コーヒータイムから数時間してから晩ご飯を提供されて、真佳は有り難く全てもりもりと平らげた。ルーナの作るお茶菓子は毎回張り切りすぎたためかめちゃくちゃに量が多いが、晩ご飯までの時間を考えると、それがこの国では普通なのかなあという気もする。枢機卿もルーナも、何だかんだと割合さくさく消化しているし。別に真佳が特別少食というわけでは無いと思うけど……(晩ご飯はさくらだって少し残すことがある。多分この国と日本とでは一回に食べる量が違う)。
 ご飯を食べる前も勿論だけれども、ご飯を食べた後も退屈だ。湯浴みをさせてもらった後は、夜の散歩をするか寝るくらいしかやることが無い。この村は星は綺麗だが街灯というものが存在しないので(暗闇の中一人で歩いても退屈なだけだし)、天体観測をする以外ではどうしてもやることが絞られる。結果的に、朝や昼よりも退屈な時間を強いられている。

(なう)

 自分で自分の思考にふざけた語尾をつけて、真佳はベッドに寝転んだまま部屋の灯りをぼうっと眺める作業に従事してみたりする。さくらとカタリナに寝る気がまだ無いので、魔術的な灯りは多分暫くついたままだ。明るさに関係なく真佳は眠りに落ちることが出来るので、今まで気にしたことは無い。
 今日はカタリナがソファで眠りにつく日なので、真佳の隣のベッドにはさくらが眠る。さくらは今湯浴みに行っているので不在だが。真佳が一番に入らせてもらって、その後にさくら、カタリナ、男性陣……というのが大体の湯浴みの順番だ。真佳とさくらの位置関係は割りと頻繁に前後する。
 湯浴みの準備をすべく自分の旅の荷物をがさごそやりながら、カタリナが物のついでとばかりに真佳に対して口を開いた。

「お茶会はどうだい。楽しいかい?」
「……枢機卿との?」
「まあ、そうさね。あたしらとのお茶会を取り上げて楽しいかなんて無粋なことは聞かないさ」

 と言って、カタリナは闊達に笑った。嫌味のない言い方が相も変わらず心地いい。

「割合楽しい。偉い人でも普通の会話はするんだなあって不思議に思う」
「何だい、それ。枢機卿を化物か何かだとでも思ってたのかい?」
「うーん、だって話が通じなさそうな感じがするじゃない。難しいこと言われたりとかー、何か無理難題吹っ掛けてくるだとかー、偉い人ってそういうイメージしか私無い」
 うーんと同じように呻きながらカタリナ。「……まあ、分かるような気はする」
「でしょう」

 我が意を得たり、真佳はしかつめらしく頷いた。寝転びながら。
 それからほかに、偉い人に対して真佳が思っていることがある。保守的で、自分の身は必死で守ろうとするくせに自分の身近にいる人間はいとも容易く切り捨てる。いついかなるときでも誰かが自分の地位を狙っている気がして、それが怖くて他人に高圧的になる。考えているのは自分の出世のことだけで、自身の生き方について振り返ってみることもない。
 そんなことをわざわざカタリナに対して言い募っても仕方がないので、真佳の胸の中に仕舞っておいた。真佳の祖母がかき集めた、位の高い人間の汚職の証拠、つまり弱みを取り返そうと、孫である真佳までをも巻き込んでお偉いさん方から命を狙われたり誘拐されたり、そんなようなことに昔からちょくちょく出くわしている、というのは、以前にもちらっと述べたとおり。そういうことで、真佳のお偉いさんに対する信頼度は低い位置なのがデフォルトだ。

(首都で会ったときは確かにそんな感じがしたんだけど)

 そこだけが微妙に引っかかっている。嘘で取り繕った様子も無いし、枢機卿は確かに自分が真佳の命を狙ったことがあると素直に告白してくれた。首都の彼と、今ここにいる彼とがまるで別人であるかのように。或いは、それだけの何かがこれまでの間に枢機卿の身にあったのか。

「そうか、枢機卿はいい人なんだね……」

 ぽつりと言ったカタリナの発言が引っかかって、真佳は頭と一緒に上半身を持ち上げた。ベッドから少し離れた場所に、ベッドに対して直角に置かれているソファの根っこで、カタリナが自分の荷物に視線を落としているのが見える。こちらに背中を向けているため、高いところで結わえられたウェーブのかかった茶色のポニーテールしか真佳の側からは伺えない。

「カタリナ?」

 気遣う声を投げかけた途端、カタリナが跳ね上がるように勢いよく立ち上がったので驚いた。

「ん? ああ、何でもない、何でもない。そろそろいい時間だし、サクラの様子見てくるよ。こっちも準備終わったとこだしね」

 と言いながら、へらりとした笑顔をこちらに向けて踵を返し、いやにきびきびした明朗快活な動きで扉のほうに向かっていった。ソファは扉からは一番遠いところにあるため、外に出るには一度真佳の寝転ぶベッドの足元を越えていかなければならない。

