てらいのないエルネストゥスのマクシミリアヌス評を聞きながら、さくらは別のことを考えている――そのときのヤコブスの心情と、そこから変遷していくヤコブスの心境とを。
 マクシミリアヌスへの憧れは、当時ヤコブスにはあったのだろうか? そこからどう至って今の心境に落ち着いた? 今、その心情には本当に忌々しさしか無いのだろうか。

「そんなに気に入ったんなら、またいつでも見に来るといいよ。君ならきっと迷わないだろうし、僕も歓迎するし。子どもたちも嫌な顔はしないんじゃないかな」

 ポスターをじっと見据えていると、何を勘違いされたのかエルネストゥスからそんな言葉をかけられた。朗らかな邪気の無い申し出に一瞬虚を突かれて、

「……どうも。ありがとう」

 と口にした。


デヴィアトイオ―分岐器―


 送っていこうかと申し出たエルネストゥスに丁重に断りの言葉を入れて、さくらは一人ツリーハウスから降り立った。広場とは反対側に梯子がかけられているために、こうして梯子と向かい合って下っていくと視界の端に広場の一端が映り込む状態になる。ここから真っ直ぐ広場の中心を突き抜けて、森を抜けた先が村。痕跡を辿りながら道もある程度は見ていたが、何しろ森の中でのことなのでまたほとんど痕跡を辿って辿り着くのが主になるだろう。森をそうそう甘く見ることは出来ないのだ。
 子どもたちの楽しそうな歓声がまだここまで届いていた。エルネストゥスは彼らが帰るときも戻ってくるのだろうと思う。問題はそれをヤコブスに伝えるかどうかだが……まあ、こんなに時間を食ったのだ。さくらが説明しなくとも、きっとある程度彼も予想はついているのではないかと思う。

(問題はむしろ怒るか怒らないかだけど……呆れるほうに軍配かな)

 というのがさくらの見解。迷う危険性がありながら森に入ったことは浅慮だったと理解しているが、迷う兆しも無いまま見つけてしまったのでそこをさくらは悪びれる気は無い。別に伝えて大丈夫だろう。広場を突っ切って森の縁に立ちながら確信した。一応足元を注意深く観察して、自分が来た場所で間違いないかも確認しておく。
 エルネストゥスは窓の向こうからこちらを見つめているだろうかと思い至って、広場の向こうの後方を大きく仰ぎ見る。窓ガラスもはまっていない木枠だけの窓の向こうのエルネストゥスと目が合って、くしゃっと微笑まれながら手を振られた。何もしないで帰るのも失礼だと思ったので、軽く会釈を返してから改めて森に向き直る。……子どもなのか大人なのかよく分からない人だったが、ヤコブスが苦手意識を持っている理由は何となくだが理解した。
 森を侮ってはいけないとは言ったものの、とは言え帰りの道行きは行きのそれよりも短かったのは否定出来ない。自分の記憶力も案外馬鹿に出来ないものだなと、ほとんど痕跡を辿らずとも村に辿り着いたときに改めた(とは言え慢心で迷っていてはヤコブスに悪びれず報告することは出来ないので、細心注意を払って辿り着いたのもまた間違いないのだが)。
 こうして往復すると徒歩で恐らく四十分から五十分。太陽の位置を確認すると、出発したときよりも若干西側に傾いてはいるもののまだまだその恩寵は健在だ。恐らくこの国の季節が夏に差し掛かろうとしていることも効いているが、時間にして四時程度、スカッリアの太陽の巡りには詳しく無いが真冬であっても日はまだ明るかったであろうと予想する。

(四時程度、か……)

 己で立てた時間の計算に胸の中だけで独りごつ。ヤコブスと別れてから二時間経った。心配をかけぬようにと考えていたわけでは無いし、前述したとおりさくらがどこへ行ったのかについてある程度の予測がついているのは間違いないので特にひやりともしないのだけど、もしも待たせているのなら申しわけないことをした、という思いはある。そこだけは謝らないとな。もしも待っていたら、という話だけれど。
 森から教会宿舎まではちょっと考え事をしている間には着いている。ヤコブスがこちらに目を光らせているかもしれないなとは考えたが、ヤコブスらに宛てがわれた部屋の窓はこちら側には向いていない。したがって、目を光らせるには別の人間に宛てがわれた部屋に入り浸るしか方法が無いのだが、アイツがわざわざこんなことに無駄な手間をかけるとも思えなかったので、まあ見てはいないだろうと結論付けた。
 真佳は帰っているだろうか。もしも帰っているのなら、さくらが部屋を離れていたことを訝しんであれこれ問いただしてくるだろう。それはちょっと面倒くさい。

