「話し合いは終わったか?」

 という声が頭上から落ちてきたのは、その時だった。ヤコブスよりも随分野太い、ぶっきら棒な声で、気付いたときには音も立てずに路面の上に着地した。狼人族のことを真佳はよく知らないが、カ・ルメという新しく入ってきた男の人と言い、木の上で待機する癖でもついてたりするんだろうか。
 銀の髪が太陽に眩しい、恐らくカ・ルメと同じ種族の耳と尻尾を持った男性だった――インドアなのかヤコブスらよりも青白い肌をしているカ・ルメと違って健康的な褐色の肌を持った男で、目の色は髪と同じ銀灰色。上が肌にぴったりとした黒の袖なしのタートルネックなのに対して、下がだぼっとしたズボンなのが印象的だ。カ・ルメのワンピースがパッチワークだったのとおんなじように、男のズボンもパッチワークで複雑な文様が描かれている。
 筋肉の付き方から大分鍛えていることが伺えるが、声を聞いたときにイメージしたようなマッチョな印象はなく、どちらかというと華奢で、それから少なくとも、十センチぐらいはヤコブスよりも背が高い。

「遅いよ、もうちょっとで逃げられるところだった」

 カ・ルメが気軽な感じでそう言ったのに、流石にヤコブスもすっと目つきが鋭くなる。狼人族二人……カ・ルメ一人なら物の数秒で無害化することは可能だが、この男は多分二人がかりでも苦戦する。ヒトとして鍛えているだけでなく、カ・ルメのさっきの話によると狼人族は敏捷性に長けている。

「あ、違う違う、今のは言葉のアヤっていうか、殺気を収めてよ二人とも」

 ひりついた空気を嗅覚で感じ取ったみたいにカ・ルメが言った。男のほうは興味の薄い目でヤコブスを見て視軸をシフト。真佳と視線が合ったとき、僅かばかりだが男の右の瞼が痙攣したみたいに反応を示した。
 でもひとまず真佳に対して示した反応はそれだけで、今のところは少なくとも、真佳に対して何か発言するつもりも行動するつもりも無いと見える。ふんと鼻を鳴らして、つまらなそうにそっぽを向いた。うなじのあたりで結っていた長めの銀髪が、二本目の尻尾みたいにそっけなく一度振れていた。

「彼はジー・クァート」

 とカ・ルメが彼を示して言う。

「呼びにくいならジークと呼んであげるといい。私と彼とで君たちを担ぐ。そしたら安全に私たちの村の中に入れるでしょう?」
「担いでって、大分危なくない?」
「慣れてる。軟弱なアンタらとは違うんで」

 あの急勾配を一人で下るだけでも危ないのに、担いでなど……と言おうとしたが、普通にジークくんに阻まれた。温度を感じさせない冷たい物言いだったからか、それとも言葉遣いに棘があったからか知らないが、「こらジーク」とカ・ルメがジークをお姉さん顔で窘めた。それに臆するどころか、ジークは誰とも目を合わせもせず追加でこうも宣うのだ。

「カ・ルメも担いでくれなくても別にいい。そもそも引きこもりのアンタに人間一人だって担いで降りれるわけないんだから、最初から期待してねえよ」
「何だね、その言い方は」

 と、カ・ルメは唇を尖らせた。

「いくら私でも人間の女の子一人ぐらい……」と言って真佳の腿下に腕を差し入れて(おい、とヤコブスが声を出したが、気に留められることはなかった)、ひょいと真佳の体を持ち上げ……持ち上げ……。
 …………。

「……あの、無理しないで」

 片足を持ち上げかけたところで既に限界を迎えているカ・ルメに言った。当人は両足を持ち上げるつもりだったらしいが、体幹が不安定だったことで不安に思って片足だけ避難させたのだ。抱き上げられた状態でカ・ルメに転ばれると、当然だが真佳も転ぶ。平坦な道ならまだいいが、崖に近いこの場所で危険を晒せば最悪の場合狼人族でも危険だという崖の底へ頼りも無しに真っ逆さまということになりかねない。

「……狼人族では無いのか?」
「うるさいな! 狼人族だよ!」

 ヤコブスの超絶失礼な物言いに流石のカ・ルメも激しく吠えた。その拍子に真佳から手を離してくれたので、これ幸いと真佳はすかさず一歩半くらいの距離を取る。今のでよく真佳とヤコブスのどっちかを抱き上げて崖を下るとかいう話を持ち出せたものだな。

