ついついご馳走になりすぎた。気が付いたときには時計の針はぐるりと針を巡らせていて、時刻は夕方に差し掛かる。昼過ぎにお邪魔していたので、実に四時間ほどを村長宅で過ごしていたことになっていた。その間、エルネストゥスも村長も、まるで息を詰めていたかのように特別に存在を主張しては来なかった。多分寝ているんだろうと、枢機卿は口にした。ほかにやることがないからね、とも。
 玄関口に立ってルーナと枢機卿に向かい合うと、ルーナが少しバツの悪そうな顔をした。

「いや、申し訳ない。作り過ぎてしまったね。枢機卿のお客人にお茶請けを出すということで、張り切りすぎてしまった」
「や、食べ過ぎたのは私の勝手なので……」ちょっとまごついてから、「美味しかったのでついつい食べ過ぎちゃっただけなので」

 ルーナが気恥ずかしそうにはにかんだ。言うか言わまいか迷ったのだが、喜んでもらえたのなら“美味しかった”と口に出して良かったな、と考えた。

「夕飯は食べられそうかい?」
「多分無理かな……」お腹が甘いもので満たされている感じがする。シスターにどう言い訳しよう。……ほんの少しだけ考えて、結局思ったことを口にした。「ルーナと枢機卿は……夕ご飯、どう……た、食べるの?」食べるとしたらそりゃもうとんでもない大食漢だ。
「冗談。流石に無理だよ。ただ、後々お腹は空くと思うから、夜食にパニーノでもつくろうとは思ってるけど……」

 枢機卿に向き直って、

「君も食べるかい? ついでに作っておくけども」
 枢機卿が淡く微笑んで口にした――「ああ、とても助かる。お願いしよう」

黄昏時のただいま


「君もどうだい?」と誘いを受けたが、真佳のほうは辞退した。これ以上村長の台所からお世話になるのも悪いし、教会のシスターだって急にご飯をキャンセルされるよりは、夜食に置いておいてくださいと言われたほうが、多分まだマシな気持ちになるだろう。
 三日目ともなると、村長宅から帰る道筋にも慣れてきた。小さな村なので、店舗によっては元いた世界でコンビニに寄ってくるよりも近い距離。真佳の家はマンションで、家の近くにコンビニはあったが特定の商品を狙って店舗を選ばなければならないときは少し遠い距離を歩いて通った。

(随分昔の出来事みたいだ……)

 他人事のように考えている自分に気が付いている。戻りたいなあなどとは、今は特には思わない。戻ろうと思えば、(……異世界案内人と名乗った彼らの力を借りて)いつでも戻れるというのもあるし、それに今はやることがあるから。

(あと、思ったよりも悪くない)

 もっと小ぢんまりとした殺伐とした旅が続くのだと思っていた。首都ペシェチエーロから、旅に出ることが決まったときは。それからマクシミリアヌスが当然のように同行を申し出て、ペトルスに出会ってルーナに出会って、ガプサの面々も力を貸してくれてここにいる。出会った人が良かったのだ。真佳は自分の運がいいと思ったことは一度も無いので、幸運という面で言うならそれはきっとさくらによる恩恵だけど。
 小さな村。
 ヤコブスとカタリナが育って、巣立っていった村。
 この村に来たのは偶然だろうか、と考えている。これまでと同じように、何か意味があったのではないか、などと。
 枢機卿、ルーナ、エルネストゥス……。それから、ヤコブスとカタリナの昔話。
 ここで起こった出来事を頭の隅に思い出しながら、真佳は教会宿舎の扉を押し開ける。ぷん、と、濃ゆい樹木の匂いがする。教会ほど豪勢では無いけれど(というのはこの村の、という話。首都ペシェチエーロや港町スッドマーレの大聖堂に比べると、ここの教会は随分質素で簡単だ――)、真佳はこの木造宿舎の素朴な温かみが嫌いではない。村長の家もそうなのだが、この村の家には総じて、村一丸となって築いてきた“平穏”という名のにおいがする。

