「――……」

 目を覚ましたとき、目の前が真っ暗だったために一瞬時間間隔が錯綜した。
 上半身を跳ね起こして、腹のところでもみくちゃになった薄いシーツの掛け布団の感触を感じながら、口を開けたままもう一瞬間だけぼうとした。……隣で安らかな寝息が聞こえる。ふと横を見てみると、ベッドに寝転んだルーナとソファに身を横たえているさくらに挟まれているのに気が付いた。
 真佳が横になったとき、部屋の明かりはつけていない。外にまだ斜陽の明かりがあったからだ。軽い睡眠のつもりで目を閉じて、えーっと、この二人に挟まれた、これは……。

(……寝過ごした……)

 今何時だ? サイドテーブルの天板に直接描かれた魔術式に指を添えると、時間の神から承った時計の針は深夜の頂点を一時間ばかり越していた。

(…………)

 ショックを受けてまたしばらく寝ぼけた頭でぼうとした。魔術で編み上げられた時計の長針がほんの僅かだけ未来の方向に傾いた。
 天板の脇、時間魔術式にぎりぎりかからないところに、大判のハンカチーフに覆われた皿が乗っかっていることに気が付いた。シスターが作ってくれた夜食だろう……。認識すると途端にお腹が空腹の旨訴えた。

「……」

 ほんのしばらく考えて、魔術式から手を離してから両手を重ね合わせて礼。

「……いただきます」

 ここで食してベッドに零したり、さくらやカタリナの夢の世界を壊したらいけない。そうっと皿を持ち上げて、音を立てないように静かに寝具から抜け出した。

星空パルラーレ


 夜の食堂で一人で食べても味気ない。折角ならもっと見晴らしのいいところ、見たことのない景色を見ながら食事を摂ろう。持ち運びやすいパニーノなら、どこででも食事を摂れるだろう――。

(とはいえ少し張り切りすぎたな)

 大きくあけた口にシスターにつくってもらったパニーノの端を詰め込みながら、真佳は空を見上げて考えた。天上はまるでプラネタリウムのような星原の大盤振る舞い、群青色の背景にほのかに紫がかった大銀河、白く赤く時には青く輝く星々と、小望月を挟む形で十日夜の月と有明月が散っている。月がこれだけあるとなると辺りは夜だと言うのにもう十分なほど明るくて、木の根本までもよくよく見えるほどだった。
 じゃがいものピューレを挟んだパニーノは、とても素朴な味がする。天穹の彼方にまで目をこらしながら、樹幹に背をもたせかけたまま真佳はその情景を楽しんだ。張り切りすぎたとは思ったものの、こうして高い木の上に登って星空の絶景を見ながら美味しいご飯を食すというのは、そう滅多に出来ることじゃない。真佳の生まれ育った街ではそもそも星空がこれほどくっきりは見られない。久しぶりに木登りをしたし別にそこまでしなくてもよかったような気はするが、しかし張り切ってみて良かったなとも考えた。

(この世界の人たちはこの星空の価値を、理解しているのだろうか)

 真佳のいた世界のようにしたいと夢を語った枢機卿の顔が一瞬脳裏に閃いた。ああいう世界にしたいのならば、尚のことこの情景は心に刻んでおくべきだ。
 うわ、という声が聞こえた気がして、引っ張られるように真佳は視軸を下ろしていた。咀嚼中の中途半端なところだったので、平和に顎を動かしながら葉擦れの音に埋もれそうだった声の主を視界に捉えようと目を凝らす。

「――驚いた。そんなところで、何をしているんだい?」
「むぐ」

 声の主は思ったより死角にいた。真佳が夜食を共にする木として選んだその陰から、ひょっこりと男が顔を出したのだ。背が高い割に肩幅のほうはそうでもなく、無防備に姿を現したことからこの村出身の人間なのだということは理解した。清潔感のある黒髪に、青灰色がかっても尚吸い込まれそうなエメラルドグリーンの――

「エルネストゥス……さん」

 やっと思い至って名を呼ぶと、エルネストゥスさんは月光に負けない優しい微笑をこちらに向けて、「エルネストゥスでいいよ。言ってなかったっけ」毛布で包まれているみたいな、とても優しくて柔からな口調でそう言った。
 ひえ~、持ってる人は持ってるものだ。こんな穏やかで人間の出来た人がヤコブスと旧知の仲だとは、失礼ながら今でもとても信じられない。

「あ、えーっと、夜中に目が覚めちゃって……」
「夜中に目が覚めると木に……?」
「いや、うーん、夜食があったから折角だし見晴らしのいいところで食べようかななんて思ってですね」

