午後二時五分、何やかんや言いながら真佳は結局素直に枢機卿のもとに赴いた。教会宿舎の二階から、特に弾みもせず急ぎもしないいつもの調子で村長宅に向かう真佳の背中を見下ろして、溜息を吐いてみたりする――全く、いい意味なのか悪い意味なのか、随分とこの世界に慣れきってしまったものだと思う。適応能力は生き延びるために必要不可欠なスキルだが、こうも浸かりきって良いものか……。さくらとしては微妙なところだ。
 さて、こうしていつもどおり真佳が外に出たとなれば、行えることは決まっている。さっき真佳に言ったように、本を読むか村を回るか、はたまた――これは真佳には出来ないだろうと一蹴されそうだったので言わなかったが――夜まで寝るか(実際さくらもこれを行えるかどうかは疑わしい。いくらでも好きなだけ眠れる人が羨ましい)。
 村に着いてから五日になるが、実はさくらはまだ一度も村を見ていない。二日目に真佳に倉庫裏に連れていかれた以外、宿舎から出てもいないのだ。ヤコブスがあまりに外と干渉してほしくなさそうだったのと、それを前面に出されていながらほかの面子が我関せずと次々と外に飛び出していったのがその理由である。要はヤコブスに遠慮していた、ということ。マクシミリアヌスや真佳は仕方がないにしても、同郷出身のカタリナまでもが意気揚々と外に干渉して帰ってくるものだから、いつしか空気が悪くなってはいけないと気を使っていたのである。
 でもまあ、考えすぎだったんだろう。一昨日はヤコブスも、真佳と一緒に(こっそりと)外に出ていたようだし、アイツもアイツなりに譲歩という言葉を一応知ってはいるようだ。もうちょっと気軽に構えても良かったのかも。
 宿舎から出たことはほぼほぼ無いが、とは言えさくらはこの村のことを割と詳しく知っている。というのも、宿舎の二階から見渡してしまえば、それだけで事足りる面積が村と呼ばれているためだ。冒険する必要も無い。特にお店なんかも立ち並ばない。物資は村長がまとめて管理し、必要があれば個々村長宅へ赴いて入り用の物を貰って帰る。この村がそういうシステムにあることを、さくらは読書休みに窓から眺めた風景でもって把握した。この村の外には畑らしきものがあって、子どもが皆挙って外に遊びに出かけている(これは数日前には知らなかったことだ)。大体が朝行われるために、昼まで寝ている真佳が実際に目にすることは無いだろう。彼らが帰ってくるのは日が落ちる前で、真佳が彼らを目視出来るとすればこの時間帯が最も確率が高いように思われる。
 ……外に出てみようかと思ったことは事実だが、窓から改めて外を見渡して、そういう考えは萎んでしまった。出てみたところで十分程度で回れるだろうし、見るべきはない、それはただの散歩にほかならない。ほかに行ってみる価値があるとするならば、村人たちが向かう畑や遊び場の類いだろうか? とは言え……。

(当ても無いのに森の中を彷徨って、迷子になってしまっては随分迷惑をかけるしね)

 自分の方向感覚にそれなりの自信はあるが、目印の無い知らぬ森の中をぐんぐん進んでいけるという幸運の持ち主では一切無いと思っている。
 聖書が分厚くて、まだ良かったのかも。こうして今日も自分たちに宛てがわれた部屋の、サイドテーブルの聖書を手に取り、栞紐を辿って中途で閉じられた本の頁へと意識を落とす。この五日(村に着いた日には聖書を手に取る余裕は無かったから、正確には四日)、ずっとそうやって過ごしてきた。

「ヒメカゼ」

 という声が聞こえてきたときには、まだ一行目も読んでいなかった時だったのでさくらとしては驚いた。まるでタイミングを見計らったかのような呼びかけだったから。
 入り口のほうに視線を巡らすと、もう既にヤコブスは扉を開けてこっちの姿を見留めていた。扉側のベッドの縁に、ベッドとベッドの間にあるサイドテーブルに足を向けて座っていたので、随分首を巡らせないとヤコブスの姿が視界の内に入らない。仮にも今は女子部屋として機能している寝室なのだが、遠慮というものはこいつの頭には存在していないらしい。確かにこの時間なら確率は低いが、着替えでもしていたらどうするつもりだったのだろう。

