ペシェチエーロには戻らないほうがいい――
 首都にだけは二度と戻ってはいけない――
 枢機卿の言葉がずっと脳を駆け巡って、布団に潜り込んでからも寝付けなかった。枢機卿とどうやってお別れしたかすぐには思い出せなかったが、枢機卿のほうが何かに怯えるように逃げるようにその場を立ち去ったのだけは覚えている。
 首都に何があるのだろう。
 あの御方って誰だろう。
 気になることは山程あるのに、結局枢機卿にはきちんと聞けずじまいだった。何でこのタイミングで口にした? 枢機卿に一体何があったのか。

(明日、聞いてもいいけれど……)

 多分枢機卿は、お茶会の席でこの話には取り合わない。そういう確信が真佳にあった。まるで夢遊病でもあったみたいに、あの時のことは何も知らないという顔をするのだろう。
 もう一度同じ話をしてもらうには、きちんと時を選ばねばならない。即ち、皆が寝静まる夜の時間、周囲に誰も存在し得ないあの場所で。

(まるで水月のようだ)

 と真佳は思った。
 そして結局、それは二度と叶わないお話になったのだ。


ひとえに水月をもちてねむごろに空観す


 真佳がベッドの上から飛び跳ねたとき、真佳に向かって手を差し伸べようとしていた人影はびっくりしたように固まった。何のことはない、それがヤコブスだと知った瞬間、肩の力が自然と抜けた。今何時だ? いつの間にかきちんと眠りについていたらしい。我ながら睡眠不足とはほとほと縁がない体をしている。

「起き上がれるならもっと早く起きてくれ」

 と、心底苦々しげにヤコブスのほうが口にした。起こしにきてくれた? ……ヤコブスが? どうも納得のいかない感じを覚えつつ、真佳は何かに圧されるように軽い口調で口にした。

「わざわざ起こしに来てくれたのかね、こんな朝早くに」

 時間は見えないが陽光だけはいつも浴びる昼の光よりも倦怠で、多分随分早い時刻なのではないかと思考した。「何が朝早くだ、もう二時間もしたら昼間だ」……切って捨てるように訂正された。それでも真佳にとっては十分朝早くに該当するのだが……口にすると呆れの混じった溜息を浴びせかけられそうなのでやめにする。

「そんなことよりとっとと起きろ。時間がない」
「え? もう落石の撤去作業が終わったとか?」

 でもそれでもそんなに急がせなくてもよくないか、と真佳は思う。枢機卿やルーナともお別れの挨拶をして、ああ、枢機卿と例の話は出来なくなってしまいそうだがまあこの際それはいいとして……。
 周囲を警戒するようなヤコブスの、野生動物みたいな鋭い目つきに気がついた。

「……何かあったの?」

 さくらのことか?と、心に過ぎったのはそれだった。ヤコブスがここまで必死に警戒態勢をとるなんて、さくら関係かガプサの面々関係だとしか考えられない。

「説明している暇がない。今あの厄介者が時間を稼いでくれている。あの男の苦労を無駄にしたくなければ、とっととここから出ることだ」
「あの男って」

 マクシミリアヌスのことか……!
 考える前に体が動いた。幸い荷物はそこまで散らかしてはいない。昨日お風呂に入ったので着替えは勿論足りていないが、贅沢を言っている場合じゃない。そもそも今真佳が持っている着替えのほとんどは教会の人が見繕ってもらった古着というのがほとんどで、真佳の唯一の私物である元の世界の制服は鞄の底に埋まってる。

「どこに行くの?」

 リュックサックを背負いながら真佳がヤコブスに口にした。ヤコブスは窓の外やドアの外を刺さるような警戒心で見張っていたが、真佳に声をかけられるとすぐに意識を戻してくれた。

