窓の前を通らないように慎重に村長宅を一周した結果、二階へ行く確かな方法はさくらには見つけられはしなかった。木々の枝から頑張れば飛び移れないことも無いのではないかと思ったものの、確実に音を立てて気付かれそうだし、そもそもの話真佳らに気付かれないよう木を登るという芸当がさくらにできるわけも無い。 この家の構造上、一階は居間とキッチンを合わせた一間のみのようだったので、この家にほかに誰かがいるのなら十中八九二階のほうで間違いない。間違いないのだが、仮にエルネストゥスとやらがこの家の二階にいるとして、さくらには彼の姿を拝む術が今のところ無いわけだ。うーん、普通に進路が断たれてしまった。エルネストゥスの姿を拝んでどうしようという思いがあったわけではなかったが。 (例えばここにいないとして、じゃあどこにいるかを考えると……) ヤコブスは、エルネストゥスの家に彼はいなかったと言っていた。ノックをしただけで帰ってきたのかもしれないが、ヤコブスがいなかったと言う以上多分何らかの確認はしているんだろう。埃の動きとか、そういうものを。どの道さくらはエルネストゥスの家の場所を知らないし、ヤコブスのそれを信じるしかないとして、となるとあと考えられるのはただ一つしか無いわけだ。 東側――つまり教会施設がある方角に視線を投げて、目を細めた。教会よりもずっと向こう、あの森の入り口の先で、村人の何人かが農作業やら何やらをしていることは知っている。ついさっき、ヤコブスが訪ねてくる前に迷子になってしまっては申しわけないと自ら却下した発案だ。実際森を甘く見てはいけないことは知ってるし、勿論迷子になって迷惑をかけるわけにはいかないことも間違いない。 ただ、問題なく終わらせるだけの見込みはあった。村人が毎日通る道、そこには勿論人が通った形跡というものが作られる。地面は踏み締められ、進行に邪魔な木々はそれとなく切られていたりはするだろう。よそから隠したいという意思は見られるものの、毎日通う場所を完璧に隠し通せるはずがないことも彼らはきっと知っている。 だから、その痕跡を辿ればいい。分からなければ戻ってくればいいだけの話だ。そう難しいことでもない。 何より、もう何千回も思ったことだが、単純な話、姫風さくらは暇だった。 |
新緑の影に誘われて |
――教会宿舎からヤコブスがこちらを見ている可能性を考えて、死角になるような位置取りでもって見慣れた森の入り口まで来たものの、きっと無意味だったろうなとさくらは思った。見ていたならさくらが村長宅を一周しているのも見えたはずだし、一周した終着点で森の入り口に視軸を固定させていたのも見ていたはずだ。ヤコブスに知られたところでやましい気持ちなど微塵も無いし、隠さなければならないことをしているとも思っていないので別段問題は無いのだが(むしろ気付かれて共に行ってくれるならありがたい)、こうして隠れようとしてしまうのは何故だろう。 (真佳の冒険癖が感染ったかな……) ということを、さくらは本気で考えた。 退屈と無関心が人を殺すという言葉を、その昔イギー・ポップというミュージシャンが口にしたと言われている。であればこれは、死を免れるための投薬と同義だろうか? ……何だか真佳っぽいことを思ってしまっている気がするが、或いは真佳はそこまで考えないのではないかという気もしなくもない。自分が真佳に侵されているのか、はたまたこれは自分の裡に潜む本来の好奇心から来るものなのか、さくらには判断つきかねた。 宿舎の窓から見えた村人たちが立ち入る入り口は、たしかこのあたりであったはず。目をこらして地面をよく見て、落ちた小枝や下草の折れ具合からここに間違いないことをさくらは確信して目を上げた。一見して周りと寸分違わない道筋に思える森なれど、こうしてちまちま観察して行けば村人が通る“見えない道”は案外容易に見えそうだということは証明された。見つからずとも問題は無いので、日が沈む前、或いは道がわからなくなった適当なあたりで折り返そう。