族長のテントは族長が言っていたとおり、カ・ルメやそこここに見えるほかのテントに比べたら本当に大きなものだった。一辺当たり恐らく二桁の人間は余裕で並べるであろう幅の広さに、オーソドックスな三角屋根がテントの布でうまく表現されている。この大きさ、学校の運動会なんかで組み立てられる集会用テントの群れを思わせる。あの集会用テントのむき出しのフレームを布で覆ってしまったら、ここに並べてもそれなりに体裁は整うのではあるまいか。 そして、これは真佳にとっては初めて見た画期的なものの一つなのだが、族長の象牙色のテントには側面に窓がついていた。しかもどうやらこの窓らしきもの、上部以外の三方が切り取られているらしく、ちょっと押したらちゃんと開くように出来ているのだ! テントというものとあまり縁のない生活を送っている真佳にとって、この形式は実に興味深かった。元の世界にもこういったタイプのものがあるのだろうか。探してみたらあるかもしれない。 「奥のほうに新たに仕切りを用意させよう。持て余しているとは言っても、ほとんど扱いに困った物の物置と化しているもので、すぐには客人を招待できる状態では無いんだ。申し訳ない。整理の間、居間でお茶に付き合っていただけると有り難い」 ……という族長からの申し出で、ヤコブスと二人族長のお茶会に付き合わされた。整理は族長の奥さんか、あるいはお付きだか何だかの人がやっているらしく、お茶会の隣でがちゃがちゃと何かを引きずったりひっくり返す音と、これはどう、あれはどうとかの物の収め方を話し合うみたいな声がする。 「ゆっくり出来る場ではなくて申し訳ない」 眉をハの字にして族長が申し訳なさげに謝罪した。そんなことはない、むしろ一日のためだけに労力を要してしまって申し訳ない、というようなことをヤコブスが言い、あとは取り留めも無い社交辞令的なよもやま話に終始した。こいつでもそれなりの友好的な会話は続けられるんだなと胡乱な目でヤコブスを見ながら、真佳は心の中だけで呟いた。 結局真佳とヤコブスの寝る場所を確保するためにほぼ半日を消化した。その間、真佳とヤコブスは当然のように族長とお茶を囲んでいたため、カ・ルメやジークについてどう思っているのか、明日以降の寝床をどこにするのかなど、詳しい話をヤコブスとするような時間は設けられはしなかった。カ・ルメらについてどう思ってるかって、まあどうせヤコブスのことだから良心的な心情はきっと抱いていやしないだろうが……。 そうこうしているうちに狼人族にとっての朝食時になり(夜行性の彼らにとっては、の話。夕方の五時あたりは真佳らの界隈だと夕ご飯に相当する)、結局ヤコブスと二人でゆっくり話す機会が訪れないまま、真佳に充てがわれた仕切りの中に一人引き下がるという段になる。 (さて、族長から離れられたのは良かったものの……) 周囲を見渡して考える。テントの奥側左端をいただいた真佳の視界に映るのは、二方がテントの布地、二方がそれなりの強度と高さを誇る衝立の壁である。出入りするときはこの衝立をえっちらおっちら押し開けて人一人が通れる空間を作り出す。基本的にはもともと物置の仕切りとして使用されていたものがそのまま使用されていたが、本来はヤコブスに充てがわれた部屋と地続きで一室だったそれにさらに衝立を追加して、二部屋になるように配慮してくれたらしいということを整理中の物音から真佳は大体推察していた。 テントの布地の反対側、即ち真佳から見て右手がヤコブスに充てがわれた一室になる。衝立を押し開けた先にヤコブスがいる。さて、では二人でゆっくり話を交わすにはどうしたらいいだろう。重い衝立を実際に押し開けて部屋に押し入る? それも何か違うような……。というか、一応の婦女子であるところの真佳が成人男性の部屋に軽々しく入って良いものか? たとえ相手が、自分を乳臭いちんちくりんのただのガキと考えているに違いないとしたってだなあ……。 窓の形にくり抜かれた、そして実際にほかの布地よりは透明性のあるシートが当てはめられている空間が、ノックでもされたみたいにぼふぼふと波打って見えたのはその時だった――真佳はすりガラスを連想している。遠くの景色はぼやけてよくは見透かせないが、近くを掠めたものが何だったかを見逃すのは難しい。そのすりガラスみたいなシート越しに、人の手の甲が見えたのだ。 一度ちらりと衝立を――族長や族長の家の人間の存在を警戒しながら――振り返ってから、こっそりと窓を押し開ける。真佳の予想通りというか……そこにはカ・ルメが立っていた。どこか思いつめた表情で。 「さっきはごめん。面倒なことに巻き込んだ」 硬い表情と声だった。どこか拗ねたみたいに意固地で、族長の決定には未だ納得いっていないふうである。 