 何だか不思議な感じがする。普通だったら絶対見下ろすことのないのっぽの彼を、こうして下に見ながら普通に会話しているのだということが。……あと、そう普通に不可思議そうな顔をされると、我ながらやっぱり突飛なことをしてしまったなと後悔を覚えるから勘弁してください。

「――ああ」

 しかし得心したように頷いて、光が弾けるような微笑を浮かべるエルネストゥスを目の当たりにして、芽生え始めた後悔は一瞬のうちに消え去った。

「眺めのいいところで食べるご飯は美味しいものね。僕も小さいころ、ピクニックに出たときに木に登って食べてみたかったのを思い出すよ。結局上手く登ることは出来なかったんだけど、ヤコブスが上手でね」

 い、い、いい人――!!
 長方形に長いその体躯に後光が差したような気がして思わず真佳は両目を細めた。何でヤコブスと仲がいいんだろう。いや別にヤコブスも悪い人では無いのだが。

「そちらに行っても大丈夫かな。こっちに座れそうな別の枝が……」
「えっ、いや、大丈夫ですけど大丈夫ですか?」

 我ながらおかしな言葉遣いになったと思った。真佳の座っている枝とは正反対に伸びている枝で、ちょうど良い太さで大体同じ高さに力強く伸びている枝がある。真佳より体重のありそうなエルネストゥスも支えられそうではあるが、それにしてもさっき……上手く登ることは出来なかったと聞いたばかりだったような……。
「う」とか「えい」とか言いながら藻掻いてる声が聞こえるが、樹幹が邪魔でその姿が見えないことが一層不安を募らせる。エルネストゥスに怪我をさせてしまったらどう言えばいいんだ。ヤコブスは心底馬鹿にしたように呆れそうだし、枢機卿は多分何と言っていいのか分からないような困ったような顔をする。
 藻掻く声が、段々近づいてきていることに気が付いた。

「っはあ」

 という溜息が、すぐ真後ろで漏れ出ているのを確認する。次いでがさがさいう葉擦れの音と、「うわっ、思ったより狭いんだね、ここは」という別の意味で藻掻く声。エルネストゥスほど背が高ければ、そりゃあ木の葉にも頭をぶつけそうだと思う。

「……すごい。登れたんですね」

 意外に思ってそう言った。決して馬鹿にしてるんじゃあなくて、さっき登れなかったっていう話を耳にしたばかりだったから。
 照れたような笑い声が、幹の向こう側から応えてくれた。

「これでも教会に入ってから随分と体力がついたんだ。治安部隊の彼らほどではないけれど……。きっと教官も、木登りをするために鍛えたわけでは無いだろうけどね?」

 茶目っ気たっぷりにそう言った。少し弛んだところを見せられると、真佳も気持ちが軽くなる。膝の上に並べたサンドイッチを見下ろして、「食べますか?」見えない相手に口にすると、言葉はすぐと返される。

「夜食? 何があるか聞いてみてもいいかな」
「挽肉とチーズのパッケリパニーノに、じゃがいものピューレのパニーノです」
「じゃがいものピューレとは洒落た選択だね。この村のピューレは僕も大好きなんだ。いただいても?」

 幹に沿わせるような形で腕を伸ばすと、誰かの手に無事に渡った感触があった。ありがとう、と声がする。多分咀嚼しているんだろうなという間を置いて、

「うん、美味い! 村のシスターもやるなあ、首都のシスターではこうまで地元に即したものはつくれないよ」

 村のシスター、と、明らかに呼称を変えていることに気が付いていた。正規の教会への密告は今回に限り不問に付すというお達しが枢機卿からなされたのはそれはそれでいいとして、村の人間であり、且つ正規の教会従事者である彼は一体どういうことを実際思量しているんだろう。
 眠れなくて外の空気を吸いに来たんだけど素晴らしいご馳走に出会ったなあというようなことを言いながらパニーノにぱくついている姿の見えないエルネストゥスに対して、真佳は大体思ったのと同じようなことを、つっかえつっかえ口にした――マクシミリアヌスや枢機卿には口にしがたいことだが、真佳にとっては正規のシスターも偽物のシスターも関係ない。どんなにか迷惑をかけても変わらず自分たちの世話を文句一つ言わずに焼いてくれる、そんな気のいい女性にしか見えなかったのだ。この考え方がこの世界の一般の教会従事者には受け入れがたいものであると知っていたから、多分真佳はエルネストゥスに期待した。