(まあ、自分は好き勝手やってんでしょうがとでも言えば、多分黙るとは思うけど)

 これは切り札にしておこう。あまりに煩かった場合においての。
 扉を押し開けて中に入ると、宿舎の中はしんと静まり返っていた。宿舎と言ってもちょっと大きい一軒家程度の広さだし、今ここに住んでいる人間はさくらら一行とシスター以外誰も存在しないという過疎っぷりではあるのだが。
 スカッリアでの一般的な夕食の時間は大体八時から九時である。勿論こんな時間帯からシスターが台所で立ち働いているわけもあるまいし、きっと教会のほうにいるのだろう。マクシミリアヌスら落石撤去部隊は村の外、真佳は戻っていなければ枢機卿とお茶会……と、静まり返るのも分かる割り振りではあった。
 ただいまと言うのもおかしな話に思えて、玄関からそのまま目の前の階段を上がって自室に向かうことにした。階段の上からちらと食堂に視軸をやったが、物音や気配らしいものは無い。前述したとおり、夕食までには大分間がある。部屋でゆっくり過ごすとしよう。久々にしっかり歩いた気がする。
 スカッリアでの生活基盤も随分慣れた、と考えた。夕食というと、元の世界にいたときには大体六時くらいに食べるようにしていたので。こちらへ来るまでの三年ほどは真佳と生活を共にしていたから、アイツも慣れるのにもしかしたら時間が必要だったかも。なし崩し的に家事全般はさくらの仕事であったから、夕食の時間も無理やりそれに合わさせた。誰かが矯正しないとアイツの生活リズムときたら途端に一般的なそれから大きく逸脱――。

「ヒメカゼか」

 わざわざ階段先に姿を見せたヤコブスがとても端的に口にした。こちらから会いに行くパターンしか想定していなかったために、咄嗟に言葉に詰まってしまった。

「――ああ、ええと、ごめんなさい、待ってた?」
「いや。足音がしたから誰かと思っただけだ」誰かに用事があったのだろうか? と考えたが、さくらが口にする前にヤコブスが先に言葉を継いだ。「エルネストゥスには会えたのか?」

 自分から聞いておきながらどうでもよさそうな言い方で、それが本当に聞きたいことだったのだろうかと少しさくらは疑った。

「お察しのとおり、会えました」
「そうか」と言うと途端に渋面になって、「村長宅からこっちへ向かう姿を見ていなかったのだが、まさか一緒に茶でもしていたわけじゃなかろうな?」
「タイミングの問題じゃない?」とさくらは切り返す。本当は死角になるところをわざわざ通っていたのだが、別にそこを認める必要は無いだろう。「安心して、村長宅にはいなかった。森の中の、秘密基地で見つけたわ。暇を持て余してそこで子供たちの様子を見てるみたい」
「秘密基地?」

 という語尾が跳ね上がった素っ頓狂な問いかけがヤコブスからあったことに、さくらは少しぎょっとした。

「知らないの? アンタも子どものころ携わってたって聞いてたけど」
「そんなことも話したのか」
「まあ、秘密基地の中での出来事だからね。自然とそういう話にもなるでしょう」

 当然みたいな顔で言うと、ヤコブスが溜息を吐いて額に手を押し当てたまま固まってしまったので何なんだろうと考える。階段の中途に足をかけたまま話しかけられて、そこで止まってしまっていたので、折角なのでこれを機に階段を上まで上り切ってから改めて、ヤコブスと同じ足場で対面した。もしかしてと思うけど、村に寄り付きたくなかった理由に過去の話を根掘り葉掘り話されることに抵抗があった、なんていう、思春期男子みたいな可愛らしい一面がちょっとは含まれていたのだろうか、などと勘ぐってしまうのだが。

「ほかには何も話されなかっただろうな」
「抽象的すぎて分からないのだけど……マクシミリアヌスの話にはなったかな」
 心底嫌そうな顔と声音で、「何故奴の話題が出てくるんだ……」
「秘密基地にまだポスター……散らしがあったから。教会発行の、マクシミリアヌスの。その当時どれだけ人気だったかっていうのをエルネストゥスに熱く語られたの。今までそういうのを聞いたことがなかったものだから、そういう話は少し新鮮よね」
「俺の話は出なかっただろうな」

 その意味は当然、前後の話題をふっ飛ばして自分の話題がエルネストゥスとの間で出なかったか、という意味ではあるまい。マクシミリアヌスの話題から繋がるものがあるはずだ。

