「ここを暫く下る。崖のほうまで行くけど、あまり気にしないで」

 と言って真佳とヤコブスを先導する位置に立ったカ・ルメと名乗った女――それがどこから名字でどこから名前に当たるのか、真佳には理解が及ばなかった――についていくような格好で、真佳も足を踏み出した。下る、と彼女は言ったが、斜面らしい斜面は感じられないため、彼女がどちらへ向かいたいのか、真佳にはイマイチピンと来ない。

「まさかあの村の近くに貴様らのアジトがあろうとは……」

 恐らくせいぜい真佳に聞こえる範囲だけの小声だったが、獣の耳を持つ彼女は耳ざとくそれを聞き分けた。

「別に昔からあったわけじゃないさ。というか、私らに定住の地というものは存在しない。風と星の気の向くまま、好きに歩き回るのが私らの民族の慣習なんで」
「……その、獣人族というのはみんな?」

 勿論自分たちの世界にはいなかった人種? 種族? ……であったため、ついつい真佳も言葉を挟んだ。隣のヤコブスを盗み見たが、特に表情に変化は無かったのでほっとした。

「まあ……大体そう? なのかな?」

 煮え切らない返事をする。カ・ルメは真佳とヤコブスにその無防備な背中を向けたまま、考えをまとめるみたいにうーんと呻いて空を仰いだ。

「獣人族にもいろいろあるから、一概には言えない気はする。何しろ私は私のコミュニティーしか知らないのだから、そのほかの一団がどうなのかはわかりようがないんだよな」
「……獣人族って一体何なの?」

 ずっと気になっていたことをそのままストレートに突っ込んだ。異世界人である、ということを隠さなくていいというのは気が楽だ。こういう初歩の質問をしても誰にも不思議そうな顔を向けられない。

「私みたいに獣の血と人の血が混じり合っているもの。いわゆるヒト型が我々の祖先を見つけてそうつけられたけど、別に人と獣が混じり合った結果というわけじゃない。我々は神にそうあれかしとつくられた人とも獣とも違う生命体で、民族だ。アルブスほどではないけれど神に許されたためにそれなりに長命。少なくとも我々の民族は聴覚や嗅覚が人のそれより発達している」
「……その神っていうのが五百年前の異世界人?」
「ん? ああ、いや、あの人は救世主であって創造主とは違う。我々は創造主でなく救世主を崇め奉ると、そういう話」
「自分たちの民族しか知らないと言うけど、獣人族って一杯いるの?」
「さあて、それこそ我々の民族しか分からないから……。ただ、一番の年長者の話によると、あたりを転々としているうちに少数の民族が寄り集まって今の形におさまったという話だし、我々と同じような塊はあっても一、二個程度じゃないかな」
「何で人と一緒に暮らさないの? 迫害されてるわけじゃないんでしょう」

 カ・ルメは不可思議そうな顔で半分だけ振り返りながら、

「どうして一緒に暮らさないといけないんだ? 命の長さも価値観も違う、そういった類いの人間とさ」

 至極当たり前の感じで返された。「……」真佳は返答が出来なくて、暫く足を動かすことも忘れてしまった。こちらを振り向いたままのカ・ルメは当然真佳が立ち止まったのに気付いているので、一行の足取りが急に途絶えたことになる。

「……?」

 多分何らか言葉をかけようとしたカ・ルメに対して、「何でも無い。行こう」とだけ返して真佳から先に一歩踏み出した。カ・ルメもヤコブスも、多分疑問に思っただろうが突っ込んで聞いてきたりはしなかった。
 ――この国の人間はそんな遠慮や我慢はしません――
 昔、港町で出会った少年が何とはなしに口にしたことを、真佳は思い出していた。