「ちょっと思うように力を出せないだけだろ!」
「いや、アンタのそれは単なる運動不足だ。一日中部屋で引きこもって本なんか読んでるからそうなる」
「うるさいな! それでも狼人族だぞ! 人間の一人や二人余裕で担げるに……君何逃げてんのさ!!」

 こっちを見てはっきり言われた。そんなことを言われたって、一人の女の負けず嫌いで崖を転がり落ちて死ぬとかいう間抜けな死に方は御免被るのだから仕方ない。

「アンタらは二人とも俺が責任持って担いで下ろす」

 溜息を吐きながらジークが言った。カ・ルメのこういった暴走には慣れているのか、かわし方が妙に上手い。
「大丈夫なんだろうな」とヤコブスが疑心を顕に尋ねると(真佳としてもそれは同意見なわけだが。崖を下るという危険行為を前にして、こうもふざけられると不安が募る)、ジークは「ああ?」と柄の悪い言葉を吐いた。

「嫌なら下ろしてやんなくてもいいんだぜ俺は」
「待って待って、それは私が困る、救世主様の同郷を助けてみたいんだって私は」
「救世主とコイツは別もんだろうがよ。そもそもの話、アンタに頼まれなきゃ俺だって――」

 …………俺だって?
 不自然なところで途切れた会話に小首を傾げて待ちの姿勢でいると、ジークは苛立たしげに頭を無造作に掻きむしり、

「おら捕まれ下等種! 置いていかれてえか!」

 追求を許さぬ大声で宣ったと思ったら、とても丁寧とは言いがたいやり方で真佳とヤコブス、それぞれを左右それぞれの肩に、一瞬のうちに担ぎ上げてしまった。

(うわ……っ)

 声こそ上げなかったものの、割に反応速度には自信のある真佳と、警戒心は恐らく真佳以上あるに違いないヤコブスを有無を言わさず担ぎ上げたその技量を、真佳は胸の内で称賛した。これが敵であった場合、うっかり一網打尽になっていたかもしれない。狼人族、侮れない。

「っ、おい貴様、離っ――」
「一人私が持つって言ったのに!」
「うるせえ! 持ちたがる前に鍛えろ!」

 まるで聞き分けの無い子どもに分からせるみたいに怒鳴りつけ、往生際悪く駄々をこねるカ・ルメを引き離すみたいに「わっ――」ジークは地面を蹴っていた。森の木々が弾かれたみたいにあっという間に遠ざかる。寸前ヤコブスが抵抗の意思を見せていたと思ったが、大の男の抵抗など意にも介さぬ馬鹿力。この細っこい体にそれだけの剛力がナチュラルに備わっていると言うのなら、なるほど、それは下等種と言われるのも納得のいくことだろう。むしろ何でカ・ルメは真佳一人ですら持ち上げられなかったんだと疑問に思う。
 遠ざかった木々の緑より空の青の割合が多くなって、もしかしたらさくららのいる村が視界の端にでも映るかもしれないと思った刹那、途端に高度が下降した。落ちたのだ。

「ジークの馬鹿ー!」

 ずっと下方でカ・ルメの本当に悔しそうな絶叫が森の怨念みたいに轟いた。

「アンタら二人とも歯をしっかりと閉じとけよ――」耳元で聞こえる風の轟音を貫くように、ジークが声を張り上げる――「舌噛むぜ!」

 腰を掴むジークの腕の力加減が、その一瞬で強まった。


タヴォロッツァ・コローレ


「………………」

 岩場の入り口あたりでぺたんと座り込んだまま固まっていると、「いつまでそうしてるつもりだ、大げさなやつだな」とジークに後頭部を粗雑な感じではたかれた。いつまでそうしてるつもりだって、お前が言うか。ジークの運搬ときたら運搬される荷物のことなんかお構いなしで、下降したと思ったらすぐ上昇、上がったものは落ちるので、時間も置かずすぐ下降。上昇。遠慮容赦の無いジャンプの繰り返しで、目の前はぐわんぐわんするわ予期せぬ落下で心臓は勝手にばくばくするわ、三半規管が馬鹿みたいに弱い真佳にとってはそれはもう地獄みたいな道のりだった。途中から目を閉じたのでどこをどう辿ったか分からないし、目を瞑ったら瞑ったで腹に触れるジークの肩が胃の腑を的確に刺激するのを嫌に認識してしまって、あの時間があと何分か続いていたら空の只中で吐いてしまっていたかもしれない。運搬されているのがダンボールに詰められた何かだったら、間違いなくその中身はぐっちゃぐっちゃのしっちゃかめっちゃかになっている。真佳の臓腑がどこかでひっくり返っていても多分驚けないなと真佳は思った。