「……マクシミリアヌスの件に関しては聞いていないわ。当時の年長組が興奮気味に張ったこと、当時のマクシミリアヌスの演説と、当時のエルネストゥスたち子どもの世代から見たら、マクシミリアヌスはヒーローであったということ、くらい」

 考えはした。そんな環境の中で、ヤコブスは本当に最初から、マクシミリアヌスを忌み嫌っていたのだろうか、ということは。
 その程度のことは予測可能だろうし、当然ヤコブスもさくらの心情を慮っているに違いない。こいつは決して馬鹿では無いし、考えなしの愚者でも無い。
 ふん、とヤコブスは鼻を鳴らす――「まあ、世間がそういう認識であったことは認めよう。やつの呼びかけにより、教会による第一級魔力保持者の獲得数は随分伸びたということだ。神の名のもとにという名目よりも英雄からの呼びかけのほうに応える者が若干数いたということは、同じソウイル教信者として嘆かわしいことだが、と言っておく。結果として教会に必要以上の戦力を投じた奴の言動は、この国に破滅をもたらしこそすれ救済をもたらしはしなかった」
 ヤコブスらしい持って回った皮肉的な言い方で。それはさくらの無言の問いかけに対する回答では無かったが、突っ込んで聞こうかどうしようか悩んでいる間にヤコブスのほうから続けるように口にする。長く長く、吐息して。どこか遠くを見つめるように、目を細め、見えない空を仰ぐようにさくらよりずっと上のほうに視軸を据えた。

「……凄い人間がいるものだ、と思ったものだ。当時は丁度、第二級魔力保持者として生まれたことへの反感と、第一級魔力保持者として生まれなかったことへのやっかみみたいなものも抱え込んでいたんだろう。素直にそう口に出すことは無かったが、もしも自分も第一級として生まれていたのなら、ソウイル神の――教会のお役に立てることが、もっとそこにはあったんだろうかと考えていた」
「……」

 マクシミリアヌスそのものに対する尊敬の念ではなく、力そのものに対する憧憬……とは、随分ヤコブスらしいものだと、素直にさくらは感嘆した。子どものころからそこまでひねくれた人間だったとは……と、文字にするとただ貶しているだけのように思われそうだが。

「ま、エルネストゥスがそこまで人の感情を見抜けているとは思えまい。俺の話が出なかったのは至極当然の結果だったな」
「心配していたくせに何を言う」
「奴が間違った情報を君に与えていやしないかと危惧しただけだ。奴の内側から出た人物評は大方間違っているものだから、信じ込まないほうがいい」
「…………」

 まあ、若干人の機微には疎かったけども。
 こういうことを言うと調子に乗せてしまいそうだったのでさくらは敢えて口を噤んだ。ヤコブスと一緒にエルネストゥスの不満点で盛り上がる気はなかったし、それに鈍感ではあったけどもエルネストゥスはいい人だ。それは変わっていないと思う。

「それより、その秘密基地の話だが」

 と、先ほどとは打って変わって険しい顔をしてヤコブスは言った。「……?」何か不味いことでもあっただろうかとざっと記憶を漁ったが、それに該当しそうなものは見つからない。それに、仮に不味かったと仮定しても、その割りには最初に秘密基地の話をしたとき、それほどの強い反応は見られなかったと考える。

「見つけたのか?」
「……? 私? 見つけたから行ったんでしょう――ああ、誰かに連れていってもらったわけじゃなかったわよ。エルネストゥスとも、秘密基地の中で出会ったから」
「よく場所が分かったものだな」
「子どもたちがどこかへ消えているのは見えていたし、何かがあるという大方の予想はついていたから。折れた枝や土に踏み固められ方を追って見つけたの」

 まあ、最初から秘密基地を求めていたのではなく、畑かそれに準ずる何かを想定していたので、想定外だったと言えば想定外ではあったけど。

「それにしてもよく見つけた。隠す努力は怠っていなかったはずだが」
「多分昔の話よね? 隠す努力はしていたけれど、多分油断みたいなものがあるのだと思うわ。誰にでも見つけられるほどとは思っていないけれど、秘密基地の存在を知っていて、且つ見つけようという意志と、ある程度の知恵がある人になら見つけられると思う」

 ヤコブスが深く吐息した。実は、さくらは少し意外に思っている。ヤコブスにしては珍しく、本当に珍しくただただ純粋に褒めている。よく見つけた、なんて、そんな手放しの称賛を今まで受けたことがない。