「一旦森に出る。一時凌ぎぐらいになるだろう」
「ヤコブスが昔作った秘密基地?」

 シンプルに尋ねると、ヤコブスは一瞬、何でそういう話になるんだとでも言いたげな顔をしたが、すぐに思い直した顔で首肯した。

「それも手かもしれん。ほかに誰もいなければな。何にしろ、一時の住処は必要だ。雨と風を凌げて人目につかないあの場所は絶好の隠れ家であるとも言える」

 それだからこその秘密基地なわけだしな……と真佳は心の中で頷いた。
 薄くあいた扉の向こうからマクシミリアヌスの声が聞こえる。ほかの人間の声もあるが、もともとよく通るマクシミリアヌスの声はとりわけ耳に届きやすい。「落ち着いて」「まだ確かなことは分かっておりません」「状況証拠だけで決めつけるのは危険です」……。
 何やら不穏な響きが濃厚だ。意識を階下に向けて、人の気を探ってみた。マクシミリアヌスと、多分これは……さくらとシスターの誰かと、何人かの人間と……村長……?
 真佳の隣で同じく階下を伺っていたらしいヤコブスがチッと小さく舌を打つ。

「正面玄関は使えん」
 と言っても、「窓から飛び降りるわけにはいかないでしょ」

 正面玄関に面していない窓もあるが、多分降り立つときに音がする。どういう事態に陥っているか、詳しいところは知らないが、多分そういった物音を見過ごしてくれる雰囲気などでは無いのだろう。

「裏口から出る。無論そういった意図だろう。奴のことは気に食わないが、奴が君のことを考える気持ちに偽りは無いと信頼は出来る」

 そう言って、ちょっと待っていろと手だけで示してヤコブスは一旦部屋を出た。廊下を通って階段までが扉からでも見える位置にあるので、ヤコブスの背中がどう動いているのかここからでも真佳にはよく分かる。忍び足で廊下を渡った後、階段を半ばまで降りてから注意深く玄関先を注視するような。階段から玄関扉がすぐそこの間取りであって良かったなとこの時思う。
 ヤコブスは無言で、こっちへ来いというジェスチャーをした。荷物を背負ったまま真佳も部屋を抜け出して、忍び足で廊下を渡る。部屋の扉は中途半端に開けたままにしておいた。
 ヤコブスの元へ辿り着いた後は二人で階段を降下した。玄関扉を見てみると、マクシミリアヌスの巨体が玄関扉の戸口を半ば覆っているのがよく分かる。こちらの動向が、マクシミリアヌスに遮られてあちらにはよく見通せないのだ、と気が付いた。
 玄関扉を通り過ぎるとき、マクシミリアヌスの横目と一瞬間だけ目が合った。マクシミリアヌスは何も言わなかったし、身振りもしてこなかったが、その深緑色の眼差しだけで、背中を押されたような感じがする。
 この教会施設の裏口は、食堂と厨房を通った先にある。真佳はそこまで見ていなかったが、ヤコブスがそこまで導いてくれた。食堂に入って左側の隅っこに瀟洒な片扉が設置されていて、間取りから見るとここは丁度表玄関とは真正面の面に当たる。隠れて外に出るにはうってつけの場所というわけだ。
 薄く開けた扉から一度舐めるように外を見回して、それで真佳よりもヤコブスが先に建物の外へと飛び出した。一体何がどういう具合になっているか真佳にはまだよく分かっていないのだが、ヤコブスのこの警戒ようから見て事態の警戒範囲は紛れもなくこの村全部。今は少数が玄関扉に押し寄せているが、家の中に引っ込んでいる人の中にも危険な人がいるのかも。

「貴様の容貌を知っている者は少ない、幸運なことに」

 囁くようにヤコブスが言った。

「神父紛いには会っていなかったな? ではこの村の者では、エルネストゥスを除けばシスターと村長くらいだろう。彼らに見つからないうちに外へ出られればそれでいい。比較的難易度の低い案件だ」
「森の入り口に誰かが待ち構えていたりはしない?」
「それも考えたが、村人が然程押しかけてきていなく、且つ村長があそこにいるということは一旦事態は村長の手に委ねることになったと見て間違いない。この村の人間は慎重だ。変に自分たちで行動に移して事を荒げたりなどはしないだろう」

 ……流石、元ここの住人だっただけあって彼らを対象にした分析には説得力がある。それに、とヤコブスが更に小さく付言した。

「……この村の連中にとって、今回の事件は無論重要性の高いものであるが、と言って緊急性のあるものじゃない。彼らが今、最も危惧しているのは、人が大勢押しかけることで教会の人間にここら知られてしまうこと」

 煙草の煙を吐くような、ほんの一時の間が空いた。真佳は今ヤコブスと比較的近い位置にいる。シャツにも染み込んでいるヤコブスの良く吸う銘柄の、チョコレートの甘い香りを感じ取るのには十分過ぎる位置取りだ。
 ちらりとこちらに目をやって、