花びらチリエージョ


 最初は単純な理由だった。目の色が血を想起する赤色で、悪魔のそれのようで気持ち悪い、という、ただそれだけの理由だった。
 中学のいつごろからか、屋上への扉には立入禁止の札がかけられるようになっていた。戸枠のすぐ脇にお粗末な釘が打ち据えられてあって、そことノブとを結構太めの鎖でぐるぐる巻きにし、さらに南京錠までかけていた。えらい警戒態勢だったが、ホームセンターで買えるような南京錠くらいなら解錠する方法を真佳はいくらでも知っていたので、普通に開けて普通に扉から外に出た。鎖でぐるぐる巻きにされているのからも分かる通り、屋上の扉の鍵は何らかの理由で壊れた後で使い物にならず、鍵穴はすっかり錆び付いていた。
 お昼時、お昼ご飯を持ち、そういった反則的な方法で屋上にまで上がるのが近頃の真佳の日課であった。ここにはひと気が無いために人の視線を気にしなくて済むし、わざとぶつかってこられることで飲み物が床にぶちまけられるという悲惨な事故も起こり得ないので。立入禁止なのだから当然だが。
 それで、真佳が屋上に出た後、暫くしてから彼女が来るのも通例だった。

「またここにいた」

 と彼女は言った。真佳が中学二年のとき、アメリカから引っ越してきた彼女こそ、今現在真佳と異世界で行動を共にしている姫風さくらである。

「教室でなんか食べれないでしょ」
「だからって何で屋上……。立入禁止だっつってんでしょ。バレたら面倒なことになるわよ」
「バレなければいいんだよ」

 と言って真佳は飄々とコンビニで調達したコッペパンを口に含んだ。チョコレートクリームが挟まっているやつだ。この学校にも購買はあるにはあるが、生徒が割と密集するので真佳としてはあまり行きたくない場所だ。
 さくらは溜息を吐いて、それでもいつもと同じように、結局真佳の隣に座ってお弁当箱の包みを広げだすことにしたようだ。真佳とは違って、さくらは別に教室で食べても問題ないはずなのだから、立入禁止が気になるのなら来なければいいのにと以前に真佳が口にすると、「アンタ以外とお弁当食べても味しないでしょ」と素知らぬ顔でうそぶいたものである。そういったことがあったものだから、それ以降真佳は同じことを口にしないようにしている。普通にそう答えてくれたことが、普通に結構嬉しかったので。

「アンタ毎回パンだけど」
「はい?」

 話しかけられることに慣れていないため、何だかしゃちほこばった答えになった。

「パン好きなの?」
「や、好きってゆーか……まあ好きか嫌いかで言ったら好きだけど……」

 ふうん、と面白くも無さそうな顔で呟いて、さくらは箸を動かす作業に戻っていってしまった。正確に言えば、お昼ご飯にパンを選んでいるのは好き嫌いとかの話じゃあなく、単純にそれしか選択肢が無いからなのだが(真佳の学校では休み時間の校外への外出は禁止されている。購買に行きたくないのなら、朝のうちにコンビニに寄っていくしか道が無い)……ど、どういう意図だったのだろう。イマイチ意図が掴みきれずパンをもそもそやりながらちらちらとさくらの綺麗な顔を盗み見ていると、「いや、別に深い意味は無いんだけどね」と、真佳からの視線を感じたのか感じていないのか判断のつかない、実にニュートラルな声音でもって付言した。

「購買に行きづらいんじゃないかと思っただけ」
「う……」

 図星である。こいつとは何やかんやあって和解してから実に半年くらいの付き合いになるが、真佳が時々言葉に詰まるくらいには洞察力が鋭敏だ。

「もしそれしか選択肢が無いって言うんなら、ついでだしお弁当作ってあげてもいいかなと思ってたんだけど、好んで選んでるんなら何も言うことは無いわ」
「え」

 と真佳は声を上げた。

「……作ってくれるの?」
「必要であるなら……。でもパンが好きなんでしょう?」
「や……好きではあるけど飽きるっていうか……」

 さくらがきょとんとした顔をした。高校の制服はブレザーだったが、中学の制服は紺のセーラー服だったため、今思い出すとセーラー服のさくらというのはとてもレアだったような気がする…………。
 笑った。
 さくらが。
 極寒の冬を緩和させる、桜吹雪みたいなたおやかな微笑で。

