トライアングル・シンフォニー


 舌の上に含んだ液体を味わいながら嚥下する。今日はいつものこの村特有の香茶とは違う、首都にいた二ヶ月くらい前によく出されていたために味を覚えてしまった、一般にカプチーノと呼ばれるものだ――エスプレッソに、クリーム状に泡立てた牛乳を乗っけるという、あれである。元いた世界の日本ではあまり見かけなかったカプチーノが、スカッリア国ではエスプレッソと同じくらいよく食卓に乗せられる――今までの経験から言うと、主に好んでいるのは教会の上流階級者と言っていいだろう。首都ペシェチエーロや港町スッドマーレから離れてこっち、出されるものはほぼほぼ香茶であったために。
 首都のカプチーノ特有なのか知らないが、チョコレートパウダーが風味付けのためにまぶされている。エスプレッソ主体ではあるものの、上にたっぷりミルクが乗っているためにあまり苦味は感じない。真佳は常々思うのだが、エスプレッソやカプチーノに砂糖を入れてはいけないという風習が一般的だった場合、もしかしたら早々にギブアップしていたんじゃないか。
 カプチーノを淹れてくれた眼の前の女が微笑んだ。

「気に入ったかい? 首都流は久しぶりだったからなあ。今日は事前に枢機卿から、君が来るって話は聞かされてたから準備も出来て良かった。初日みたいに君を独り占めしようとしなかったのもあるがね」

 咳払い。もちろん枢機卿のものだけど――。

「……すまない、彼女がどうしても今回は茶会に参加したいと……」
「二人内密な話題に花を咲かせているわけじゃないんだろう? 少しくらいは刺激もなくちゃ飽きるってものだ。それにこの朴念仁、茶菓子に気を使ってもないんだろう。若い女の子が来るんなら、茶菓子には気合いの入ったものを入れないと茶会なんて続けてくれないぜ?」

 肩を竦めて、ルーナもカプチーノに口付けた。枢機卿のお供という立場でありながら、ルーナがこうも枢機卿に強く出られる理由は何なんだろうと、真佳としては考えてみざるを得ないというか……枢機卿にへりくだらない人を初めて見た。いや自分も別にへりくだった記憶は無いんだが。
 茶菓子には気合いの入ったものを――と豪語するだけあって、今日、テーブルの上はいつもよりかは豪勢だった。
 いつも、と言っても枢機卿とお茶をするのはこれでようやく三度目だ。一度目は二人きりで、二度目はヤコブスとエルネストゥス、四人でした。どちらも香茶だけのシンプルなもので、枢機卿とテーブルを囲む前に体験していた、ルーナとのお茶会とは勝手が違ったとも言える。とは言え国のナンバー2、普段周りがしてくれるであろう茶菓子に気を使えと言うほうが酷のような気もするが……。
 テーブルに乗っているのは前にもルーナにいただいた固めのクッキー、パイ生地に生クリーム状のチーズが詰め込まれたもの、あとはホールで出されたのでアップルパイ的なものだと思ったのだが、タルト生地に酸味のあるジャムを詰めて焼かれたものなんかもある。三人で食べるにはちょっと、というか、大分量が多い。それでも美味しいのでついつい食べてしまうのだけど。ご飯が入らなかったらさくらに白い目をされそうだ。
 固いクッキーはカプチーノに浸して食べるらしいということを、ルーナの食べ方から真佳も学んだ。そのままで食べても美味しいが、この食べ方も飲み物と合ってとてもよい。
 ごほんと、もう一度枢機卿が空咳をした。

「その……やはり、茶菓子というのはあったほうが良いのだろうか」

 その尋ね方がぎこちなくて、固いクッキーを半分咥えた状態で少し笑ってしまった。多分、枢機卿には笑ったようには見えなかったと思うけど。

「あると嬉しいのは事実です。お茶の時間が少し華やいで見えるので」

 ……枢機卿って教会では一体どんな茶会をしていたんだろう。当然呼ばれることもあるだろうし、賓客をもてなすこともあると思うが……。
 さっきは枢機卿に仕えているメイドさんや何かが勝手に用意をしてくれるので知らないのだろうと思ったが、枢機卿の言い分を聞くと逆にお茶会をしたことがあるんだろうかとも思えてくる。例えばそれは、今みたいに少人数での茶会であったり、プライベートな茶会であったり……そういったものの経験が、枢機卿にはもしかしたら無いのかもしれないと考えた。

「そうか……」何やら神妙な面持ちで顎に手をやり、視軸をテーブル上からそらさせた。「……うん、あまりそういうことは得意ではないが、精一杯頑張ろう」
「いや、だからそういうのは僕に任せてくれればいいんですって……慣れてないなら慣れてないで、周りに聞いてくれないと困ります。僕らはそのためにいるんですから」
「……む、難しいものなのだね……」