「時間がかかればやつらの心情がどう転ぶか分からん。つまり、行動に起こすなら今しかない」

 なるほど、そう言われればマクシミリアヌスも納得せざるを得まい。
 玄関扉でのマクシミリアヌスとヤコブスの、奇跡でも起きたんじゃないかというぐらいの連携から薄々感じ取ってはいたのだが、事はこの二人が急いで手を組まなければならないほどの事態なのだ、と思うと唇の表面が妙に乾いて、真佳は唇を己の舌で湿らせた。
 ヤコブスが確認したのと同じように、周囲に人影は見当たらない。窓の表面に気になる影は無いかと訝ったが、恐らくそっちを気にしている場合では無いだろう。ヤコブスの言うようにやるなら今、目撃者が人を呼ぶよりも早く、この村を脱出して森の中に入ること。現状真佳とヤコブスは村人の檻の中に入れられているも等しく、この状況を打破しない限りそもそも勝ちの目は絶対的に拝めない。
 二人、揃って走り出した。ヤコブスが真佳より前に出る。ヤコブスが十二分に警戒している様が伺えるが、真佳ももしものときのサポート役として辺りの気配は探っておいた。屋外、身を潜める気配は無い。村長が絶大に信用されているからであろうと、このとき真佳は考えた。ヤコブスの分析は正確だ。
 一度ちらりと後ろを振り向いた。教会宿舎の壁に阻まれて玄関口は見通せなかったが、何となくそこから、さくらに見つめられているような気がして。また一旦お別れだ、と心の中で呟いて、唇の端を持ち上げた。一旦離れてもすぐお互い惹かれ合うように巡り会える。形状記憶合金みたいに。きっとそういう星の下に生まれたんだろうという気が何となくして、その発想は何だか気分が楽だった。
 森の中に突入してもヤコブスが止まらなかったので、真佳もそれに付き合ってしばらく足を動かした。入り口で止まってもまだ見つかる可能性がある。極力見つからない位置にまで逃げ込んで、そこから態勢を整えるのが得策だ。
 ヤコブスが足を止めたのは何の変哲も無い、広場でも何でもない森の中だった。ここまで休み無しの全力疾走をしておいて、息が乱れた様子は無い。煙草を吸っているくせにどうなってるんだと、ヤコブスの肺の状況を覗いてみたい気も少しした。
 立ち止まっても尚ヤコブスは暫くその辺を警戒するように視線を巡らせていたが、そのうちに安全地帯だと認識出来たのかふっと肩の力を一瞬抜いた。獣みたいな男だ。多分、人の群れの中で人の皮を被って暮らすより、森の中で暮らしたほうがずっと幸せになれるタイプ。

「一旦秘密基地に向かう」
「わかるの?」
「正確な道順まで覚えていないが、痕跡をたどっていけばすぐに着く。もっとゆっくり探すつもりだったが……まあいい」

 そう言って、足元に注意を向けながら一歩一歩慎重にヤコブスが歩き出していた。来た道をよくよく見れば、子どもの足跡らしきものとか踏まれて折れた小枝とか、そういったものがちらちらとではあるが目にはつく。最初っからその道を目指して森に入っていた、というわけか……。
 ……いつか森の中で見かけた、金属板みたいなものを思い出す。

「……目印みたいなものがあると思ってた」
「あったな。昔は。今もあるかもしれないが、俺は今の目印には明るくない」

 そう言って真佳からして見れば迷いなく森の中を進んでく。……ということは、もしかしたらあの金属板は昔か、それとも今の秘密基地への目印だったのかもしれない。うっかり拾って持っていってしまったが……。迷惑になっていないといいなということを、このときやっと考える。

「……何があったの?」

 ということを、ようやく真佳は口にした。宿舎は脱出し村長は遠く、村の人たちに囲まれた世界からは抜け出した。今、安全地帯を求めて急かす理由は存在しないと考えた。
 ヤコブスが視線を俯けたまま数秒、何かを考えているような、あるいは痕跡を追っているような、どうにも判別できない間を置いてから、次の言葉を口にした。
 決定的な一声を。もう戻れない一言を。

「――枢機卿が殺された」

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