午前四時三十分。さくらとヤコブスが離れて、ほんの少しの間に真佳のほうが帰宅した。夏に差し掛かるこの時期と言うのか、あるいはスカッリアでは冬でもこうなのかもしれないが、日は六時ごろまではまだ明々と天に鎮座ましましている。いつもの調子で行くならば、マクシミリアヌスらが帰ってくるのはこれより一時間後、五時三十分ごろだろう。幸い天気も悪くない。

「さくら、今日村長の家に来た?」

 出し抜けに言われて一瞬肩が強張った。聖書を握る手を一瞬強めて、弱めてから、何気なく聞こえる声を出す。

「……何で?」

 嘘を吐いてはいけない。道徳的な問題じゃなく、自分は嘘が下手である、ということを自認しているので。他人の注意をそらせようとすると、ついついより大きな方向へと突き進んでいってしまうのだ。咄嗟の嘘は控え、慎重に、慎重に……相手の意図を探らねばなるまい。

「や、何か気配がしたよーな気がしたからー。あれ、おかしいなーって思ったんだけど、さくら以外には考えられなかったんだよね」

 ……幸いにして、特に怪訝に思ったわけでは無いらしい。思い出したついでみたいな、随分気軽な物言いだ。
 左手で開いていた聖書を読んでいるふりを装って、並ぶ日本語と差し向かいながら肯定。唇を湿す。

「流石に暇だったから、ちょっと散歩にね。アンタお茶会のときでも別のことに気を配ってんの?」

 最後のほうは呆れを交えて口にした。枢機卿との茶会に随分慣れてきたじゃないか。最初はあんなに緊張を顔に出して渋々赴いていたというのに、今では片手間で気配を探れるほどにはこなれてきたということか。
 真佳が少し、ふてくされたような顔をした。

「別にいつも気を配ってるわけじゃないよ。こんな村に暗殺者とか何かがまさかいるはずも無いのだし……ただ何となく、琴線に引っかかったから、あれーと思って探ってみたらさくらの気配だっただけで……ってゆうか、近くまで来てたんなら寄ってってくれたらよいものを」
「流石にお邪魔はできないわよ。そんな余裕が出来るんだもの、もう大分適応して、今は楽しんでいるんでしょう?」

 意地悪く聞いてやると、真佳は唇を尖らせてさくらのことを睨んできたが、何も言い返さなかった。楽しんでいる、というのはあながち誤解でも何でも無かったらしい。それならそれでいいことだとも思うのだが。

「さくらは本当に枢機卿にもルーナにも会わないの?」
「何でそんなに会わせたがるの、逆に」
「いやあ……多分話題がさくらに行って、私がお茶とお菓子に集中することが出来ると思うんだよね」
「楽しんでたんじゃなかったのか……?」
「それはそれ、これはこれというか、楽しいのは楽しいけど長時間も人と協調出来るようには出来てないってゆーか」

 開き直ったように言い切った。あまり無い胸をそらしながら。

「タダで美味しいお茶とお菓子と振る舞われてるんでしょう。それくらい我慢しなさい」
「人が増えれば増えるだけ私が発言する必要性が無くなるんだってー美味しいよールーナも会いたがってたよー。割りと頻繁にさくらの話題にも飛ぶんだから。お互いお世話になったじゃんかあ」
「しつこい。いいでしょ別に」
「えー」

 ぶうたれた声で不満そうに口にした。
 周囲からは誤解されがちだけれど、こいつの根っこは陽性ではなくてどちらかと言うと陰性だ。特に対人関係に対してその性質は陰湿で、知らない相手に覚悟を携えないで話しかけられるほどの度量を持ってはいない。だから人見知りが激しいと、さくらは真佳を評している。それが陽性に見える理由と言えば――一言で言い表すのは難しいのだが――一つそれに似通った話を思いついた。シェイクスピアの戯曲の主人公ハムレットは、その場その場に即して“演技”をしているのだという話。これほど真佳に当てはまる言葉がほかにあろうかとさくらは解説を見て唸ったものだ。だからこそ浮き草のように周囲に見られもするんだろう。だからと言って、真佳がハムレットに似ているなどということは本当に全く無いのだが。

「人と話すことに慣れる場だと考えなさい。知ってる人しかいないんだから問題ないでしょ」
「無いけど……っ! 無いけどさあ……!!」

 ベッドの短い辺のほうから、長い辺の片側に座るさくらに向けて悲惨そうな声で言い募ってきたが、さくらは聞かないふりをした。こんなことを言っておいてどうせ明日も行くのである。暇だから、という理由だけではもう無いだろう。お茶会の最中にぼうっとする時間が欲しいのは本当だろうが、全部が全部苦痛だというわけでは無いのだし、助け船ばかり出していても今後真佳が立ち行かなくなるかもしれないし……。
 自分で考えたことに、私は真佳の母親かと自分自身で突っ込んだ。赤面を誤魔化すように聖書の文字を追いかけることに集中してみることにした。