「うーん……」

 少し考えるみたいに口にして、そして多分手についたパンくずを舐め取ることに頭の半分を使っているような間を置いて、漸くエルネストゥスのテノール・ボイスが葉擦れの音の隙間を縫って、真佳の耳に入り込む。

「そうだね、僕も特に違いを感じてはいないんだ。正規のシスターとか正規じゃないとか、村の人にとってはあまり関係が無くってね」
 やっぱり、という声を飲み込んで、「シスターとして務めを果たしてくれたら、どちらでも大した差は無いということ……?」
「あまり大きな声では言えないけれど、そういうことになる。僕たち村人にとっては彼女こそがシスターで、そして誠実にシスターたらんとしている時点で疑問を差し挟む余地が無い。君も、そういうふうに考えているように見えるけど」

 こちらに話を差し向けられて、真佳は微妙な顔をした。普通に言い当てられるとは……。まさかとは思うが、マクシミリアヌスやヤコブスたちにも普通にバレバレだったりするんだろうか。もしかしてと思うが、自分は隠し事が苦手なのでは……? 自覚すると割と本格的に落ち込みそうになるので発見してない振りをした。

「うん……。実はというか、あんまり教会に縁が無い状況で育ってきて」
「教会自体に?」素っ頓狂な尻上がりの声がする。「この国でそれは随分珍しいね。僕のところもそれなりに珍しい気でいたけど、君のところほどじゃない」

 ……やっぱり、この国ではソウイル教に関わっていないことはただそれだけで異質な扱いを受けるのか。教会に縁が無い、という言い訳は苦しかったかもしれない。相手がエルネストゥスじゃなかったら、異教を疑われていたのかも。今後は気をつけよう……。心のメモ帳に赤で大きく丸を描く。

「正規の教会が介入していない、っていうのも、それじゃあ随分珍しいのか」

 純粋な感想として呟くと、「本当に教会とは縁遠いところにいたんだね」と驚いたような声で返された。

「カッラ中佐が言っていなかったかい?」――と、当たり前のようにエルネストゥスは口にした。少し考えてから、そういえばこの二人、マクシミリアヌスが枢機卿がいると知って押しかけていったときに会っている可能性があったのか――「本来なら、ああいう非正規の教会は粛清対象にされるんだ。私利私欲のために教会の名を活用している可能性があるし、間違った教えを与えてしまう可能性もある。国民が安心して教えを受けられるよう、この国では正規のソウイル教会しか受け入れていない」

 ……そう言われてみれば、そういう話も聞いていたような。もっとふわっとした理由かと思ったが、割としっかりしているものなんだなと、ふわっと世界を捉えた頭で考える。

「ああいう教会は、もしかしたら罪に相当する感じ?」
「相当するも何もないよ。神の名を騙るわけだからね。生半可な刑じゃ誰も納得しないだろう」

 ……ということは、枢機卿やマクシミリアヌスが目を瞑っていなければこの村が大量粛清の対象になったかもしれないということ?……村の人間も彼らが偽物の教会なのだと知っている。知っていて匿っていた、或いは教えを受けていたということも、十分罪になりそうだ。だって彼らを被害者と言うには、あまりにも偽りの教会を受け入れすぎている。

「……じゃあ、一体何でこの村の人たちはわざわざそんな……」
「ヤコブスから聞いていないのかい?」

 当たり前のように言われて、真佳のほうが戸惑った。ヤコブスは確かにこの村の出身だが、そんなことまで知っているとは聞いていない。あの人とこの村の関係はひどく希薄で、そもそもそういう村の事情に興味を示していたとも考えてはいなかった。
 真佳の戸惑いを否定と取ったのかもしれない。エルネストゥスが、続く言葉を口にする。

「そうか、あいつもなかなか他人行儀なやつだよな」

 まるで知己に語りかけるような気軽な口調で、それは男口調の割合が随分と多分であったため、そういう話し方を女の子に対してもするんだな、という感想をまず持った(“どうぞ、シニョリーナ。ご案内いたしましょう”――レディファーストが浸透していない日本で生まれ育った真佳にとって、ああいう対応は慣れなさすぎる。結果、心に強く強く強烈な印象として残るのだ)。

「あいつがこの村を去ったわけを知ってるかい?」
「いや……多分、話したくないんだろうと思って……」
「何だ、そっちも話してないのか。まあいいや――この村が正規の教会を呼ばなかったことと、ヤコブスが村を去ったこと、この二つの原因は、多分どちらとも同じでね――」

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