「ただいまあ」

 そこに誰がいるか分からないままに土足で廊下を踏みしめながら適当言うと、野太い声がすぐそこのあいた戸口から飛んできた。ひょっこりと顔を出して、曰く。

「随分遅かったのだな? こちらはもう全員引き上げてきているぞ。枢機卿はご健在であったか?」
「昨日の今日だぞ……。突然容態が悪くなるわけないでしょーが」

 ほぼほぼが髭に覆われた下半分の顔容と、緑色の双眼をうんと見上げてそう言った。実際マクシミリアヌスが枢機卿と言葉を交わしたのは一昨日だったような気がするが、一昨日も昨日もそう大差はあるまい。階段の横を通り抜けて、マクシミリアヌスのついでみたいに食堂の戸口を真佳もくぐった。美味しそうな匂いがする。マクシミリアヌスが隣で、ひょいと片眉を跳ね上げた。

「健康状態を気にかけたのではなくてだな……うむ、まあ良い。きっと此度も充実した一日であったのだろう。枢機卿の心に安寧が訪れるのならそれに越したことは無い」

 そう言って先にテーブルに向かったマクシミリアヌスの背中の向こうで、年老いたシスターが「おかえりなさいませ」と口にする。マクシミリアヌスが席につくのを見届けた後で、改めて広くなった視界に真っ向からシスターの姿を受け入れた。ふくよかな体型と、常に湛えた人を和ますような穏やかな表情に、これが母性なのだなあということを感じないこともない。

「お夕飯はいかがなさいましょう?」
「ごめんなさい。お茶菓子を食べ過ぎちゃって……。えっと、その代わりというか、夜食にしてとっておいて欲しいんですけど」

 逆に一手間加えることになって迷惑だったかもしれないと、少しここで不安になった。真佳自身は祖母のマンションで一人暮らし、さくらが転校してきてからは半同棲みたいな感覚で過ごしてきたが、何分怠惰な性格なために自炊なんてものをしてみたことが過去、これまでに一度たりとも無かったのである。どういう対応が料理する者にとって助かって、どういう対応が批難を招くかというその境目が分からない。
 不安がっているのが伝わったわけではあるまいが、老シスターが陽向みたいに柔和に微笑った。

「あらあら。では、食べやすいようにパニーノしておきましょう。村長がね、枢機卿と貴方様がうちでお茶会をするんだということを、毎朝、礼拝の際にお話しに来られるんですよ。きっと自慢なんでしょうけども、私にとってはあの枢機卿が毎日楽しそうにしているというだけで大変喜ばしいことです。折角この村に来ていただいたのに、つまらない時間を過ごさせてしまったのでは申し訳が無いですからねえ……」

 頬に手を当てて、彼女は困ったように苦笑した。それからこっそり、この食堂にいるほかの誰にも聞こえないような低声で、「だから気にしないでくださいね。私たちに出来ないことを、貴方は行っているのです」囁いて、シワに埋もれた焦げ茶色の目でウインクした。そういう許され方もあるのだ、ということを、真佳は少しく意外に思う。お菓子を食べ過ぎるとご飯が食べられなくなるでしょうということは、幼いころよく母親から言われていたことであったから。

(怒られると思った……)

 と言っても、自分の扱いは彼女にとっては飽くまで一人の“お客さん”。まさか母親と同じ目線で叱るなんて、出来ないであろうことは百も承知なのだけど。

(……でもシスターの言葉は多分)

 そういった無機的な、よそよそしいものでは無くて、もっと人間味のある親身になって発せられた言葉のように感じられて。
 だから、真佳は少しく意外に思った。
 そういう考え方が出来る人が、普通にいるんだなということを。