「……何? 珍しいじゃない、遊びに来たの?」
「違う」

 ということを仏頂面で。人の部屋にいきなり来といて愛想も愛嬌もありゃしない。

「エルネストゥスの話をしただろう」

 と、ヤコブスはさくらの思ってもなかったことを口にした。昨日聞いたばかりの名だ。日本ではあまり聞き慣れない音色なだけに、その名前のことはよく覚えていた。

「聞いたけど……何? 会うなという話? どういう人か分からないので、そういう話なら外見を教えてくれるとありがたいのだけど」
「いや、そういう話でもない」

 苦々しげに口にした。随分と要領を得ないじゃないか。いつものヤコブスらしくない。
 溜息を吐きながら、ヤコブスは小声で何か呟いた。“まあ、そうだな、そこから話を進めよう”――。

「黒髪に緑目の、背の高い男だ」
「ヤコブスより?」
「……俺より高いのは認めよう」

 不承不承という態で。この村では特にヤコブスは自分の感情を隠せないでおけないのか、随分と感情表現豊かに見える。そういうところが真佳に面白がられるんじゃないか。

「そういう男が、どこか外に行っているのが見えなかったか?」

 さくらは片眉を跳ね上げた――「ここから?」ヤコブスがすぐと頷いた。
 エルネストゥスは教会従事者になっていた、とヤコブスは昨日口にした。この村にはヤコブスの嫌う正式な教会というものはいない。ということは、住み着いているのは枢機卿のいる村長の家か、エルネストゥス本人の家だろうか。エルネストゥスの家ならともかく、村長の家はここの窓とは正反対過ぎてさくらの視界に入ることは難しい。それに残念なことに、さくらはついさっきまで食堂で食事をとっていた。その間窓の外に気を配ったことは無い。
 ゆるゆると、さくらは首を振る。

「……残念だけど、見てないわ。今日はまだ、あんまり外に目を向けてはなかったの」

 ヤコブスは落胆しなかった。「そうか……」と静かに口をしたきり、考え込むように目を伏せてしまっただけだ。黄金色の双眼が黒い睫毛の影を負う。きっとそもそも最初から、ヤコブスはさくらの目撃を当てにしてはいなかった。

「エルネストゥスがどうしたの? 捜しているの?」
「そういうわけではないのだが、ちょっとな……」

 視線を合わせない言い草だ。勿論さくらがそんな曖昧な話で納得するわけがなく、ヤコブスもそれは薄々感じ取っていたのか、仕方ないなとでも言うように溜息を吐いた。

「“あいつ”とそう関わるなと釘を刺しておこうと思っただけだ。昨日の夜、“あいつ”とエルネストゥスが共にいるのを見かけたものでな」

 忌々しそうに、というよりは、拗ねたようにさくらには聞こえた。あいつ、という不特定多数に刺さりかねない指示代名詞、ヤコブスがこのタイミングで使うということは――

「真佳のこと?」

 声での返答は無かったが、ヤコブスが僅かに顎を引くことで頷いた。素直じゃないというか意固地というか、これではどちらがバンビーノであると言えるのか。

「“あいつ”に言っても聞く耳を持たないだろう」
「まあそうだけど……。エルネストゥスは家にいなかったの?」
「いなかった。村長の家に居候しているのだろう。あれでも枢機卿とやらのお付きだからな」

 枢機卿と口にするとき、喉に粘性の何かが絡みついたみたいな、もっと正確に言うなら反吐が出そうな言い草になっていたのにはもういい加減目を瞑る。一々拾って突っ込んでいくのも流石にそろそろ面倒くさい。

「そうか……。枢機卿とお茶会をするとき、真佳は誰が同席するか知らないのよね。基本的には二人でみたいなんだけど、昨日はルーナ……」という固有名詞を出してしまったから、彼がルーナと面識がないことを想起した。「……シスターも混じっていたみたいだし」
 とても不快そうにヤコブスが眉を片一方だけ跳ね上げた――「つまり、今会っている可能性もあるということか?」
「残念ながら」

 残念ながら、と言う割に、軽薄で白状な言い草になったのではないかと思う。真佳とエルネストゥスが交流することについて、さくらは異議を差し挟む気も妨害する気もさらさら無いので。
 ヤコブスは忌々しげに舌を打ったらしかった。さくらは短く吐息する。

