……一度、真佳は誰かにそう命じられたみたいに、ゆっくりと視軸を自分の斜め前あたりまで水平移動させていた。見るべきものは木以外のほかに無いくらい密集した広めの森で、空を仰ぎ見ると木々に茂った葉っぱの大群に圧迫されて、まだまだ昼には程遠い、白みを帯びた青い空が居心地悪そうに残った場所に、それでも頑固にへばりついている。
 ……上手く、話が入って来なかった。
 枢機卿が死んだ?
 ――それも、殺された、だなんて……。

「何かの間違いでは?」

 引き攣った頬からそれだけの言葉を絞り出すのが精一杯。しかし真佳に構わず先へ進むヤコブスは、何とも無慈悲に真佳の縋り付いた希望を否定した。

「間違いなどであるわけがない。曲がりなりにも、この村では顔を知らない者がいないくらいの有名人だ。あの顔を見間違える人間はそうそういはしないとも」
「でも……枢機卿だよ? この国の教会の。殺されるなんてことがある? みんなフレデリクス・デ・マッキを尊敬して――」

 目の前のヤコブスが、冷ややかな目を向けていることに気が付いた。“みんな”が“尊敬して”いるわけがない――少なくとも、ここに一人、それを疎ましく思う人がいる。“枢機卿が殺されるわけがない”というのは、“あり得ない”。

「……ごめん」

 ヤコブスは鼻で笑って、再び背中を向けて歩き出しただけだった。前じゃなく、地面のあちこちの痕跡を見ているのだとすぐ分かる。秘密基地へ辿り着くための道は覚えていないが、痕跡を辿ればすぐに辿り着くことは出来るはずだとさっきヤコブスが言ったのだ。
 ヤコブスの背中について歩きながら、ゆっくり、ゆっくり息を吸って、吐き出した。頭に血が行っていない気がする。きっと青ざめた顔をしているのだろう。足元がおぼつかなくて視界が狭く、おまけに目眩も感じていたが、何度か深呼吸を繰り返すことで何とか持ち直すことが出来てきた。

「どう、やって……?」

 渇いた唇を湿らせる。

「どうやって亡くなってたの……枢機卿」

 ちらりとヤコブスがこっちを向いた。

「……それが今必要か?」
「殺されたって言った。死んでたでなく、殺されたって。ということは、あからさまに他者が介入したという痕跡をもって亡くなっていたということだ」
「……」
「それに」

 ――空気を深く、肺の奥底に取り込んだ。湿ったような森のにおい、靴底が踏む土の音、木々のずっと上空でピイッと鳥の鳴いた声。
 ……動揺を飲み込んだことで、今度は変に頭が冴えてきた。どうしてヤコブスは真佳だけを村の外にまで連れ出したのか、マクシミリアヌスは一体何の理由で尊重を玄関先で食い止めていたのか、ヤコブスが真っ先に心配するであろうさくらがここに連れ出されなかったのは何故なのか。

「……私と関係している」恐らく――「私が殺したんじゃないかって。……言われているのは、それでしょう」

 一瞥だったヤコブスの黄金色の双眼が、今、改めて、面倒くさそうにこっちを向いた。切れ長の双眸を眇めてみせて。

「――殺したのか?」
「私に殺す理由があるとでも?」
「ペシェチエーロにいたとき、貴様に暗殺者を差し向けたのはフレデリクス・デ・マッキだ」
「その話はもう片が付いた。ヤコブスなら分かってるでしょ」

 言うと、ヤコブスは鼻で笑って、「だろうな」と小さく口にした。真佳を見据えていた切れ長の双眼は、今は森の中に隠された痕跡の一部を探すために使われている。ヤコブスに見据えられていたことで感じていたプレッシャーが、視線が外れると同時に氷解したのを実感した。

