこと自体が心外だとでも言うように、ジークは片側の眉を跳ね上げた。

「誰に物を言っているんだ。当然そのつもりだ」
「いやあ、一応念のためだって。じゃあ村側の見張り含めてよろしく。ヤコブスにはそこに付き合ってもらう形になるけども。ごめんね、テントを三つ持って出る余裕は無かったもんで」

 カ・ルメの軽口にヤコブスは返事をしなかった。肩を竦めて視線を外し、そのついでに岩場を避けて立つ木々の数々を視線で舐めただけだった。真佳もそれにつられて視軸を変えたが、左右ともに木々は絶え間なく生え続けていて果てというものが見当たらない。きっと地平線の向こうにも木々の放列は続いていくのではないかという、変な錯覚に囚われる。
 カ・ルメはヤコブスの無愛想さに少し鼻白んだようだったが、結局何も言わずに肩を竦めることで応酬した。諦めた、と言うよりは、もともと興味を持っていないみたいな淡白さだったように思われる。
 代わりにこっちに向かって、「マナカ、マナカ」と手招きしてくる。

「君は私と同じテント」

 と言って、ジークやヤコブスを尻目に奥のほうのテントへと入っていくので、手招きされた手前行かないわけにもいかず、ちらっとヤコブスの顔だけ見てからカ・ルメのテントへ入っていった。ヤコブスはこちらに右頬を向けて、森の中を見ていた気がする。当然視線は合わなかったので、真佳の視線に気付いた様子も全然無かった。別にいいけど。どうすればいいか困って視線を巡らせた先が、たまたまヤコブスだっただけなので。

「マナカが女の子で良かった。おかげで同じテントに泊まれるもんな。今日ほど自分の持って生まれた性別というものに感謝したこともないよ」
「そんな大袈裟な……」

 若干辟易しながらそう言った。
 カ・ルメのテントであるからして、あの洞窟の中で見た、本に支配された足の踏み場も無い状態になっているのではないかと一抹の不安を抱えていたのだが、入ってみるとそこは雑然とは程遠い、家具が無さすぎるほどに殺風景な場所だった。幼いころ、キャンプに連れて行かされたときのそれと似ている。寝袋が二つとランタンが一つ。あとはカ・ルメの荷物らしい、ぱんぱんに膨らんだ大き目のリュックサックが一つ切り。
 いくら読書が好きと言ったって、雪崩が落ちない保証も寝る場所も無い場所で落ち着いて寝ることは出来ないだろうなと漠然と考えてしまっていたので、ほっとしたと言うよりは拍子抜けして狭いテント内を何度も眺め回してしまった。真佳のリュックも置いてしまうと、もうそれだけで満杯になりそうだ。

「古いテントだからどーしても広さはね。あ、穴があいてないかだけはしっかり確認したから、機能性に関しては問題ないと思うよ。ジークのテントもこっちのテントも、多分狭すぎて物置に入れられてたものだと思う」

 と言いながら、カ・ルメが入って左の寝袋の上に腰を下ろすので(カ・ルメの荷物も左側の寝袋の枕のほうにあったので、当然そちらがカ・ルメだろうということは頷ける)、真佳もカ・ルメに倣う形で、荷物を枕側に置きながら寝袋の上に腰を下ろした。それほど上等なものでは無いらしく、テントの薄い生地と寝袋が間に入ってあっても、地面のごつごつした土と石の感触がよく分かる。寝袋なら真佳のリュックの中にも入っている……というか、マクシミリアヌスに持たされているのだが、わざわざ取り出すのも面倒くさいので、どれほど上等で無かったとしてもしばらくはこれのお世話になろうと真佳は決めた。
 真佳が寝袋の上でちょこんと正座したのを見定めて……かどうかは知らないが、カ・ルメは片足を立てた行儀の悪い座り方で、真佳のほうへ視線をやって片方の口角をチンピラみたいに持ち上げた。

「ここを拠点にして、夜、ジークと私が君たちを村まで送ってあげる」
「そうやって事件の真相を突き止める?」
「君の疑いを晴らすにはそれしか方法が無いからね」

 それしか方法が無い、と切羽詰まったことを言っておきながら、カ・ルメはにやりと、声に出さずに笑っていた。笑い事では無いのだが……と、真佳はジト目になって言う。

「楽しそーだね」
「んん、ごめんね、実はちょっとマジで楽しい。いや、手は抜かないし絶対に君の助けにはなるって。信用してくれ」

 半眼のまま無言でカ・ルメを見詰め続けてから、吐息とともに視線を外した。諦めた、とかじゃなくて……。
 信用してくれって言われたって、仮にカ・ルメやジークがどれほど胡散臭い人間であったとしても、信用して任さざるを得ないのだ。ここまで来てしまっては。真佳に選択肢というものは存在しない。少なくとも、ヤコブスが別の道を示さない限りにおいて。
 真佳の視線の動きをどうとったのかは判然としないが、カ・ルメは口の端だけをつり上げてまた、ニヤリと笑った。いい人だとは思うのだけど、言動で誤解されそうな人だった。元の世界に残してきた友達に、どこか少し似ている気がする。

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