真佳やヤコブスのことよりも(と、ヤコブスのことまで真佳が断じるのはおこがましいとも思うのだが、)カ・ルメのことのほうが気になった。カ・ルメやジークと別れてから、ずっと気になっていたことだ。 「いーよ別に。カ・ルメは大丈夫? 納得いった?」 明らかにそうでないと知れたことを敢えて言葉に変えて口にすると、固く閉ざした唇をぎこちないながらもようやく弧形ににやりと緩める。 「いってないからここに来た」 どこか挑戦的な声色で、ついさっきの声色とは随分逆の印象だ。 さっと左右を、恐らく再度確認してから、低語を操って曰く。 「族長が君らに部屋を用意するならここらあたりかなと当たりをつけてたんだ――実際ジークに偵察してもらって、間違いなかったからここに来た。ヤコブスは隣だろう?……あの族長のことだ、きっと離す失礼は犯さないから、そうだろうと思ってた」 そこまでを一息にまくし立て、再び左右を確認し、獣の耳をぴくぴくさせながらカ・ルメ―― 「私とジークはこのまま何もしないで時が過ぎるのを待つ。でも君たちを見捨てるわけじゃない――明日、ここを君たちが追い出された後、きっと二人を迎えに現れる。その間にどこかマシな宿でも探しておく。村の人には見つからないような場所……事件の捜査をするとなったら、きっと一日二日の宿じゃ足りない。君たちは村の人間に追われている状況だろう。仮の宿にたどり着いて以降、私とジークが君たちの面倒を見させてもらう」 瓶底眼鏡の奥の奥から、まっすぐにこちらを見つめ返して。 「埋め合わせをさせてほしい。もう一度、私を信じてみてはくれない?」 「――」 どうしてそこまで、という何度目かの疑問と、迷惑じゃないのかという当たり前の気遣いを、真佳はそこで引っ込めた。聞いたところで知っている答えが返ってくるだけに違いないし、それに何より―― 信じてみてはくれないかと、こうも真摯にお願いされて彼女の迷惑の有無を問うなどと、それこそ野暮というものだ。 ヤコブスには上手く言っておく旨伝えて、今日のところは帰ってもらうことにした。どの道、明日の朝には再び出会うことになる。今族長が真佳と接触しているカ・ルメを見つけたら、今後の予定まで危ないものになりかねない。 窓の代わりになっている透かしガラスみたいなシートを元通り、垂れ下がるがままに任せておいて、真佳は右手の衝立に目をやった。 「……」 ヤコブスがいる部屋。気付かないでいるほど、きっとヤコブスはお人好しではないと考えた。 |
桜の木の下 |
結果として、と言うべきか……その日の調査の話は、無かったことで落ち着いた。もしかしたら族長は話してみれば快く村への案内をつけてくれたのかもしれないが、何となく躊躇われたために真佳が口にしなかった。特約で宿泊を許されたのだ。これ以上の厄介事を持ち込むわけにはいかなかったし、迷惑をかけることを躊躇われた。何と言っても、機嫌を損ねれば村に真佳らの存在を告げ口されるおそれがあるということが、真佳を慎重にさせていた。 少し早めに部屋に引き上げてカ・ルメと会話して以降、ヤコブスと話すこともなく、部屋から出ずにその日は終えた。部屋やテントの外で人が活動する気配に頻繁に目を覚ましたために、ぐっすり眠れたかと言われると否定的だ。 「だから多分、私がお昼まで寝てるのって、もしかしたら人の気配で逐一起きてるからかもって思うんだよな……」 「知るか。寝起きの世迷い言を俺に振るな、そもそも何故貴様を起こしに来てやらねばならん」 「て」 ベッドの上に置いたままの、貸してもらっていた枕で思いっきり額のあたりを殴られた。かなりの度合いで殺意が入っていたに違いない威力と速度で、真佳の発言がヤコブスを大分苛つかせたのは間違いない。 額に手を当てながら、ちぇっと真佳は舌を打つ。 「さくらならもっと優しく起こしてくれるっていうのに……」 「本当にそうか?」 猛禽類みたいな黄金色の双眼でじっとりと睨めつけられて、真佳は一時沈黙してから「……」そろそろと視線を外した。本音を言うと、勿論もっと優しく起こして……くれるわけがない。 「朝に出るという約束だ」 「分かってるよー……」 両目を指の関節でこすりながら(さくらが見ていたら目に悪いと言って後頭部をはたかれる)、まだベッドにいたがる体を無理やり、本当に無理やり力づくで引っ剥がした。「う」勢い余ってベッドの脇にへたり込むと、「何をやっているんだ貴様は……」冷徹なヤコブスの声が真っ直ぐ脳天に振り下ろされた。お尻よりも耳が痛い。 それからヤコブスには外に出てもらって、寝間着から外出着に着替える時間をいただいた。と言っても古びてよれたワイシャツから比較的マシなワイシャツに着替える程度で、組み合わせ的には変化という変化はあまり無い。戦後間もないことも関係するのか、この国ではまだまだ服の種類は限定的だし、新品の服は庶民が手を出せないくらいには高額だ。