「ほーら、ジークの運び方じゃ全然駄目だったじゃん」

 寸瞬遅れてカ・ルメも追いついてきたらしいということを、真佳はあいも変わらず項垂れながら理解した。崖の中途に天然で出来たらしい洞窟の入り口があるのだが、この崖、どうも崖底に付着している部分のほうが、村があった地面の面積よりも狭いらしい。プリンのカラメル部分を下にしたみたいな、と言うのが多分分かりやすいだろう。ここより上の崖壁のほうが外に出っ張っていて、ここより下の崖壁のほうが内側に穿たれている。そのために上から見てもこんなところに入り口があるとは思われない。おまけに入り口前に広がる足場は割合狭く、人が二人、横に並んで立つので精一杯、という程度。つまり人間の靴底分くらいしか奥行きが無いということだ。真佳が項垂れているのは洞窟の入り口付近であるので、外からやってきたカ・ルメは随分と真佳に近いところに立っている。カ・ルメの声が、後頭部に降り掛かるように聞こえてくるのも道理と言える。まさしく天然の秘密基地。ただし崖底から見上げない限りにおいて、だが。

「荷物の健康状態まで知るかよ」

 と、吐き捨てるようにジークは言った。
 まさしく荷物であった(というか荷物にされた)真佳としては何とも反応のしようがない。ちらともう一つの荷物であるヤコブスに視線を投げると、真佳ほどへたり込んではいないにしても、手持ち無沙汰気味に腕を組んで岩壁のほうへ向けた顔がどこか青白く見えなくも無いような……。

「おら、もう休憩は沢山だろうが。カ・ルメが来たんだ、先に進むぞ」

 頭こそはたかれなかったものの、それと同じくらい無愛想に告げられて、真佳は肺の中の空気をゆっくり外に吐き出した。胃の腑はまだ荒れているような具合だが、大人しくしていたためにほんの少しだけマシにはなった。飛んだり跳ねたりは無理だろうけど、歩くくらいは出来そうだ。「はあい……」それでも渋々の受け答えになったのは、吐かないだろうというだけで本調子というわけでは無かったから。
 きっとそれを気にしてくれたのだろう、カ・ルメが言った。

「ほらまた無茶させる。ちょっとの間休むくらい……」
「だいじょーぶだいじょーぶ。ちょっとマシになったから。気にしないで行ってみよー」

 へらっと笑って。
 当然それは本当のことで、偽ってなどいないし無理などもしていないのだけど、それ以上に何と言うか……自分のせいで周りが険悪なムードになったりとか、和を乱してしまうとか、そういったことを避けたかった、というのが多分でかい。慣れ親しんでいるさくらのような人間がここにいないことが、真佳を少し臆病にする。そういった自覚はあるにはあった。
 カ・ルメはそれ以上食い下がることはなかったので、結果的に全員がジークに先導される形で洞窟の奥へと歩みを進めることになる。別にジークが先導するという話になったわけではないのだが、何となく流れでそうなったというか、だってジークが自分たちより前を先へ先へと歩くので。

「ずっとここに住んでるの?」

 ということを、自分より僅か後ろを歩くカ・ルメに問うた。真佳のすぐ前にはヤコブスがおり、そこから人二人分の空間を挟んでジークが先を行っている。洞窟と言っても狭いもので、横幅は人間で言うところの一・五人くらいの幅しかない。マクシミリアヌスが通ろうものなら、一人でいっぱいになりそうだ。

「うーん、三週間くらい前からじゃないかな。ずっとって言うほどではないね。ここらは気候がいいからもう少しくらい居着く予定だったんだけど、少し上が騒がしくなりそうな感じだろう? 少し早いけど、あと数日したら北に行こうかなんて話をしていたところ」