「じゃあ、週三くらいで作ってあげる」

 その笑顔を真佳は今でも覚えている。長らく真佳に向けられてこなかった笑みだった。嫌悪と嘲笑と同情の視線しか向けられてこなかった真佳にとって、それは心の在り処を再認識させられたくらいに心揺さぶられるものだった。

 ―― どうして一緒に暮らさないといけないんだ? 命の長さも価値観も違う、そういった類いの人間とさ。

 ――カ・ルメの言葉を思い出す。真佳は木の葉に覆われた青く高い空を見て、ふう……と、息を吐く。
 地域コミュニティを信奉せず相手のあるがままを容認するカ・ルメの生き方は、少しさくらに似てるようにも思えて、ほんの少しだが気分が良かった。枢機卿が殺されたと聞いて動揺していた胸中が、少しずつだが芯が通ってきたような気がする。
 ひとまず身を隠すことだけに注力しなければ。犯人探しと哀惜は、その後にしても遅くない。
 カ・ルメが先に言ったとおり、暫く進むと真佳にも判別出来るくらい地面が傾斜している部分に差し掛かった。村から大分離れた場所だったが、真佳はここに覚えがある。富裕の街チッタペピータから西征して、ひょんなことからヤコブスとカタリナの故郷、フォスタータに到達するまでの間に馬で歩いた、一方を森、一方を崖に挟まれた、幅の狭い道である。これよりさらに西で落石があったために足止めを余儀なくされ、現在村の男たちが撤去に奮戦しているという、あの道だ。

「ここから先に本当に貴様らの村があるというのか?」

 渋面を作ってヤコブスが口にした。森を抜けて実際馬で踏み固められた道に足を踏み入れながら、あっけらかんとカ・ルメが言う。

「そうとも。崖のほうまで行くと言っただろう?」
「森の中ならまだしも、いや、森の中であるならば村の人間が気付かなかったはずはないとも思うが……」不可解げにヤコブス。今、恐らくヤコブスは不信感を強めている。いくら真佳やヤコブスが戦場慣れしていると言っても、明らかに不自然なことにまで食いつくほど戦に飢えているわけでは無い。「……これほど見晴らしのいい場所に貴様らのアジトがあると?」

 それとも、この道をさらに東か西に行くのか。答えを待っていると、カ・ルメは真佳たちの目前で、肩を竦めて微笑した。

「アジトなんてほどのものじゃないよ。別に隠れ住む必要があるわけでは無いんだから。でもここにあるのは本当。正確に言うと、この崖の下に」
「……崖の下?」

 それには流石に真佳のほうも、口を挟まざるを得なかった。視線は自然に直下の森へと下降する。ついさっきまで密に感じていた木々のにおいが何だか遠く、吹きすさぶ風は心臓に直に触れられたみたいに寒々しい。
 小学生のとき、遠足か何かで高層ビルまで行ったような記憶があるが、今の足場から森がある付近まで、木々のてっぺんを基準にしても、明らかに高層ビル一個分では足りないくらいの距離がある。

「……冗談だよね?」

 あたりに階段らしい階段が無いことは、村に辿り着く前に馬で歩いたことがあるから知っている。道中は馬で進むことが前提条件だったために少しの足がかりがあるかどうかまでは確認をしてはいなかったが、足場が仮にあったとして、流石の真佳でもこの高さでのボルダリングもどきは御免こうむる。
 しかし現実というのは無情なもので、真佳の心境を一切把握していない様子のカ・ルメはあっさりと、「冗談なんて言ってどうするのさ」と切り込んだ。

「別に底の底まで降りるわけじゃなし」
「……降りるんじゃないの?」
「当然だろ。ここから底まで行くなんて、幾ら私らの種族が敏捷性に長けているとしたって、自殺行為以外の何者でも無い」
「……それは、多少の敏捷性が無いと降りるのが難しい位置にアジトがある、ということとイコールにはならない?」

 カ・ルメがきょとんとした顔でこっちを向いた。瓶底眼鏡のせいで瞼の動きは計り知れないが、恐らくぱちくりと瞬きをしているのではないかと思われる。

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