そのための帰り道もきちんと観察して頭に叩き込んでおかなければならない。こうして列挙していくと割合やることは豊富だが、何のことは無い、ただ観察して、“見えない道”を往くだけだ。 南の空を仰ぎ見る――午後……恐らく三時かそのくらい。今は日が長いので、戻りの分も見積もって一時間半。それくらいならちょっとした散歩と変わらない。 (時の魔術式を持ってきてないのだけが不安点だけど) というか、魔術銃以外の持ち物を全て宿舎に置いてきてしまったけど。 別に問題事に首を突っ込むわけじゃないんだし、別に大丈夫でしょうとさくらは珍しく楽観的に考えた。 最初の一歩に続いて森に一歩二歩と足を踏み入れていくたびに思ったのは、割合隠そうという気概が村人たちに浸透していないらしいということである。或いは最初のころはいかなる小さな物事であろうと消し尽くすよう努力したのかもしれないが、長く続く平穏によって気が緩んだのかもしれない。流石に誰が見ても分かるような大きな痕跡は消されたような跡があるものの、小さな痕跡は比較的すぐに見つかった。これなら思ったよりも時間をかけずに見つけられるかも……。好奇心は逸るものの、これが偽の手がかりである可能性も考えなければ泥沼にハマることは知っていたので、一歩歩くごとに一度深呼吸して立ち止まり、状況を見極めなければならなかった。村人たちは隠すことに飽いてきたのだと、決めつけるには早すぎる。 (……思ったよりしっかりしてる) と、さくらは思う。折れた小枝や踏みしめられた木の葉や下草、そういったものは排除することは可能だが、踏みしめられた土というやつだけは痕跡を消すとなると難しい。相当長い年月踏みしめられているということで、これを擬態するのも難しいが、それでも別の道をあえて毎日通ることで踏み固めているというダミーの存在は捨て切れない。慎重に歩くことだけは変わらず行うようにした。 (……みんなその思考の閃きは鮮烈であると口にするけれど……) 樹木しか見るものの無い場所で、さくらは手持ち無沙汰気味に思考する。視軸は見えない路を辿り、ほかに手がかりは無いかを探り、足はしっかと踏み固められている土であるかを吟味する。 少し勢いをつけて、吐息。 (ずっと考え続けることで、細やかな可能性を虱潰しに排除していってるだけに過ぎない。多分きっと、ミステリ小説の探偵もみんなそうなんだろうけど……。最後の結論だけを述べているから、稀代の天才だなどと謳われるのだ) 思い出しているのは、港町スッドマーレでのことである――今から一月と少し前、さくらと真佳とマクシミリアヌスは、とある殺人事件に巻き込まれた。身近な知人が容疑者として捕まったこともあり、マクシミリアヌスを巻き込む形で独自の捜査を始めることになったのだ。その時結果的に探偵役として立っていたのが、さくらであった。謎解きが生きがいなわけでも家族が警視だったりもしない、ごく普通の女子高生として今まで過ごしてきたこともあり、勿論上手く出来るとも思っていなかったし今でももっとスマートな方法があったのではないかと考えることはあるが、それはそれとして捜査は奇跡的に功を奏して真犯人が上げられた。さくらの閃きがその一助になった、ということにはなるかもしれない。 それしか方法が無かったとは言えああして探偵役に当てはめられて漸く分かったことがある。探偵なんて別に特別なことはしてなくて、やっていることは警察と一緒で、可能性を一つ一つ地道に丁寧に潰していっているだけということ。ただその視点や閃きが普通の人とは違うようで、それで探偵だの何だのと祭り上げられる羽目になる。今、現実にあらゆる可能性を消去しながら見えない路を踏みしめているこの状況と、過去スッドマーレで辿った出来事が頭の中で一致した。嫌な道を行ってる気がする……。さくらは何も、好んで探偵の真似事をしていたわけではなかったのだ。 ……或いはここで引き返しておこうか? 