パウザカッフェ


 午後五時三十分、真佳が帰ってから一時間して漸くマクシミリアヌスら落石撤去部隊が帰ってくる。あと三十分もしたらすっかり辺りは暗くなり、踏み慣れた道と言ってもあの狭い崖道や森の中を渡るのは危険なために暗くなる前に必ず村に帰るようにしてるという。早く済ませたいのは済ませたいが皆の安全が第一であろうとマクシミリアヌスが提案した、ということを、カタリナの口から聞いていた。落石の撤去のために怪我人が出ては大変なので、そのことに何らかの意見をさくらのほうから差し挟んだことは特に無い。
 彼らが帰還すればシスターが各々の分のコーヒーを淹れる。当然のようにさくらや真佳にも声がかけられるが、真佳はお茶会を嗜んできた辞退することが多く、この時もコーヒーは辞退している。お腹がたぷたぷになるのだそうだ。ただしその場には参加したため、ヤコブス以外の全員が食堂に集まった。
 元の世界でのイタリアでも複数人でコーヒーブレイクに頻繁に出かけるという話を昔に聞いたことがある。話によると、平均して日に四回くらいは行くそうだ。その時の時間は人によってまちまちで、一、二分ほどで切り上げる場合もあれば、三十分も談笑している場合もある。それはスカッリアでも当てはまるようだということを、この数日で観察していて理解した。
 例えばマクシミリアヌスは一、二分。真佳やさくら、たまにカタリナと話があればそれなりにのんびりコーヒーブレイクを楽しむが、基本的には誰よりも早く切り上げる。と言って、この村に来てからは早々に切り上げたところでやることが無いので、コーヒーを飲んだ後も椅子に座り続けていることが多いのだが。“大鼻”トマスもこのタイプである。カタリナと“糸目”のフゴは五分から十分くらいは談笑に花を咲かせるし、“樽腹”グイドなんかは三十分くらいちびちびとコーヒーを舐めている。
 少ないコミュニティーの中でもここまで差が出るのは面白いものだ。因みにさくらはカタリナやフゴに付き合う形になることが多いため、五分か十分で飲み終えることが多いと言える。真佳が飲むときはグイドと同じくらいかな……。一気に飲むと後々胃痛がするのだと厳しい顔で言っていた。飲み物には滅法弱いやつなのだ。

「大分終わりが見えてきたな」

 と、珍しくマクシミリアヌスが明るい口調で口にした。ヤコブスがいないことも手伝って、口は軽くなっているのかもしれない。その声が振られた先はカタリナやトマスのほうだった。コーヒーのカップを傾けながら、実に気軽にトマスのほうが頷いた。

「この調子だと予想よりは随分早く終わるかもしれやせん。半月以上はかかるかと思いやしたが、いや、人手がいるってのはいいことです」

 さくらは真佳とこっそり視線をまじわした。いつの間にかカタリナとだけでなく、トマスとも随分自然に接すようになっている。トマスのほうはまだぎこちないものの、ヤコブスの応対と比べれば遥かに友好的と言えるだろう。
“樽腹”グイドはもとより誰に対しても友好的、あとは“糸目”のフゴだけだが……。

「……」

 一人マクシミリアヌスとの会話に我関せずという態度で――というよりは、どう関わっていいやらわからないという困窮した態度でコーヒーを喉に流し込んでいるのを確認して、成る程、と自分のコーヒーの水面を見下ろした。
 幸か不幸か、落石撤去を通じてマクシミリアヌスは随分とガプサの面々と打ち解けた。ヤコブスがどうであれ、きっとこの大男はその存在感を誰の心にも落とすだろう。この国の英雄と謳われる、それが要因かもしれない、と思うと、納得できるものはあった。誰よりもこの国を憂い国民を優先して護ろうとするこの男を心底から突っぱねることなど誰にも出来ない。
 ……ただし、とさくらは考える。カップの縁を指でなぞって。
 ただし、それは人として、という話。人として好ましい存在であったとしても、異教という決定的な立場の違いはどうしても彼らを相容れない存在に位置付ける。だからフゴは難しい顔をしているし、トマスは気さくに話しかけながらも距離を置く。ヤコブスほど顕著ではないにしろ、この線引きはどうあっても覆すことが出来ないのだということをさくらに強く印象付ける。

「嬉しくはないのかい? 出立の時期が早まったんだよ」

 テーブルを挟んだ真正面からカタリナに声をかけられて、はっとして意識を浮上させた。隣で真佳が、左斜め前からはマクシミリアヌスが、隣のテーブルからはフゴ、グイド、トマスがさくらのほうを向いている。
「ああ、えーっと……」つい今しがたのカタリナの言葉を反芻した。いつの間にそういう話になっていたのだろう――。

「別に、遅れることは構わないのだってば。何度も言ってるけど、私だけが旅してるわけじゃないのだし、アンタらも後悔しないように動けばいいの。私は連れていってもらってる側なんだから」

“連れていってもらっている側”と言っておきながら、不遜な言葉遣いになったと思う。慣れないなあと思いながら、コーヒーを喉に流し込むことで何とか体裁を保つことに専念できた。考え事をしているところをそんなに大勢に見られていたとなると流石にやっぱり少し恥ずかしいのだが。