「戻るのか?」

 主語が大分すっ飛ばされた疑問符が横合いから飛んできて、真佳はマクシミリアヌスを見下ろした。シスターと言葉を交わしている間にも早々にテーブルにつき夕飯にありついていたマクシミリアヌスは、いつも見上げているのよりも少しばかりは目線が低い。今日の夕飯は挽肉とチーズらしきものが詰められたパッケリに、お得意のじゃがいものピューレ、パン、とろっとした何かのスープとフルーツのサラダという組み合わせ。じゃがいものピューレはサンドイッチにしても美味しいのだということを、真佳は既に知っている。
 ちょっと考えたが、まあこの時間帯で戻ると言えば自室しかあり得まい。ヤコブスと過ごすうちに、主語が無い会話にも随分慣れてきたような……。

「うん、ちょっと休んどく。胃が大分重いよ」

 弱音を吐くと、マクシミリアヌスが豪快に呵呵と笑った。

「何より、何より。君も楽しい時を過ごしたのならこれ以上の愉楽はなかろうよ」
「はは……」

 苦笑したまま視軸の先を、反対方向へ向けていた。マクシミリアヌスとは真佳を挟んで別の机、それでもなお対角線上に、いつの間にかヤコブスの定位置が出来ている。こちらのやり取りに目線を向けることすらなく我関せずという顔色で咀嚼している彼を横目で一瞥して、「……ははは……」また苦笑した。
 ヤコブスのいる前でわざわざそういう物言いをしなくていいものを。枢機卿と誰かが仲良くなって一番面白くないのはきっとヤコブスに違いない。マクシミリアヌスはそれがヤコブスの当てつけになるということを、気が付いているのかいないのか。

「あすも行くのか?」

 真佳の視線の変遷には気が付いてなどいないのか、素知らぬ顔でマクシミリアヌスが口にした。成る程、そもそも眼中にないという可能性もそりゃあった。
 視線を戻すと、シスターはいつの間にか真佳の前にはいなかった。厨房に引っ込んで、真佳のためのパニーノ(というのがイタリアのサンドイッチであることを知っている)を作りに行ってくれたのだろう。

「……どうだろう。明日の約束はしてないなあ。まあ、暇になったら行くか、或いは呼ばれるんじゃない」

 今度はマクシミリアヌスのほうが、スープに口をつける寸前で動きを止めてから苦笑した。

「そうも気軽に枢機卿に会いに行けるのは、全くお前さんくらいのもんだ」
「……そうゆうふうにとりなしたのはマクシミリアヌスだと思うのだけど?」

 半眼で切り返すと、マクシミリアヌスは呵呵と笑った。「違いない、いや、俺の予想以上に仲良くなってもらえてよかったと言いたかったんだ」
 果たして混じり気の無い本心なのかどうかは疑わしいが……。笑いながら宣うマクシミリアヌスに、真佳は吐息しただけで追求を入れることはしなかった。マクシミリアヌスの思い通りになっているようで、若干面白みの無さを感じなくも無い……。

「じゃあ一足先に休んでるから。ゆっくりしてって」

 背中を向けてひらひらと右手を振ると、「アンタが言うことか」とさくらから鋭い突っ込みを賜った。
 戸口を抜けて、右手廊下の奥を何とは無しに視界に入れてから玄関付近の階段へ。この宿舎、昔からある村の教会横に建てられておきながら、そう建て付けは悪くない。木材が豊富にあるために頻繁に建て替え等を行っているのだろうか。音も立てずに二階に上がると、そのまま自室として宛てがわれた部屋に滑り込んだ。今日は確かさくらがソファに寝る番なので、真佳の位置はベッドになる。昨日は自分がソファに寝ていたために、ベッドの感触にどこか懐かしさを覚えるような……。
 休んどく、という一言は、この村では即ち寝させていただくという言葉に紐付けられる。だってほかにすることが無いので。というわけで、お腹いっぱい食べた後に寝ると牛になるぞという先人からの教えを宇宙の彼方にうっちゃって、真佳は摂理に任せ目を閉じる――……。

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