「そんなに友達と真佳が会っているのが嫌?」
「嫌というか、ぞっとしない。“あいつ”の失言を諌めることも出来ない上に、何を話されているか分かったものでは無いのでは」
「……それはガプサのこと? それとも、昔のヤコブスに関すること?」

 真佳にガプサのことを話されたくないのと同様に、恐らくヤコブスはエルネストゥスに昔の話をされるのが嫌なのではないか――という推測から来たものだったが、強ち間違いでは無いらしい。ヤコブスが眉間のシワを深くした。

「“あいつ”に話の種を提供されても困る」

 と言って、ヤコブスはさくらからふいと視線を外した。人間らしい感性もちゃんとあるんだなということに(失礼ながら)さくらとしては感心する限りである。ヤコブスは責任感が強い。そういった面が、今まで強く現れていたものだったから。

「まあ、それはお祈りをするしか無いけれど……窓から様子を見に行くくらいはしてあげる。枢機卿のもとに訪れるのは嫌なんでしょう? 特に、旧友に見つかってしまったらお茶会の席に招かれる危険性もあるものね」

 ヤコブスは少しく意外に思ったらしかった。“お祈りをするしかない”で話が終わるとでも思っていたのだろうか。正直、さくらもそこで終わらせてしまうはずだった。もしもこの数日のような長い長い暇が続き、今日も今日とてこの国の古い信仰を掘り起こすだけの作業に勤しむしかない状況に置かされていると知らなければ、きっと終わらせるはずだった。
 何と言うことはない。さくら自身、じっと待ち続けているのにいい加減痺れを切らしてきていた、というだけの話。

「……頼むつもりは無かったのだが、そうだな。お互いどうせ暇な一日だ。お願いしよう。あまり深追いはしないように、もし同席していたとしても何もしないで帰ってきてくれて構わない」
「分かってますとも。私を真佳と同じ無謀者だと思っているわね?」

 二人、目を見交わして共謀したみたいににやりと笑った。

アッヴェントゥーラ


 歩き慣れてはいないが、窓から見ただけで掌握できる狭い村だ。間違ったことにはならないだろうとは思っていたが、ずっと家にこもりっぱなしだったために、靴裏が砂利を踏んだとき、不思議と胸が高揚するのを感じてしまった。髪を煽り頬を撫で服をはためかせる風、それに流れる葉擦れの音と、それが運ぶ土や川や木々のにおい。
 ……成る程、とさくらは思量する。砂利を一歩踏みしめながら。
 引きこもりには自分には、どうあっても似合わない。好んで汗を流したいわけでもなかったのでインドア派なのだと思っていたが、どうやらそういうわけでも無いようだ。

(今度からは狭くとも一応外に出て散歩はしよう……)

 そうでなかったらだんだん思考がくさくさしてくる、というのが分かったので。ここで外に出る機会をくれたヤコブスには、一応感謝せねばなるまい。どうせ暇なのだからお菓子作りもありだろうし……。教会のシスターがその労働を許可してくれればの話だが、そのときは異世界の菓子というものを振る舞ってみてもいいだろう。
 興味深げに目をきらきらさせて、しげしげと菓子を見つめ続けるマクシミリアヌスの顔が脳裏に過ぎり、それでさくらは微笑ってしまった。ヤコブスにだけと言わず、そのときはみんなに振る舞おう。きっと彼らは喜ぶだろう。
 さくらの部屋から村長の家は見えないが、真佳やマクシミリアヌスが赴いていたのでその方向は知っていたし、周囲に村長宅ほど立派な家は無いので予めヤコブスに聞かされずとも大体の目星はついていた。現代日本であれば散歩とも言えない短い距離なのだが、家と家との距離が長いこの村では随分歩くような気にさせられる。砂利を踏みしめ、代わり映えのしない道を一歩一歩歩くことを、さくらはしかし楽しんだ。田舎を走る電車に乗っているかのようだ。日本ではそういった路面を走る電車に乗ったことは無いが、アメリカでならたまにある。電車に乗り込んでいるときはそれこそ読書くらいしかすることが無かったものだけど、生身の足で歩いているとそういうわけでも無いのだな、ということが、さくらの心を沸き立たせることに一役買ったようだった。
 村長宅の扉のついた側面は素通りして、今来た道の――即ち教会を向いた側面の壁にこっそりと背中を張り付ける。居間の位置を知らないので、当然彼らがどの窓からこっちを伺い知れるかもさくらは知らない。だから敢えて直線距離を迂回して、窓の無い扉側から村長宅に近付いた。一応教会側の側面を選んだものの、もしここから見えないのなら別の方向から窓を覗くつもりの選択だ。最初から正解にぶち当たるとはさくらも思っていなかった。
 ……けれどまあ、きっと日頃の行いがいいんだろう。

