ぼうっと窓の外を見詰め続けている。窓枠に嵌め込まれた板ガラス(恐らく)越しに見えるのは、今までと何ら変わらない、ブルーグレーの夜に侵された樹木と、乾いた地面と、輝かんばかりの星空だけ。遠くのほうに長閑な一軒家が小ぢんまりと朝を待ち受けているのが望めるような気はするが、立地を知っているさくらの記憶が呼び起こしたただの幻影なのではないのかと問われれば、“見えた”という確固たる自信は無いに等しい。首都や南町と違って、この村には月明かりしか夜を裂く光源は存在しない。
 夜中にふと目を覚ましたとき、ベッドから真佳の存在が、ベッドサイドに置かれていたサンドイッチごと消え失せていたので、またあいつは夜中にふらふらと出かけていったのかと気が付いた。カタリナは未だ夢の中にいたので、こっそり部屋から抜け出してこうして食堂の椅子に座ってまだ部屋の中よりは見るものに溢れた窓の外に目をやっている。全く、そうやって夜中に徘徊するから朝起きられないのだということを、いい加減アイツも気付いていいころだろうに。……徘徊しないでも起きられないのは起きられないようなのだが。

(どこで何してるんだか……)

 微睡んだ視界で考えた。別に待っているわけではないし、帰ってきたときに苦言を呈するつもりは無い。だからこうして食堂なんていう、真佳が通りそうのない場所にいる。そういう場所を選んだのは、まあ多分、さくら自身じっと待ち続けているのにいい加減痺れを切らしてきたからだ。何だかんだ真佳は動き回って探りを入れているみたいだし、旅に関係が無いからと無視し続けるのもそろそろ限界になってきた。だって別に、さくらだって好奇心が皆無であるというわけじゃない。思考し続けるのは癖でもあるし、分からないものがあれば仮説を組み立てたくもなる。
 それを今まで、敢えて“行っていなかった”のは――。
 扉が開く音に目をやった。廊下から漏れる淡いフットライト(仮にも教会と名のつく建物だからだろうか、そういった品々は、ほかの家屋に比べると充実しているらしかった)がヤコブスの渋面を照らしているのを、無反応に見守っていると、

「……なんだ、ヒメカゼだったか」

 特大の安堵の溜息とともに室内にそっと忍び込み、扉をもとのとおりきちんと閉めた。相変わらず変に律儀な男だと、近づいてくるヤコブスを仰ぎ見ながら考える。

「真佳だと思った?」

 意地悪な気分になって実際声に出して言うと、対面に腰を下ろしながらヤコブスがまた渋面になって言葉を返した。

「最近良く出っくわす。知っているのか?」
「全然? ただ、アンタが苦い顔になると言ったら真佳くらいのものじゃないの? マクシミリアヌスだと思っていたなら、多分苦い顔を繕うことなく何事もなかったように立ち去るからね」

 頬杖をついて、ヤコブスは「ふん」と鼻を鳴らした。憎まれ口は意外にも、すぐには返ってこなかった。

「どうしたの? 用事があって食堂に来たんでしょう」
「水をもらおうと思っただけだ。変に目が覚めたからな。戻るときにでも入れて行くさ」どうでもいいみたいに口にして、金の双眼を睨み据えるみたいにこっちに向けた。「君は一体何をしている?」
「別に。変な時間に起きたから、私もここでぼうっとしてただけ。変に目が覚めちゃって。まあ、明日も特にするべきことも無いのだし、たまには寝坊も悪くはないでしょう」
 ヤコブスが少し笑ったような音がした――「寝坊するかどうかはあすにならねばわからんだろうに」

 それが引き金になったわけでも無いが、二人とも暫しの間口を噤んだ。相手が何を考えているかさくらには分からなかったが、さくらも特に何かを考えていたわけでも無い。もしかしたらヤコブスも、ただぼうっと窓の向こうで風に揺られる木々や下草を、視界におさめ続けていただけだったのかもしれないなどと考えた。

「ここでの生活はどうだ」

 と、ヤコブスのほうから口にした。煙草を咥えているわけでもないくせに、ぼそぼそとした不明瞭な喋り方。

「どうも何も、することが無いので好奇心だけがいやに湧く。じっとしているのは多分私の性に合わないのね。いくらでも休んでいいという環境が苦痛にしか思えない」

 ここが相手の故郷であるということを知りながら、思ったことをそのまま舌に乗せていた。「君らしい」と言って、ヤコブスはまた笑ったらしい。微笑と言っても、ヤコブスのそれは無邪気で牧歌的なと言うよりは、皮肉的なという意味だ。