 騒がしくなりそうな……? 小首を傾げて問い返そうとしたが、思考している間にヤコブスに話題を掻っ攫われて聞くタイミングを逸してしまった。

「この時期は毎回ここに来ていたのか?」

 気付かなかった自分を忌々しく思っているに違いない声色だ。長く寄り付かなかったとしても、近辺にはヤコブスの郷里の村がある。見知った土地に不穏分子……と言っていいかはまだ微妙だが、少なくとも異分子である彼女らの存在に、この数日の間に気付けなかったことがどうやら不満であるらしい。

「毎回ってわけでも。ちょうど一昨日くらいに見つけた穴場だからね。いつもなら底のほうにまで降りていっているはずだったのさ」
「……少なくともこの谷底にまでは降りていた、と……」

 ヤコブスが郷里の村にいたのは今から何年も前の話である。まだ戦闘慣れもしていなかった子どもの時分に彼女らの存在に気付かなかったからと言って、そう自責の念に駆られるものではないと思うが……。

「ちっちゃいころは自分がこの村を守るんだとでも思ってたの?」

 ヤコブスの真横にちょこちょこ寄って、少し背伸びしながらそう問うた。回答は得られず、ただ鬱陶しげな目つきで睥睨されただけだったが。別に混ぜっ返したつもりはなかったんだけどな。

「なんだ、君ここらの出身か」

 と予想外にカ・ルメが反応したので、真佳のほうが驚いた。カ・ルメやジークに聞かせるつもりはなく、内緒話で終わらせるつもりだったのだが……
 って、そういえば相手はただの人間とは違うのだ。頭の上にぴんと立てられた狼のそれに近い獣耳を見て咄嗟に考えを改める。彼女らの前で内緒話は通用しないと思ったほうがいい、ということか……。

「別に、昔の話だ」

 分かっていたみたいにヤコブスが言った。うおおん、ごめんね……と表情に出して謝罪する。伝わっていたとしても反応を返すタイプでないから、ヤコブスがそれに対して実際に何を思ったのかまでは分からないけど。

「ふーん、まあ私に限らず、私たちが崖の上に登ることはそうそうなかったから、近辺とは言っても接触する機会はそうそうなかっただろうけど。割合運命的なものを感じない?」
「誰が感じるか」

 カ・ルメの純度百パーセントの軽口をこれでもかというほどヤコブスは叩き切った。真佳の少し後ろでカ・ルメが口を尖らせて、「そこまでめためたにしなくてもよくない?」などと女子高校生みたいなノリで呟いている。ついさっきまで、というか、ジークが来るまでの敵か味方か分からなかったミステリアスな雰囲気はどこに行ったんだよ、と真佳は内心で突っ込んだ。頭に生えている耳と、スカートで隠れてはいるものの恐らく尾てい骨あたりから生えているであろう尻尾を除けば、普通の同年代の女の子たちと変わらないような気がしなくも。
 歩いている印象から曲がりくねっている感じはしないが、背後にあるはずの入り口の光が見えなくなっているところから、恐らくそれなりのうねりはあるらしい通路をそうしてしばらく進んでいくと、カ・ルメがすっと、真佳とヤコブスを追い越す場面が訪れた。ついでにジークまでをも追い越して、さも自分が今まで先導していましたとばかり、

「着いたよ! 自然の産物というのはいいね、雨風を勝手に凌いでくれるものだから、強風や大雨に怯える必要も無いのだもの。太陽の光や外のにおいが遠いのだけは困りものだけど、まあ外に出る手段はいくらでもある。仮の住まいとしてここまで適したものもそうそう無い」