「あたしたちはサクラのそういうところにいつも助けられてるよ」

 と言って真正面でカタリナが笑った。机の上に腕を組み、その上に顎を乗せながらいつもよりものほほんとした笑みが零れていたように思う。恥ずかしがっているのを見透かされたのかと、一瞬無駄にひやりとした。

「じゃあもう旅立ちの準備をしていたほうがいいってこと?」
「いや、恐らくそんなに早くにはならんでしょう。残り一週間以内には出立できるってえだけで、今後何があるかもわかりやせんので」

 ふうん、と真佳が、カタリナと同じ体勢のこもった声で口にした。「っていうか」と、トマスが続けて別の言葉を口にする。

「マナカさん出立に準備が必要なほど荷物なんて無いでしょうよ」
 これに真佳が唇を尖らせて、「無いけどぉー、一応の確認のためですぅー。明日出るんだったら枢機卿にも話に行かなきゃいけないし……あっでもそのときは枢機卿も一緒に出る……んだっ……け?」

 と言いながら最後の一音で真佳の赤目がこっちを見た。私に言われても困る……とさくらは苦い顔をする。マクシミリアヌスや真佳を初め、枢機卿、ルーナ、エルネストゥスあたりはそりゃ一緒に出てもいいだろう。問題はヤコブスを初めガプサ一派の方向で、いくら彼らがマクシミリアヌスと大分打ち解けてきたとは言っても、憎き異教の親玉と共に行動するなんていうことは考えられるようなことじゃない。カタリナらがいいと言っても恐らくヤコブスが別行動を希望する。

「別に行動する理由を何とか考えておかねばならんな……」

 という言葉が、よりによってマクシミリアヌスの口から出てきたことに驚いた。さくらだけでなく、マクシミリアヌスの隣に座したカタリナも、隣の島に座っているフゴとトマスも驚いたようにマクシミリアヌスを凝視した(フゴなんかコーヒーを吹き出しかけた後二度見した。グイドだけは何も無かったかのように美味しそうにコーヒーを口に流し込んでいたが)。

「おっ……」何かを言いかけたみたいな引き攣ったような言い方で、「どうしたの、マクシミリアヌス絶対枢機卿と行動すると思ってた」

 意外過ぎて戸惑ったような声色でもって、真佳がさくららの意見を代弁するように口にした。多分驚きでだろうが、上体を起こしたためにテーブルの上で組んだ腕から顎がいつの間にか浮いていた。
 それに怪訝な顔をしたのはマクシミリアヌスだ。何故そんなようなことを言われるのかが分からないとでも言いたげな表情で(こちらからしてみれば、何故マクシミリアヌスがそんな顔をするのかが分からないのだけども?)、

「何だ? 枢機卿と共に出立を果たしたかったのか? それならそれで――」
「いやいやいや、マクシミリアヌスだったら一人でも、一時くらいはって枢機卿と一緒に行動するとか言い出すと思ってたって話であって」

 これには流石にマクシミリアヌスも、むっとしたような顔をした。

「そこまで無神経ではないつもりだぞ。さっきサクラも言っただろう。サクラだけが旅をしているわけでは無いのと同様に、俺だけが君たちの護衛についているわけじゃない」ふん、と彫刻みたいながっしりした鼻を鳴らして、「多少癪ではあるがな……」心底苦々しそうに口にした。

 さくらは真佳と視線を合わせ、それからカタリナ、グイド、トマス、フゴと順々と顔を見合わせた。……まさかマクシミリアヌスからそんな言葉を、いや、そんな考えを持っているとは思わなかった。きっとこの場の誰も思っていない。そういう顔をしていたから。
 マクシミリアヌスはもう一度ふんと鼻を鳴らして、

「それに俺が枢機卿と行動をしたとして、君たちは新教の連中と行動を共にするのだろう。君たちを一時でも新教の連中に託すのは、君たちが思っている以上に俺は不服だ」

 今回はカタリナらへの配慮はかけられなかったように思う。まるで引かれた直線を示すかのように殊更尊大にそう言った。
 通路を挟んで左隣にいる“糸目“のフゴに目をやって、さくらは口角を上げてくすりと笑った。頭に巻いたタオルの下、フゴの糸目が僅かに見開かれたような気がしたが――瞳の色を見損ねたので、多分気のせいだったのだ(がちゃん、という音がした。「何やってんだ、フゴ」「危ないよー」「いや、手が滑っ、あちち!」……コーヒーは幸いなことにどうやら零れていないらしい)。
 考えを改めたのはガプサの側だけじゃない。マクシミリアヌスだって不変じゃない。
 頭でっかちな馬鹿じゃないんだから、立場はどうあれ彼らの人間性にはきちんと目を配っていた。この中では一番ヤコブスに思想が近いフゴに、そのことを知らせられたことが多分何だか嬉しかった。
 最初はどうなることかと思ったけれど、なかなかどうして、思った以上にいいチームになりそうじゃない――
 ということは、勿論誰にも言わなかったが。

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