謎は謎のまま、真実を追求せずに残しておいたほうが幸せな場合も存在する――と、思った矢先に視界が急に開けたためにさくらは僅かたたらを踏んだ。 靴の先が森を抜けそうになっていたことに気がついて、さくらは慌てて自分の足を引っ込める。一度慎重に周囲を視線で舐めてから、猫のようにそっと一つの樹木に身を寄せた。知らない者がこんなところにいると知ったら、村人たちはパニックを起こすかもしれないと考えたから。 (……ここは……) てっきり畑に出るものだと思っていたから、目の前の光景に驚くよりまず困惑した。そこは確かに開けた場所ではあったけれど、人々が野菜やなんかを耕しているような場は微塵もなかった。それに樹木が切り倒されて整地された素振りも無い。開けていると確かにさくらは述べたものの、それは人々が村一つ支える分だけ畑を作るのにはあまりに狭すぎる空間だ。 代わりに、と言ってはなんだが、人工物が一つある。 ちょっとした空き地みたいになった空間を挟んで向かい側に、一本の木が立っていた。一見ただの大木として見逃してしまいかけたが、よく見ると樹幹の影に梯子らしき影がある。さらによくよく目をこらすと、その上に僅かばかりの資材を使った一戸の家屋が、太い枝に支えられるようにして鎮座ましましているのであった。 (――そうか、ここは村人たちの畑じゃなくて――) いつの間に道が分かたれていたのか、それともここよりもっと奥地に村人の往く畑があるのか、今の段階では不明だが―― (ここは、子どもたちのほうの終着だ) ……視線を左右に振り向ける。つい先ほども同じことをして、周囲に人影がいなかったことは確認している。どうしよう。思わぬ場所に着いちゃったな……というのが、今のさくらの本心だった。畑に着いて何をするか、考えていたわけではなかったけれど……。 きゃっきゃと楽しそうな子どもの声が聞こえている。小屋の中から聞こえているのだと思っていたが、暫くしてからどうもそういうわけでは無かったことに気が付いた。子どもたちは今、どうやらこの森に散っている。木の実拾いをしているのか、花を摘んでいるのか、明確な目的は分からないが、ともかく今、彼ら彼女らの遊び場は小屋ではなくて森なのだ。 仰ぎ見たが、小屋がある位置は大分高く、小屋の中に誰かがいるかどうかはここからではどうも判別つかない。中に人がいないとも限らないだろう。大人しく本を読んだり、昼寝している子がいるのかも。 どうするか、というのを当然ながらさくらは悩んだ。先に述べたとおり、畑に着いたところで何をするか考えていたわけではなかったのでここで終着にしてもいい。踵を返して戻るのでも。感覚としての計算だが、村からここまで三十分も歩いていない。子どもの足で毎日行き来しているのだから、まあそういうものだろう。まだ日が落ちるまで間があると言えばあるが、戻るのにも適した時間だ。……そして、それはここで少し探索をする時間が残っているとも言い換えられる。 (幸運と言えばいいのか、不運と言えばいいのか……) 早々に着いてしまったことに対して、さくらは胸中で嘆息した。もしも帰りの時間がギリギリの状態で着いたのならば、一目見ただけで否応なく踵を返して帰っただろうに……。 もう一度周囲に視軸の先を走らせる。森の中は特に注意して目を凝らしたが、人影が潜んでいる気配みたいなものはしなかった。音に耳を澄まし、声が案外遠くから聞こえることに気が付いた。何十メートルも離れているわけでは無いだろうが、子どもたちが多分十分ここに帰れるくらいの距離だろう。お世話役がきっと有能だったのだ。 木の上に建つ小屋の窓に注意して、森の縁を通るやり方でさくらは小屋に近寄った。多分気付かれてはいない……と思う。ここへ闖入者があること自体、彼らは気にしていないだろうし。 ……小屋の外から子どもたちの姿を見て、それで帰ろうという気になっていた。別に何かの証明のためではなくて、ここに何らかの存在があるという結論を得て帰りたかったのだと思う。