 何も難しくないと思う、という心の声は、多分ルーナと重なった。クッキーを咀嚼して飲み込んで、ティーカップに手をかけてから、思いついたように口にした。

「枢機卿って、いつから枢機卿をやってるの?」
「いつから、とは?」
「んえーっと」カプチーノに口をつけて、少し頭を整理する時間を作った。「生まれたときから枢機卿だったわけじゃないでしょ? 流石に……。何歳からとか、その前は何をしてたのかとか」
「成る程、生い立ちというやつだね」

 そこまでかしこまったものではないのだが、まあそれが分かりやすいのならきっとそれでもいいんだろう。真佳は曖昧に頷いた。枢機卿も、応えるように頷いた。

「――生まれたときから枢機卿だった、なんて冗談でも言えないくらい、首都とは似ても似つかない片田舎に生まれたよ」

 ティーカップに揺れるカプチーノの表面を見ているような伏せた視線で、枢機卿が口にした。

「田舎にも教会がある、というのは、君には言う必要の無いことかな。首都から建設の許可が出されて、各村に建てられた教会に、正式な資格を持った者が、首都から派遣されて司祭に就く。私の村にもそれはいて、誠実で正直だった彼に憧れて、私も司祭の一つ手前にある助祭の資格を取得した」

 真佳の正面で、ルーナが耳を傾けながらカプチーノに口付ける。今日も村長はどこかに引っ込んでいるのか、居間には姿を表さなかった。

「……正直に言うと、運が良かっただけの話でね」

 困ったように短く笑った。

「一年経ち、司祭になって、丁度空いた席というのが首都の近くの町だった。首都やスッドマーレに比べると小さな町だが、有り難いことに続けているうちに支持してくれる人がいたんだろう。長く務めているうちに首都に招聘される機会があり……あとは」目を閉じて小さく笑った。「司教になって教皇により任命された。即ち、現在の教皇のことだが……」声が僅かに掠れた気がする。一口、カプチーノを喉に流し込むその動作が、まるで誤魔化すようだと真佳は思って自分自身に首を傾げる。――枢機卿の言葉は、何故かそこで途切れていたらしかった。随分中途半端な物言いだ。
「血筋とかで選ばれているのかと思った」

 素直な感想を真佳が言うと、枢機卿はさっきの掠れた言の葉が嘘みたいに明るく笑った。糸目気味の双眼が、それでさらに細まった。老眼鏡は、今日も鼻には乗っていない。

「君たちも、貴族の街は経由したのだったか。そういった血を重んじるのは貴族のほうで、むしろ教会は即物的だ。或いは、実際的と言うべきか――無論、自分の子どもを贔屓していい仕事を宛てがう者もいるにはいるが……」困ったように薄く微笑って、「だからね、私は元から育ちが良かったというわけではないんだ。ごくごく普通の、皆とそう変わりのない一国民。少しは安心してもらえただろうか。まだ少し、寛いでいると言うにはほど遠いね」
「あー……」

 見抜かれて片頬を引きつらせてしまった。普通にお行儀が悪そうなので、口付けたカップを傾かせることですぐにそれは誤魔化した。砂糖入りカプチーノのまろやかな旨味が舌の上に広がった。
 ……この茶会が一瞬のきらめきように感じられて、同時に手放し難いものと思っていたところで、ではすぐに他人と一緒にいることに慣れられるかと言われると答えはノーだ。むしろ、慣れられないからこそこの一瞬に旨味を感じるわけでして……。
 真佳が答えあぐねているのには勿論気がついていたのだろう、枢機卿が空気を震わせ微笑した。

「構わんよ。多分きっと、そのほうが我々には丁度いい」

 ……最後の一言は空気に溶けきりそうなほどに小さくて、一瞬聞き逃しそうになる。まるで口の中に放り込んだカキ氷みたいに甘く、儚い一文で……真佳は成る程と、心中でこっそり腑に落ちた。

「……ふうん?」

 枢機卿の隣で、つまり真佳の正面で、ルーナが頬杖をつきながら尻上がり気味の唸りを一つ。枢機卿と真佳を、かち割った黒曜石の断面みたいな双眼で交互に見てくるものだから、こちらとしては居心地が悪いったら……。また誤魔化しの意味でカプチーノを一口口にした。

「なんだ、案外上手くやっているんだな。枢機卿が毎日のようにマナカを呼び込んでいるって気付いたときはどうしたもんかと思ったが、何のことはない、娘さんが出来たみたいじゃないか。安心した」

 ……一体何を危惧していたんだろうということは、考えないようにする(成る程、邪魔するように真佳の真正面に席を取ったのは、そういう意図があったのかも……)。
 枢機卿が狼狽したように咳き込んだ。

「あんまりからかうもんじゃない。娘というのだって、彼女にとっては失礼な話で――」
「そうかい? いいと思うけどねえ。君家庭も持っていなかっただろう。ちょっとは家庭の良さというのが身に沁みたんじゃないかい?」