このワイシャツの袖をまくって七分丈にし、長ズボンも裾をたくし上げてピンでとめ、半ズボンにするというのがいつものスタイル。昔カタギの人には到底いい顔はされないが、マクシミリアヌスが近くにいることもあって、そういう人間に直接何かを言われた経験は今のところ一つも無い。 外ではきっと、ヤコブスが一足先に族長に挨拶をしていてくれているのだろう。真佳はそういう空気が苦手だし、まあヤコブスも苦手なのだと思うのだが、年の功に甘えられるというのはお得なものだ。 うつらうつらしながらなので着替えるのに相当時間がかかって、ついでに家の人の案内で顔も洗わせてもらって、荷物はもとから広げてなかったのでそのまま背負って、ということをしているうちに、本当にヤコブスと族長のほうは話を終えていたらしい。テントの入り口で、二人揃って手持ち無沙汰げに真佳のことを待っていた。まだ呂律が回らない口でもにゃもにゃ言うと、「時間をかけてしまったことを詫びたいようです」とヤコブスに適切に訳された。 「本当にもう発ってしまうのですか? あなた方の言う“朝食”くらいはご用意できますが」 「いえ、もともと長居する気がなかったので」 最低限の敬語でもってヤコブスはその申し出を突っぱねた。鼻白んだ族長に、ではせめてこれをと、サンドイッチの詰め合わせをもらえたのだけが救いである(狼は肉食であると聞くが、ちらっと中を見た限りでは、具はほとんど野菜中心で作られていた。狼と狼人族とは、全く別の種族と考えたほうがよさそうだ)。 いつも起きる時間がお昼であるため、朝食は自然と抜いてしまうタチなのだが、朝に起きれば当然それなりに腹は空く。それでも朝食くらいとヤコブスに食い下がらなかったのは、朝食に深いこだわりが無かったことと、それに、カ・ルメのことが気がかりなので。あまり遅いとカ・ルメが要らぬ心配をするかもしれないし、カ・ルメのことを隠したまま族長と会話をするのも気詰まりになるだろうと思われた。 真佳が合流すれば、後の話は早かった。ヤコブスと真佳は族長が声をかけた二人の狼人族に丁重に抱え上げられ、僅かな足場を飛んで辿って崖の上まで送られた。族長は崖の上まではやって来なかったので、別れの挨拶は長引かず、送ってくれた二人に礼を言ってからは彼らが立ち去るまでヤコブスと会話はしなかった。……余談だが、ここで真佳はジークに送ってもらったときに感じた乗り物酔いの感覚が無かったことに、心の底からほっとしている。 「ヤコブス」 早朝の瑞々しい空気を肺の底に吸い込んで、湧き起こる葉擦れの音と鳥の囀りにギリギリ負けないくらいの声量で、真佳は呼んだ。 「カ・ルメのことだけど……」 「昨日の晩話し込んでいたことだろう」 ……と、真佳が話す以前から、ヤコブスのほうからそうであるはずだと決め込むみたいにそう言った――やっぱりな、と真佳は思う。気付かないほど鈍くは無いし、気付かないフリをするほど優しくは無いと思っていた。 「……話全部聞こえてた?」 「いや、聞こえてはいなかった。俺にも聞こえる声量で話していたのなら、そもそもほかの狼人族が気付くだろう。そうならないようにあの女が気を張っていたんだろうな」 感心しているふうなことを言いながら関心の無さそうな顔でばりばりと後頭部を掻きながら、「で?」促すようにヤコブス。真佳は鼻白んで目を瞬かせる。 「で?って」 「どうせ待ち合わせの約束でも取り付けたんだろう。どこに行けばいい」 「どこっていうか、別に……」……っていうか、「怒らないの?」 すぐ眼前に聳える森林を見るともなしに眺めていたヤコブスが、視線だけをちらと真佳に固定した。 「怒るようなことでも無い。どの道詰みか、それ一歩手前という状況だ。協力する気があると言うなら、有り難くその手を借りるまでの話だろう」 「信頼出来ないとは思わないの?」 「ハメられた場合に状況を突破出来ないと判断していたら狼人族の寝床に入り込む前にやめている」 「そう……あっ、っていうか、私何を話したとかまだちゃんと言ってない」 「貴様やあの女が考えつきそうなことくらい容易に想像出来る」 と言って、くあっと野性的な欠伸を漏らした。無精髭が随分伸びたヤコブスの鋭い横顔と、その頭に装着されたゴーグルのレンズが太陽光を眩いくらいに反射するのを半ば無意識に、ぼけっとした顔で眺めていたら、流石に視線に気が付いたらしいヤコブスに鋭い眼で睨まれた。慌てて前に向き直る。 苦言の一つや二つ言われるものと思っていたし、迷惑がられるかと思っていた。単純に、もう諦めているとかの可能性もあるけれど……。 (本当に……やりにくい相手だな……) ヤコブスに対して、改めて真佳はそう評す。それがいい意味か悪い意味かということは、とりあえずのところは置いておくこととして……。 |