「当然だ。貴様が殺すわけはない」
「……じゃあ何であんなこと言ったんだよ」
「俺から見ても随分と青ざめていたのでな。興が乗った」
「…………」

 こ、この男……。木々の間を悪びれもなく進んでいるヤコブスの背中を一時言葉を失って立ち尽くしながら見送って、真佳は頬を引きつらせた。いたいけな女の子が心細げに顔を青ざめているのに対して、普通そういったことを言うもんかね? 通常ならどこに“いたいけ”な“女の子”がいるんだという突っ込みが聞こえてきそうだったが、真佳の心の中だけで言われたそれに突っ込む者はいなかった。

「ナイフで一突きだ」

 このまま立ち尽くしていてもどうしようもないし、ここではぐれることになっても困るので、仕方なしに真佳がヤコブスの背中を追ったところで、ぼそっとした声が投げかけられた。ヤコブスがズボンのポケットに両手を突っ込みながら、足元の枝葉をつま先でかき分けながらどうでもよさそうな口振りで。

「村長の家のベッドに寝ていたところを襲われていた。果物ナイフは村長の家の持ち物で、窓が不自然にあいていた。奴の付き人、つまりエルネストゥスともう一人の女は別室で寝泊まりしていた」
「……外部からの犯行だと?」
「そう考えるのは自然だろう。エルネストゥスも女も、物音や声はしなかったと言っている。それに関しては村長の意見も同様だ。争った形跡はなく、デ・マッキは眠るように死んでいた」
「それを直接見たの?」
「まさか。グイドに見に行かせたんだ」

 それはそうか。ヤコブスは教会の人間を嫌っている。おまけにここの村の出で、長年戻ってきていないにしてもその面影から正体を悟られる危険性は否めない。
 グイドを放ったことに関しては、さすが抜かりがない、と言うべきか。グイドの瞬間記憶能力的な物覚えの良さは、こういうときにはうってつけだ。ほかの人間ならともかく、グイドが見たと言うのならそれは真実によっぽど近い。

「眠るようにということは、シーツも?」
「乱れたところは見られなかった」
「刺された後の、もがいた後も?」
「そういうことになるだろう」

 ……ふうん、と真佳は相槌を打つ。本当に眠りながら枢機卿は殺された。……でも、そんなことがあり得るだろうか?

「私が疑われてるのは、一番最後に枢機卿に会ったから?」
「昨日の夜、貴様が村長宅の周りをうろうろしていたのが目撃されている。疑義を持たれている理由はそれで、そっちの情報は初耳だな」
「……言わなくていいこと言っちゃったな」
「ヒメカゼに頼まれてこうして貴様を連れ出したんだ。貴様の敵になるようなことはせんよ」

 何でもないことのように言われてしまって、真佳は少し反応に困った。それはつまるところ、さくらという後ろ盾がなければ真佳を売ることも厭わないという話になりはしないか……? いや、まあ、いいんだけど……。

「でも、枢機卿と私が何度もお茶会したという話を、知らない人はいないと思うんだけど……」
「殺す目的で近付いたのだという結論にはなるだろう」
「やっぱそうなるかあ……」
「枢機卿が村で亡くなったとなれば大事だ。当然教会は調査に乗り出すだろうし、そのとき犯人が定まっていないか、あるいは村人の誰かだった場合に村に甚大な被害が及ぶ。彼らにとっても、犯人がよそから来た旅人であったほうがやりやすい」
「人でなしじゃん」
「人間というのはそういうものだ」

 慈悲も容赦も何もなく、あっさりとヤコブスは真佳の発言を切り捨てた。痕跡を探しながら少しずつ森の奥深くへと進んでゆくヤコブスの背中を追いながら、真佳は短く吐息する。理屈は分かる。ヤコブスの言う村人評は正しいし、きっと村人側ならそういう結論に達するだろうということも。だから特段怒りは湧かない。ただ、問題は……。

「私が犯人でない以上、まだ村の中に本物の犯人がいるってことだよね」
「当然だな」
「置いてきてよかったの? 私よりもあっちのほうが危険なんじゃ?」
「カタリナにはヒメカゼをそれとなく補佐するように話してある。グイド、トマス、フゴに関しても同様だ。村が窮地の事態に陥ったところで、彼らだけは無事外に出られる算段になっている」
「そうじゃなくて、自分がいなくて心配じゃないの?」