そこに深い意味は無く、その行動は何となくで踏み込んだ居間に家族用のチョコレートが積まれてあったから一つつまんで部屋まで持って帰ったみたいなさりげのない対応だ。 周囲に視線を走らせながら、音を立てないように近寄って、梯子の一段目に足をかける。簡素な梯子だったが、存外しっかりとした木で作られていた。子どもが登り下りするものなのだから、年長組が相当に気を使って作ったのだろうか。それでも子ども用に作られた梯子であることには変わりなく、さくらくらいの人間が登り下りするようには出来ていないと思われたので、一段一段慎重に登ることにした。高さが変わるということは、周囲から見えやすくなるということにも繋がるし。 普通の梯子よりも随分と幅の狭い梯子をよじ登って、梯子が立てかけられた踏み板に手をかけた。人一人、子どもなら二人くらいなら立っていられそうな狭いステップに、手すりの補助なしに乗り上げる。踏み板の強度に疑問があったが、今すぐに底が抜けるということは無さそうだ……。それにしたって立ち上がることに多少の恐怖はあったので、膝立ちでにじり寄るように簡素な扉へ目を向けた。 簡単に削り出したと思われる木製の片扉だったが、見た目は普通の扉とそう大差はないように思う。蝶番なんかの作りが完全に素人によるものだし、強度面で言っても決して頑丈そうだとは言えなかったが、機能的な問題は無かろう。子どもだけで作ったのだとしたら大した出来だと称賛出来る。暇だったのは当然、さくらだけでは無かったということだ。 小屋自体が大木の上に建っていることと、子どもが子どものために制作したステップであることを考慮すると随分慎重な動きになった。風が小屋と小屋の建った樹木の葉をかき鳴らし、さくらを横薙ぎに持っていこうとしてきたときには肝が冷えたどころの話では無かったが、幸いにして木から落ちて大怪我をするなんていう迷惑のかけ方をするような羽目には陥らなかった(森で迷うのとここで大怪我するのと、どちらがより白眼視されるだろう。さくらは割合真剣に考えた)。 扉には一丁前に、小窓が設えられていた。子どもの身長に合わせてあるため、膝立ちから少し顎を上げるくらいで丁度いい位置にある。ドールハウスの洒落た家の窓みたく、それは十字の木枠で拙く四つに仕切られている。曇り硝子か何かだったらどうしたものかと思ったが、どうやら普通の硝子のようだ。向こうからすぐにはこちらは見えないだろうが、明かりが遮られることで気が付かれることがあるかもしれない。ここでもさくらは慎重に、片目だけを凝らして狭い範囲の中からなるべくたくさんの情報を得られるように努力する。 ここはワンルームで、意外なことに掃除は行き届いている。少なくともさくらの片目の視界の中で、不必要に散らかされた場所は存在しない。壁に地図だかポスターだかがべたべた貼り付けられている。戦争ごっこのつもりだろうか。 そして、向かいの壁に――。 (――……) 一旦片目を覗き窓から離してしまったので、もう一度、改めて小窓に片目を――。 扉が内側に開いたために危うく前のめりに倒れそうになったが、膝を踏ん張って耐え切った。もしも倒れ込んでしまっていたら恥ずかしいなんてものじゃない。高校生にもなってスパイみたいな行動を起こした挙げ句見つかって、おまけに自分を発見した当の本人にむざむざ倒れかかるなど。 「大丈夫かい?」 と、その当人が口にした。 視軸を上げて、ついさっき確かに視界に入れたその人が間違いなくそこにいることにさくらは呼気を詰まらせる――。 「驚かせるつもりは無かったんだ、ごめんよ。ここに客人とは珍しかったものだから、お出迎えをと思ってね……」 困ったようにこちらを見つめる男の特徴に覚えがあった。清潔感のある黒髪にマイナスイオンを感じさせるような森林色した双眼の、背の高い男。 ヤコブスに村長の家にいるかどうか見てみてくれと頼まれていた、エルネストゥスその人に間違いないと考えた。 |