 通路が途切れたその先を手のひらで示してカ・ルメは言った。「おー……」という言が口から真佳の口から飛び出して、それに遅れて、「……ふん」という、感心しているのか何なのか分からない吐息がヤコブスの側から漏れ出した。
 中は割合広い空間になっていた。形式だけ見れば、長い通路を渡った先に見える舞踏会の会場とも言えなくも無い。そこまで豪華絢爛で華々しくは無いのが難点だけど、まあ形式だけ見れば。
 まず目につくのが、洞窟にしては開放的なまでの高い高い天井だ。ジークに抱えられて下ったり上がったりを繰り返していたので真佳自身ここが崖のどのあたりに当たるのかてんで検討がつかないが、この天井の高さからして、相当深いところまで落ちたらしい。それがドーム型に広がっているために、施設さえ整っていれば大型のプラネタリウムと言われても通りそうな気すらする。っていうか、この大きさで星の動きを見てみたい。これがもとの世界なら、ここに投影機を設置することを国だか街だかに提案していた可能性すらあり得たろう。
 そんな空間のそこここに、いくつかのテントが展開されて設置されていた。天井の高さだけでなくこの洞窟の広さも大したもので、二桁は下らない程度のテントが置いてあるにも関わらず、むき出しの地面のほうが地表の圧倒的割合を占めている。入り口が遠い洞窟なのだから明かりも存在しないのだろうと思っていたが、至るところに直径二センチ大の光の玉が浮いていて、それが大広間の端から端までを見渡せるくらいの光源になっている。一つの玉だけで結構な光を放っているため数はそう多くはないが、そういえば、通路を通っているときにもこういう丸いものがふよふよ浮いていたような。

「すごいだろう、この洞窟!」

 真佳の視界に無理やり頭を突っ込んで、カ・ルメが言った。肩に垂れている茶色いおさげが、軽やかに左右に揺れていた。

「天然の洞窟とは思えない広さだよね。奥に水脈が通っているから少し湿っぽいのがあれだけど、まあ魔術でわざわざ飲水を確保しなくてもいいというのは利点と言える。人に見つかって煩わしい交渉をする必要もなし、ここは格好の住処だよ! まあ、永住出来るかと聞かれたらノンだけど」

 真佳の視界に無理くり入っておいて、途中から真佳に背中を向けてこの洞窟の有用性を誇示するように両腕を広げて、ご高説を流し始めた。真佳からはカ・ルメの後頭部しか見えないし、例え正面を向いていても分厚い眼鏡のせいで瞳の色は見えないだろうが、こいつ今間違いなく目を輝かせているなという確信がある。

「私的には、そんなことより……」

 と言いながら、真佳は洞窟内に生き物みたいに浮ついている光の玉のほうを見た。蛍みたい、と言ってしまえば簡単だが、もしもこれが蛍だったならば本体は手のひらサイズの大変グロテスクな蛍な気がする。そういう蛍はさしもの真佳も見たくはないので考えない。
 ともあれ、真佳としては洞窟よりもこっちのほうが気になるのだ。生物なのだろうか、それともこの世界独特の自然現象なのだろうか。この世界に来て何度も夜の世界は体験したが、こういったものの一つも真佳はお目にかかったことがない。

「何のことはない、光の初歩的な魔術だよ」

 と面白くもなさそうにヤコブスが言った。

「あれ、都会の街しか歩いてこなかったのかい?」

 とは、カ・ルメの談である。両腕を左右に広げたまま、首だけを真佳のほうへ傾けて。
 そう言われればそのとおり、首都ペシェチエーロも港町スッドマーレも富裕の街チッタペピータも、今お世話になっている村、フォスタータと比べれば随分都会だったと言える。そして同じくフォスタータと比べれば、街の至るところに街灯らしい街灯は点在していた。たしかそれも光の魔術を起用しているという話を聞いていたような気がするが。
 そしてその唯一の例外と言えるフォスタータでは、暗い中でも精力的に活動しようとするような人間はいなかった。歩くだけなら星と月の明かりだけで事足りて、光をそれほどまでに切望する必要が無かったのだ。

「道中はマクシミリアヌスが火を絶やさないようにしてくれてたし、確かに……暗いなあと思うようなことは無かったかも」

 なるほど、とカ・ルメは小さく頷いた。カ・ルメが広げた手のひらを空間に差し向けると、ちょうどその上を光の球体がゆっくりと通過していく場面が出来上がる。

「ヤコブスの言うとおり、これは光魔術の初歩中の初歩。魔力を光に換算して出力しただけの魔術だよ。これくらいの魔術なら、流石に魔術式も無しで生成できる。魔力があるならマナカにも使えるんじゃないかな。五百年前にも、救世主様が簡単な魔術を使ったという記述はあったはずだし」
「五百年前の異世界人も……」

 それは何とも心強い情報だ。今まで何度か魔術を試したことのある真佳だが、その結末は決して芳しいものではない。簡単なものならある程度は使えるものの、それも完璧に使いこなせるかと言われるとそうじゃない。割合で言うなら、成功が七、失敗が三とかそんな感じ。自分には魔術の才能など無いのではないかと――もしくは、異世界人には魔術の適正が無いのではないかと、そういったことを心配し始めていたところであった。
 いやでも、五百年前の異世界人が問題なく扱えていたということは……。