「カタリナ、」

 カタリナが真佳のいるベッドの端を越えたとき、発作的に呼び止めた。カタリナが何でも無かったみたいな顔で「ん?」と言って振り向いて、それで二の句が告げなくなって「……何でもない」と口にした。

「変な奴だなあ」

 可笑しそうに笑って見せてカタリナは部屋から出ていった。……呼び止めても特に何を話そうか固めていたわけじゃない。何で呼び止めたんだろう。自分の言動が自分で分からず、ベッドの上に寝転び直しながら小首を傾げた。


月の海


 ……心の奥底に引っかかった感触に視線を流した。カタリナが階段を降りる音が聞こえる。カタリナの見立ては間違っていない。さくらは多分、丁度湯浴みから上がったくらいのところだろう。多くの人が生活している気配がするが、それらは嗅ぎ慣れたにおいであるため心の琴線めいたものを爪弾くほどのものじゃない。
 窓の外に意識をやった。一拍遅れて窓の外を覗き込んだ(普通は逆なのかもしれないと真佳は思った)。
 まさか真佳と目が合うとは思っていなかったであろう人物が、不揃いに生えた下草の上でぎょっとしたような顔をした。



 階段をぱたぱたと降りるとき、シスターの一人とすれ違った。ちょっと夜の散歩にというようなことを慌ただしく口にしてから玄関扉に手をかけた。森に囲まれた清涼で涼やかな風が真佳の黒髪をかき乱す。やっぱりまだ寒いので、ハーフパンツとワイシャツの上に一枚羽織ってきた自分の判断を自分で褒めた。

「こんばんは」

 と枢機卿が言ったので、「こんばんは」と真佳は返す。枢機卿は少し、複雑そうな顔をして笑った。戸惑っているようだったので、何となくここまで来ただけで、きっと真佳と出くわしたいわけでは無かったのだろうとそのとき思った。

「えーっと、散歩ですか」

 とは言え出てきてしまったのだから仕方がない。窓越しに枢機卿と目が合って、自分に用があると勘違いして出てきてしまったのだ。扉から出てすぐ回れ右ではあまりに自分が不審者すぎる。

「少しね。夜風に当たりたくなってしまった。年をとるとどうにも、考え事が増えていけない」

 そう言って肩を竦めて薄く微笑った。亜麻布のネイビー色をしたシャツに白のズボン。当然古着屋で調達してきたようなものではなかったので、袖の長さも裾の長さも枢機卿の体格に合っている。多分部屋着、なのだろう。こんな感じのラフな格好をした枢機卿を見たのは、真佳としては初めてだ。まだ寒さが残っているからなのか夏場でもそうなのかは知らないが、半袖ではなく長袖だった。

「えーっと、公務のこと……とか?」
「それもあるが、まあ、そうだね」視線を遠くへ投げてから――森に囲われたこの村の外、地平線からずっと高いところにそこだけ星に侵されずただただのっぺりとした影が覆いかぶさっているのが見えた。真佳はその場所を知っている。富裕の街チッタペピータの、吸血鬼を名乗る男の塔だ――枢機卿は言葉を継いだ。「神のこと、教会のこと、母親のこと、故郷のこと、己の辿った生のこと……」囁くように、星の軌跡をなぞるように。
 ふっと力を抜いて、こちらに視軸を合わせてから彼は微笑った。「そんなようなことを考えていた」

 湿った夜のしめやかな風が真佳と枢機卿との間を吹き抜ける。マイナスイオンに浸された森の空気が真佳は好きだが、現代日本のコンクリートジャングルで暮らしていた身からすると、空気の湿度にすら溺れそうだと考えた。

「ここから更に西にあるんでしょう、枢機卿の故郷」
「おや、場所まで知っていたんだね」
 あっ、と思った。「ルーナから聞いていたので……」

 そういえば、母親の話は枢機卿から聞かされたが、場所についてはルーナに言葉をもらっただけだ。枢機卿のいないところで枢機卿の話をしていたとなると、やっぱり流石に気持ちいい思いはしないだろうかとひやっとしたが、枢機卿がくすくす笑うだけだったので真佳としてはほっとした。

「彼女も随分君に甘い」

 果たしてそういうことになるのだろうか。ルーナは割合誰にでも優しい。真佳にもさくらにもマクシミリアヌスにもいつも親身になって応えてくれる。多分きっと、枢機卿にも甘いのだ、と真佳は思った。
 枢機卿が嫌そうな顔をしなかったので、そのまま気になったことを舌に乗せて夜の空気を震わせる。