(大正解だ……)

 部屋の中に、丁度三人の人物がいた(ここから見るに、村長宅の居間は広い。反対側の窓から見ても同じ光景が見えただろうが……それはともかく)。
 一人はこちらに背を向けていて、起きたそのときのままろくすっぽ梳かしてもいない癖のひどい黒髪を背中に流した、さくらと同年代の女である。疑いようもなくこれは真佳だったので、特に注意も払わず視線を次にシフトした。真佳の正面に向かい合わさる形で、老人が一人座している。首都ペシェチエーロにて、遠目で一度か二度ちらりと目にした程度だったのであまり確信は無かったが、まさかあれがヤコブスの友人のエルネストゥスであるはずがないと思う。黒髪でも緑目でも無いし、ここからでは座高しか分からないが、見たところヤコブスよりも背が高いというふうにも見られない(年齢はこの際判断材料に含めない。ヤコブスが老人と友人でないという証言は得ていないので。だから真剣に考えた)。
 まあ十中八九枢機卿と判断して間違いなかろう。若干丸顔の男で、それがどうやら実年齢より若い印象を人に与えているらしい。首都で見たときは老眼鏡をしていたように感じるが、鼻の上には何も乗っかってなどはいなかった。
 そして、最後に枢機卿の隣に座し、真佳の斜交いにいる人物――。
 男では無い。あるはずがない。さくらはその人物を知っている。

「――……」

 知らず詰めていたらしい息を、そっと唇から吐き出した。
 肩まで届く赤毛の、成人した女だ。港町スッドマーレで、真佳だけでなくさくら自身もお世話になった。彼女がここにいることは、早い段階で既に真佳から聞いている。
 窓から視線を外すと同時に、半歩横にずれながら窓から少し距離を取る。久しぶりにこんなスパイみたいなことを行った。耳の奥で心臓が脈動しているんじゃないかと思うくらいばくばくと鼓動がうるさくて、緊張をほぐすために何度か深呼吸が必要だった。幼いころはもしかしたらこういう冒険を楽しがったかもしれないけれどとほんのちらっとだけ考えて、すぐさま考えるのをやめにした。さくらの幼いころというのは、即ち、もう二度と戻ることの出来ない、父と母が生きていたころということだ。

「………………」

 吐息。
 少なくとも、エルネストゥスは真佳と茶会を楽しんではいないとのこと、ヤコブスにとっていい報せにはなるだろう。肝心のエルネストゥスの居所については、分からなかったと口にするしか無いけれど……。
 ――昨日の夜、“あいつ”とエルネストゥスが共にいるのを見かけたものでな――
 ついさっきヤコブスに実際言われたことが、脳裏を過ぎって閃いた。
 真佳とエルネストゥスとは、どうやら知り合いであったらしい。昨日の夜それを初めて目撃していたのなら、ヤコブスがそこを無視してさくらのいる食堂などに足を運ぶ気になっただろうか。さっきの応対からして断じてノー。ということは、真佳とエルネストゥスが知り合いであるということを、ヤコブスは事前に知っていたという話になる。いつどこで? ……一昨日の夜、真佳と共にいずこかへ出かけたことと当然関係があるはずだ。夜、ということはつまり枢機卿との茶会の後ということだが……。枢機卿との茶会でまみえたのか、夜出かけた後まみえたのか、細かいところはさくらには判断できかねる。まさか枢機卿との茶会にヤコブスが乗り込んだわけは無いと思うので夜のほうが無難かなとは思うものの、では何も無くヤコブスが真佳と夜に、二人で人目を気にして出かけるだろうかと言われると……。

「……まあ、そこの細かいところはどうでもいい」

 敢えて口に出して呟いた。
 深追いはするな、とは言われたけれど……。
 まあ別に、ヤコブスだってそれが完全に通用するとは思っていまい。村長宅を仰ぎ見る。

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