「……私には魔術の適性が無いのかもしれない……」

 一番嫌な事実に気付いてしまった。「? そんなことないと思うけど……魔術を使えない人なんていないでしょ」カ・ルメには追い打ちをかけられて、ヤコブスとジークには当然のように無視された。せめてもう少し優しい言葉をかけてほしい。

「ほらこうやって」

 と、真佳の大きな悩みなどちっちゃなことだとばかり、カ・ルメはその長い指先で空間を示すように、人差し指を立てて見せた。

「指先に魔力を集中させる。光の色をイメージしながら」

 ぽつっ、と、その指先に光が灯った。直径1ミリ程度の小さな光だ。

「それを一時間もイメージし続けてたら、これくらいの大きさになるよ」

 そう言ってカ・ルメは魔術の行使をすぱっとやめた。両手を背中に回して真佳を覗き込んでくる。カ・ルメは今さらりと言ったが、魔力を集中させるイメージは全力疾走しているのに似ている。それを一時間というのは、大分精神的にしんどいものでは無かろうか。
 真佳の思考を読み取ったのか、あるいはただ沈黙を置いただけなのか、「まあしんどいよね」と、事も無げにカ・ルメはあっさりと付言する。

「だからこれやると全員大分疲れんの。水もそう。魔術で全員分出すとなるとすさまじい集中力が必要なんで、奥に水脈があるのは私たちにとっても大分ありがたいことだったわけ。第一級魔術師がいるなら話は別だけど、そんな都合よくぽんぽん生まれるもんでもないし、望みの属性が生まれる確率なんて、それこそ天文学的な数字でしょ?」

 でしょ、と言われても真佳にはイマイチ実感の湧かない話なのだが……。真佳とカ・ルメからきっかり二歩分くらい離れた先で、我関せずとよそに視線を投げていたヤコブスの上腕を真佳はがっちり捕まえた。

「そうなの?」
「…………」

 視線をよそに投げたまま明らかに鬱陶しいやつに捕まったみたいな空気で固まること約五秒。

「……第一級魔力保持者の出生率は神に委ねられている。年によってまちまちなため法則性は無いに等しいが、年に十人を超えることはそうそう無い。とは言っても教会への申請制だからな。教会に報告されずに匿われて育てられている例も含めると、確かなことは何も言えん」
「第一級魔術師は、魔力の質がいい代わりに持って生まれた一つの属性の魔術しか使えないんだよね」

 今まで聞かされてきたことを思い出しながら口にする。マクシミリアヌスは火の属性を賜った。その威力は英雄と評されるほどの人外的なものであり、まさしく神から“賜った”と表現するのが合致する。

「そう、第一級は真っ白な何枚もの画布を塗りつぶすくらいの絵の具を持っているが、代わりにこの世界に数ある色のたった一色しか使えない。私らみたいな第二級は、好きな色の絵の具を使えはするけどその量は白紙一枚を埋めるにしてはあまりにも少なすぎるくらいの、それこそ指先に一つまみ程度の絵の具しか所持出来ない、と、そういうふうに理解していてくれればいい」
「カ・ルメは画家なの?」
「うん? たとえ話が絵の話だったから? 着眼点は良かったけど、残念ながらそうじゃない。人より少し読書が好きってくらいかな」

「ふうん……」後から考えたら、もしかしたらこれは生返事になっていたかもしれない。絵の具の話が出たことで、フォスタータに着く前の富裕の街、チッタペピータでのことを思い出していた。絵に生かされ続けた男の話。

「って、そういう落ち着いた話はテントに着いてからにしましょうぜ。いい加減めちゃくちゃ怒られそう。私のテントはこっちだから、早く早く」

 後ろに回られてヤコブスと二人、押し出されるみたいにカ・ルメに先を急かされた。
 カ・ルメがちらちらと気にしていた視線の先を盗み見ると、今にもキレ散らかしそうな鬼の形相でジークがガンをつけている……。まだまだ話したいことはあったものの、流石の真佳も大人しくそれに従った。真佳だって、会って間もない成人男性に怒鳴りつけられるのは嫌なので。

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