「そこに、お母さんが住んでるの?」
「ああ。父が亡くなっている、というのは前に君にも話したね。使用人を向かわせる話もあったのだが、父との思い出がある家を大事にしたいからと断られてしまった。今は母一人が住んでいるはずだ」
「じゃあ家もそんなにおっきくないんだ」
「その話も出たんだよ、私が枢機卿になって数ヶ月経ったくらいに。そのくらいになってようやく両親のことを思い出した私は(薄情な息子だろう、と枢機卿は自嘲気味に言い添えて笑った。)手紙で父母に申し出たのだが、その時も丁重に断られてしまった。今の家がいいらしい。慎ましやかな性格なのはいいことだが、住みやすい家になるよう改築するくらいはよさそうなものなんだがね」

 ふうん、と真佳は相槌を打つ。立っていた位置を少しずれて、扉のすぐ横の壁に背中を預けた。田舎の村で、たった一つの家に固執する年老いた女を夢想する。子どもが大きくなって、この国に幅を利かせる、歴史の根っこに名乗り出た教会のお偉いさんになって、それでも首都で何不自由なく暮らしたり、暮らしをよくすることはしなかった。
 多分きっと、お母さんにとっては亡くなった旦那さんもさることながら、枢機卿のことも勿論ずっと大切で、だからそのままで居続けているんだろうと考える。枢機卿が子どものころ走り回った家、自分を母親と言ってくれた家、枢機卿が生まれた家。家の柱や傷やシミと一緒に刻まれたそれらを指の腹で撫でながら、思い出と一緒に暮らすのだ。それは子どもを産んだ母親にとって、とても大切でかけがえのない時間なのだろうと思考する。

「いいお母さんだね」

 空想の老婆に語りかけるようにそう言うと、枢機卿は真佳の前で苦笑した。「枢機卿という肩書きを持つ男の母としては申し分ない、信徒の鑑とも言えるかもしれないね」……お母さんの真意に枢機卿が今すぐ気が付くことは無さそうだ。
 それでも真佳は何も口にはしなかった。真佳の思考が誤っているかもしれないし、それに何より、こういうのは多分他人に教えてもらうものでも無いのだろうと思うので。

「――」

 考え事をしていたので真佳はその間に特に疑念を抱かなかったが、その時確かに枢機卿は真佳のほうを見ていたらしい。凝視するように、憐れむように、探るように、躊躇うように。その時枢機卿の中でどういう計算式が使われて、どういう結果は弾き出されたのか真佳は知らない。その一言が引き金になったのかもしれないとは、後になってから考えた。

「……君は、ペシェチエーロには戻らないほうがいいかもしれない」

 真佳は枢機卿に意識を向ける。彼の意図が真佳のほうには分からない。枢機卿は語りかけるというよりはむしろ書きつけるように、視軸を左斜め下へ落としながら厳しい顔で口にした。宿舎の窓からかかる仄かな灯りが枢機卿の顔に深い陰影を刻んでる。

「――今度は私は外される。そういった意味での実質的な“休暇”だ。不必要だと切られたも同然だったのだと思っている。だが、今はそれでよかったとも思っているのだ。休暇でもいただけなければ、こうして君と再び出会う機会も、きっと無かったのだろうから」
「……ちょっと待って、話が見えない。どういう――」
「君はペシェチエーロには戻らないほうがいい、“あの御方”が――」
「“あの御方”?」

 復唱して聞き返した途端、枢機卿ははっとしたように唇を閉ざして息を呑む。そこだけ金縛りにでもあったみたいに外眼筋を硬直させて、真佳では無いどこか別の場所を凝視しているような硬結した時間が過ぎた。真佳としては意味が分からないが、枢機卿が何者かに追い詰められているのは分かる。“あの御方”? 枢機卿は一体誰のことを言っている? その人物に、ここで、もしや何らかの接触を受けたのか。

「枢機卿、大丈夫? 落ち着いて――」
「私のことではなく」

 枢機卿が意固地に言った。

「君の話なんだ、マナカ君」

 苦しげに、喉の奥底にあるものを必死に絞り出そうとしているかのように男は断固として口にした。
 ……よく分からない。命を狙われたことはいくつもあった。いつの間にかそれに対して、何らか感情を抱くことも忘れてた。こういう顔をしてくれる相手に向かって、何と応えるのが正答なのか真佳にはとても分からない。
 ちらちらと辺りを気にしながら、枢機卿がもう一度、声を潜めて口にした。

「いいかい、ペシェチエーロには戻らないほうがいい。出来るだけ遠くに逃げるんだ。このままサクラ君のお供を続けるのが、きっと丁度良いのだろう。用事が終わっても首都には戻ってはいけない。何らか理由をつけて、別の街にいるようにしなさい。首都にだけは二度と戻ってはいけない。いいね?」

 念を押すように告げられたそれに、まるでつられたように顎を下げた。それが頷きなのか何なのか、真佳には判別つきかねたが、枢機卿は安心したように破顔した。

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