「まあ、時というのはそういうものか。俺もそういう方向で探していたなら見つけられていたかもしれん」
「ヤコブスも? 探していたの?」

 あんなにこの村を忌避していたのに。さくらの目にはヤコブスは、この村、ひいては彼自身の過去と、まるで決別したがっているかのように見えていた。だから彼が自分から、過去の自分と接触するかのような行動をしていたことに驚いた。

「探していたというか……廃墟と化していないか気になっただけだ。廃墟になっていれば俺がしばらくそこで過ごすと決めていた」
「誰も知らないから、というわけね……」
 飄々と肩を竦めて見せてから、「君やトマスらには言うつもりだったさ。出発の際には声でもかけてもらう必要があるからな」
「廃墟になっていない状態でも、人が寝起きできる空間にはなっていないようだったのに」
「心配せずとも野宿は慣れている。毛布が無い状況も全く無かったわけじゃない。屋根と壁があるだけで贅沢だとも。この季節、この土地柄なら凍死することもない」

 さくらの言外の抗議を飄々とかわして、ヤコブスはズボンのポケットに両手を突っ込みながら再び首を竦めて見せた。ガプサの上衣を羽織らないヤコブスの様相も、もう随分見慣れたものだ。それと同時にどこかで一抹の寂しさを感じていることにも気が付いている。シャツやボトムスはそれぞれ微妙に異なるもののヤコブスを初めカタリナ、トマス、グイド、フゴ、この五人がそれだけ揃いの上衣を羽織り集結する有様は頼もしさと崩れぬ一枚岩を感じたものだ。彼らがガプサ、つまりソウイル教・新教を大手を振って名乗れる場面でない限り、彼らはそれを名乗らない。つまるところもしかしたら、さくらにとってのこの旅が終わるその日まで、彼らの肩書を表明する青い上衣は彼らの荷物の底の底で息を潜め続けたまま、お目にかかれない可能性が非常に高いということだ。
 真佳ほど日本に浸かっていたわけではなかったので宗教の扱いの微妙なところは(少なくとも真佳よりは)体感しているつもりだが、生きにくいものだな、と思う。この世界も、さくららがいるべき元の世界も。
 溜息を吐いた。

「で、その頼みの秘密基地が現役だったことが分かってどう?」
「どうということも無い。子どもというのは秘密基地が好きなものだな。未だ大事に子どもの遊び場になっているとは」
「落石が撤去されるまでほかのところに身を寄せる気は今はない、ということ?」
「今のところはな。ほかにいいところが見つかればそこに潜り込むさ」

 と言ってまた飄々と視線を逸らした。
 何かが足りないと思ったら、今回は煙草を吸っていない。切らしたのかと尋ねたら、ただ部屋に置いてきただけだと返された。

「水をもらいに行く途中で君と会ったのでな。すぐ戻る予定だったから煙草を持って出なかった。煙草無しで他人と会話をしたのは久しぶりの気がするな」

 見事にヘビースモーカーだな……ということを、呆れ半分に考える。そういえば、これからどんどん僻地へ向かっていくわけだが煙草は切らさないのかと聞いたら、煙草の葉さえあれば作ることは容易だろうと怪訝そうな顔で返された。成る程……この国の人たちは、何でも自分たちで解決する術を既に持ち合わせているらしい。業者や政府に頼る必要なんて無いわけだ。戦後から復興を果たしてきていると言っても、それは飽くまで首都周辺に限定した話、やはり今は、多くの国民にとっては自分で何とかせざるを得ない時なのだろうと思量する。

「一先ず、エルネストゥスが“奴”と会っていないのなら良かった。俺は誰にも話さんが、秘密基地の件に関して情報共有が必要だと思うのなら話しておけ。何の役にも立たんぼろ小屋だがな」

 と言って、ヤコブスはそのまま階段を降りていった。途中、口元に手をやってから虚空を掴み、渋面を作った横顔とすれ違った。ヘビースモーカー……と、ついさっきに思ったことと同じことを考えた。
 秘密基地のことを話したところで何か得られることも無い。一人で勝手に森の中に入ったことをマクシミリアヌスに咎められるのが関の山だ(多分真佳にも、さくらだって猪突猛進の気が無いわけじゃないじゃんみたいなことを口を尖らせたもごもごした口調で言われる)。ヤコブスが黙っていてくれるなら御の字、このまま穏やかに緩やかに、落石が撤去されるのだけを待てばいい。ほんの少しだけ顔を覗かせた好奇心は再び水面に沈下する。
 そう思っていた。
 事が動き出す、そのときまでは。

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