 本当に分かってないらしい、怪訝そうな顔で振り向かれた。

「俺が必ずしもいる必要があるか? あいつらならば無事だろう」

 ……信頼しているんだなあと思う。それとも、真佳が真実トマスらの実力を知ってはいないからこそ湧き出た疑問なのかもしれない。ヤコブスの知るトマスらは、本当に凄く頼りになる実力のある人たちなのかも。
 真佳とヤコブスら新教派が出会ってから、何だかんだでまだ一ヶ月。分からない部分も多くて当然ということか。それでも随分、長い間を一緒に過ごした気がしていた。
 トマスらの実力は知らないが、さくらの隣には彼らのほかにマクシミリアヌスもいる。良好な関係を築いている彼らが大勢残っているのなら、まあ焦燥に駆られるほど心配することも無いだろう。真佳の護衛(?)についたのがヤコブス一人だけで本当に良かった。
 ……それと、ヤコブスが必ずしも自分が守るのだという強い執着をさくらに抱いていなくて良かった。そういう強い執着は、時々酷く厄介な事柄を運んでくることがある。

「正直なところを言うと、ヤコブスは、絶対に自分がさくらを守らねばならないと思っているものだと思ってたんだよ」
「ほかの人間には任せないということか?」
「まあそういうこと」
「何故。俺が守ろうがグイドらが守ろうが一緒だろう」
「そうなんだけどね」

 それでも絶対に自分が、という意欲を見せる人間は存在してしまうのだよ……ということを、実際口にはしなかったが真佳は心の中で呟いた。それは多分、親愛よりも信仰と言うべき類のものだ。ねちっこくて甘ったるくて行き止まりの、真佳は他人が抱くあの感覚が好きではない。

(ベルンハルドゥス――)

 ペシェチエーロで見た、真佳を殺すために人を雇うまでした男の眼差しを、枢機卿に――ここで少し心が痛んだ――話したからというだけでなく、時々思い出しては胸が衝かれる思いがする。どうにかすれば救えたかもしれなかった男の話。

「何を想起しているの?」
「っ!?」

 不意に落下してきた声に、真佳よりも先にヤコブスが反応した。心臓がぞっと冷え切るにおいがして、状況を確認すると同時に全身が一気に総毛立つ。気配が全くしなかった。今も。

「あら。そんなに驚いた顔をしなくても。森に浸透し過ぎてた? ごめんなさい、加減というのが分からなくて。私たちにとっては、あまりにも普通のスキルだったものだから」
「……何者だ」

 姿の知れない女の声に構うことなく、ヤコブスは極めて冷静に、むしろ触れると凍傷にでもなってしまうんじゃないかというくらい冷ややかに、要件だけを口にした。ヤコブスが靴の踵をこちらに向けて後ずさったのを視認して、真佳も体を半回転させて後ずさる。ヤコブスと真佳、互いの背中を互いが制御できるよう――。

「うーん、そんなに警戒されるのか。ちょっと人間というのを甘く見ていた。もっと無防備で可愛いものだと思っていたのに――」

 とさり、と。
 獣が音を立てず地面に降り立つ術を心得ているのと同じように、声と一緒に女そのものも、ほとんど音を立てないやり方で――真佳の前に降り立った。

「初めまして、異邦人。困っているのでしょう? そういう“におい”をしてるもの」

 ――呼吸を止めて固まった。絶句、とまでは行かないまでも、それは真佳の知っているリアルな人間の造形と少し違っていたものだから。
 その女の中で、一番目を引いたのは顔の中心にかかった瓶底みたいな分厚い眼鏡。今どきフィクションでも見かけないくらいの退廃的なそのアイテムを、おさげにした茶髪がノスタルジックに変えていた。くすんだ桃色のベストに継ぎ接ぎで出来た白のワンピースを合わせるという、この世界の住人ではあまり見ないような組み合わせ。そして何より、あり得なすぎて二度見三度見するくらいの衝撃を受けたのが――
 頭に生えた三角耳。
 髪と同色の犬みたいなふさふさした尻尾が、ワンピース越しにご機嫌そうに揺れていた。


A Way Out/運命を握る者

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