「随分楽しそうじゃない」

 さくらが言うと、ヤコブスはこれでもかと眉間にシワを寄せて苦々しい言を吐く。

「楽しいものか。今すぐにでもこの村から出たいという思いは今も昔も変わらない。君の相方は人の周りをうろちょろするわ、おまけにエルネストゥスが――」

 ヤコブスはそこで言葉を切った。あからさまにしまったと言い出しそうな顔のまま。「エルネストゥス……?」耳慣れない単語を吐かれたそのままに舌に乗せる。
 初めは抵抗するかと思ったが、ヤコブスが諦めるのは思ったよりも早かった。別にさくらのほうから問いただすつもりも無かったのだが、言ってしまったら仕方がないと言わんばかりに大げさな溜息を吐きかけて、

「……この村で大分昔に知り合った。昔馴染みというものだ」
「出くわしたの? そりゃあ小さな村なのだから、外に出ればいつかは見つかると思うけど」
「違う、そうじゃない」出くわしたことが問題ではないと彼は言う。「奴は教会従事者になっていた。それまでもそう仲が良かったわけでもないが」というのはあまり信用できないなと考える。ヤコブスにとって、大体の人間が“仲が良くない”部類に当たる。「……明らかに面倒事にぶち当たったものだ。奴に俺がガプサに入っていることを、余計に知られるわけにはいかなくなった」

 面倒臭そうに舌打ちをして、頬杖をつき窓の外に視線を逃した。そういったヤコブスの態度を見て、ああ、成る程、とさくらは思う。
 だから楽しそうに見えたのか。ここ最近の彼は、いつもは押さえつけている感情を押さえつけられないまま持て余していて、感情にか周囲にか、どうも振り回されているように思う。君の相方、とヤコブスが言ったのを鑑みると、きっとそこに真佳も絡んでいるのだろう。面倒がってるかもしれないけど、随分人間味が出てきたように思うわよ、とは、流石に口には出さないが。

「枢機卿もいるのだし、そう容易くアンタの正体を口にする馬鹿もいないでしょう。マクシミリアヌスだってガプサと行動しているということがバレると危ない立ち位置になるのだし……」

 まあ、それでも針のむしろであることは間違いない。いつバレるかと戦々恐々する心を休ませるには、やっぱり早々にこの村を発つしか無いのだろう。それだけ早く出たいのなら落石撤去に力を貸せばよいものを……と思うものの、村人に出くわしたくないヤコブスが、わざわざ村人が多く集まる場所に赴くわけにもいかないのだから口に出しても仕方がない。マクシミリアヌスが撤去を急いでくれるといいわね、と言っても、ろくな言葉が返らなそうだったのでやめにした。

「今は信じて待つしかない。今のところ、誰もアンタを売ろうとする人間はいないのだから」

 きっと気休めにもならないだろうが、今自分が言える言葉がそれくらいしか思い当たらなかった。この男に身内以外を信じることを勧めるなんて、無駄に空気を消費するだけだと考えた。

「……君は過去の俺と少し似ている」

 と、ヤコブスが答えて煙草を咥えた。いきなり何を言い出すんだと対面に座すヤコブスの、煙草に火を灯すその指先に見つめ入る。一瞬湧き上がった炎がヤコブスの彫りの深い顔立ちと、硬い指先を燃える飴色に彩った。

「……何……? 言葉が足りないところか……? それともぶっきらぼうなところ……?」
「君は今まで俺をそんなふうに見ていたんだな」

 半眼でじっとり睨まれた。間違ってはない見解でしょうがと思ったがこれ以上茶化すのはやめておいたほうがいいんだろう。ヤコブスだって、自分とじゃれ合いたいからこんな話題を振ったわけでもあるまい。
 一つ、煙草の煙を吐いてから、ヤコブスが続きを口にする。チョコレートのにおいが嗅覚の先をくすぐった。

「――世の中を諦観しながら、それでも世の中に必死に食らいつこうとするところ。世界を切り捨てるのではなく、世界に踏ん張りその手で無理やりにでも御してみようとするところ」
「何だそれ」とさくらは言った。「そんなに格好良い、ヒーローみたいな感じだったの、アンタは」

 茶化すつもりは無かったので、柔らかな声音を意識した。眠気が訪れていたのか知らないが、眠たげな色が滲んでしまったように思う。
「俺が下した評ではない」と、渋面をこしらえてヤコブスが煙草を一服吹かす。

「俺の先代が下した評だ。褒められているのか貶されているのか分からなかったために当時は微妙な反応をしたものだが、今漸くそれが褒められているものだと理解したよ」

 褒められていたのか……。相当な無謀者だと言われたような気がしていたが。
 ――くく、とヤコブスが、抑えたような笑声を。

「俺も多分、そういう顔をしていたんだろうよ」

 笑いがこらえきれないみたいな顔で、目を細めてくつくつと笑った。立てた腕に煙草を下げて、腕に顔をうずめるように前傾姿勢になったため、貴重なヤコブスの笑い顔はすぐに八割方見えなくなった。そういう顔も出来るんだなと、さくらとしては意外な一面を見せられたことに驚きこそすれ微笑ましく思う余裕も無い。少年みたいに――あるいは同年代と酒を酌み交わしながら昔話に花を咲かせる年相応の壮年のように、笑っている様を初めて間近で見せられた。

「……本当に褒め言葉?」

 あまりにくっくと笑うのでジト目で問うと、煙草を持った手のひらで口元を覆い隠しながら、「無論だ」と短い言葉を返される。視線は窓の外を見ていたし、金のその目は未だ笑っているようにも見えたけど。

「そういった理由だ」

 と、煙草を一服吹かしながらガプサの頭領が口にした。“そういった理由”がどこにかかるのかわからず、さくらは目を瞬かせた。今までの会話を漁っても該当する箇所が引っ張り出せるとは思えない。

「君をガプサに迎え入れた理由だよ。まあ、ガプサの頭領として、わけ知らぬ君を教会に追い込むわけにはいかなかったというのもあるが……」

 難しい顔で煙草を吹かしながらそう言った。そんな前の話をしていたのか……。分かるはずが無いだろう。暴投もいい加減にしてほしい。

「……どうしたの突然思い出話なんて。もうすぐ死ぬみたいに見えるわよ」
「俺は爺か」

 眉間に思いっきりシワを寄せて、口の端を不愉快そうにひん曲げた。本人は大層不服だそうだが事実そう見えるのだから仕方がない。さくらは否定はしなかった。
 煙草の煙を吐き出す、ふうという音がする。

「単に思い返しただけだ。故郷というのは嫌なものだな。過去に思いを馳せることが、否が応でも多くなる――」

 ――ではそれは、さくらとの出会いを想起していたわけでは無いのだろう。誰のことを? 聞かずとも想像は出来る。ヤコブスは、かつて自分が言われた言葉をさくらに対して口にした。では彼が思い返したのは、さくらとの出会いではなくヤコブスの先代との出来事だ。
 以前ヤコブスがしてくれた、彼の先代の話を覚えている。富裕の街、チッタペピータにて紡がれた、ガプサの成り立ちとヤコブスの先代の武勇譚。もとはハラカラという意味であったガプサという言の葉を、新教徒を表す一つの呼称として定着させた。
 ヤコブスが先代からガプサを継いで十九年。
 先代がどうなったのか、さくらは未だヤコブスに直接尋ねることはしていない。

「たまには思い返すこともいいことでしょう。おかげで私は、何でヤコブスが最初から親切にしてくれていたのか合点がいった」
 渋面を作って面倒そうな声色で、「それは必要なことなのか?」
「私にとっては。真佳はそれに当てはまらないのね」

 ふん、と鼻を鳴らす音。「誰が」……その先は煙草の紫煙としてしか続かなかった。真佳くらいは身内認定してくれるとさくらも楽になるのだが。いざというとき、自分だけ救ってもらっても真佳に手を差し伸べてもらえないのではどうしようもないし、それに、既にマクシミリアヌスといがみ合っている状態なのだから、これ以上ぴりぴりする相手が増えようものならさくらやフゴらが心労で胃に穴が開く。緊急時もそうでないときも含めて、仲良くしてくれるとヤコブスの周りが助かるのだ。真佳にヤコブスと敵対する意思がないというのが、せめてもの救いと言えるだろうか。
 ヤコブスが立ち上がったので、さくらは思考と口とを噤んだ。

「水を汲んでくる。君も早く寝るといい。とは言え、昼間もほかにすることもなく退屈だとは思うがな」

 ヤコブスはさくらとの共通認識を口にする。ヤコブス同様、さくらだって落石撤去に直接的な関与をしているわけじゃない。君は危ないからと最初から戦力に加えられていなかったのもあるし、さくら自身、力仕事において、重荷にこそなれ彼らの役に立てるとは到底思っていなかったのである。
 理由は違えど二人、急ぎの用事がありながら落石撤去に力を貸していない者同士、秘密の共謀者みたいな感覚を感じないでもなかった。

「そうね。眠るか、本を読むことくらいしかしないから。私も真佳みたいに昼まで寝ていようかしらと思うこともある」
「起きてしまうのだろう」
「残念ながら」

 顔を見合わせて二人で微笑った。
 具体的に何かを成そうと考えていたわけではなかったので、さくらは素直に腰を上げた。ヤコブスは厨房へ、水を汲みに。とりたてて待っている用事も無いものだから、さくらは厨房に入るヤコブスの背中を見送っただけで食堂から外へ出た。

「じゃあね、おやすみ、ヤコブス」

 振り返ると、厨房の向こう側、月明かりが辛うじて差し込むその先で、ヤコブスの背中が気怠げに片手を上げていた。
 こっちを振り返りもしなかった。ヤコブスらしいと言えばヤコブスらしい。
 短く吐息して、目の前の階段に足をかける。空白のままの明日の予定を、考えるだけで憂鬱だ。

餓狼が慈愛を見せたワケ

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