 随分フランクに接するなあという感想とは別に、違う感情が閃いた。

「家族いないの? いるもんだと思ってた」

 奥さんとか子どもさんとかが、まるで当たり前のようにいるのかと――(そこではたと気が付いたのだが、そういえば自分も枢機卿の温情で――というのが正しいと思う。敬語を使っていては寛げるものも寛げないだろうと、最初に枢機卿が口にした――敬語を出来るだけ排すようにしているのだった。ルーナに対しても、もしかしたら同じように要望を口にしたのかも)。
 枢機卿は、年齢的に言うと四十代とかそのぐらいだろうか。首都ペシェチエーロで会ったときは目元が疲れ切っていたために四十代後半のように思えたが、もしかしたらそれよりはもう少し若いほうかもしれない。いい年の子どもがいても何らおかしくない年だ。枢機卿という立場上、そういう話が持ち上がらなかったこと自体無さそうなもんだが。
 真佳が元いた世界では、いわゆる司祭になってからの結婚は認められていないとされる。より正確に言えば、カトリック教会の神父は結婚が出来ないが、プロテスタント教会の牧師は結婚が出来る、という感じ。スカッリア国のソウイル教会はどちらかというとカトリック教会に近い印象を受けたので、多分そちらの認識で正しいのだけれど、当然ながら細部から見ると大部分が異なっているようだ(真佳もそこまで詳しくないので、印象として、だが)。その一つが、例えば、神父は結婚が認められていない、という話。これは意外なことに、スカッリア国では一般的な決めごとなどでは無いと言う。つまり、ソウイル教会の彼らは聖職者になろうといつでも結婚が出来るのだ。
 枢機卿とかいう幹部に上り詰めた以上、当然のように引く手数多なのだと思っていた。
 枢機卿が苦笑した。

「まあ……どうにも、それどころではなくってね」
「枢機卿の職務は大変かい? まあ、聞くまでも無いことだが」
 枢機卿が答えるまでにほんの少し間があった――カプチーノを、銘々喉に流し込むだけの音がする。「……やり甲斐はある仕事だよ」

 ルーナが投げた問いからは、少しかけ離れた解だった。カプチーノを少しすすって、クリームチーズのパイに手をつけた。さくっとした香ばしい食感とクリームチーズの柔らかな酸味。ぺろっと食べきってしまいたくなるのをどうにか堪えて、一口一口味わってみる。今日のご飯が果たしてお腹に入るかどうか。
 カプチーノで喉を潤した枢機卿が、とても静かにカップを置いた。

「寝る間も惜しむ、というのはあのことでね……。紹介はあっても、お互いを知り合う機会を設けるというのは難しい。そこから更に結婚などとなると、どうも、ね……」少し気恥ずかしそうに苦笑した。沈みがちだった声色を切り替えて、次に明るく彼は言う。「しかし結果的にはこれで合っていたんだと思うよ。結婚をしても、仕事で帰れないことがほとんどだからね、家族に寂しい思いをさせるくらいなら、独り身でいるほうが気は楽だ。孫の顔を見たがっている母親には申し訳の無いことだが」

 笑って、嫌に張り切ってクッキーを摘んで口に入れた。真佳でも固いと思わせるクッキーだったために、すぐに枢機卿が噛み砕けなかったことに顔を顰めて、それが面白くて少し笑った。

「ルーナ君、少し加減を……」
「年寄りだからって柔らかいもの食べてばっかりだと余計悪くなるでしょうが。カプチーノに浸して食べるようにしてください」

 すごすごと言うとおりにするのがまた笑いを誘うので、一旦パイを片手に構えてカプチーノのカップに口をつけることで誤魔化した。お茶会は何だかんだ表情を隠すのに最適なのだなということを、この時真佳は初めて知った。
 母親、という単語が耳に引っかかったのを思い出す。そういえば、枢機卿がこれから行こうとしている先って……。

「お母さんに会いに行くんだよね」

 ということが、何だかさらっと口に出た。四十代くらいの枢機卿のお父さんお母さんなら、若くても六十とかそのくらいか。真佳の元いた世界ではまだまだ元気な人が多い印象だが、こちらの国ではどうだろう。真佳はこの国の寿命や延命措置というものについては、全くの無知である。
 枢機卿が苦笑した。

「母、と言っても、もう随分会っていない存在でね。最後に会ったのはもう何十年も昔、丁度父の葬儀に帰ったときくらいのもので、そのときも慌ただしく帰ってきてしまっので長く話し込んだ記憶も無い」
「……そっか、お父さん亡くなられてたのか……」
 我ながら微妙な声になってしまって、自分の薄っぺらい人生経験からどうフォローしたものかと考えあぐねていたところ、そういった懸念を抱いていたのがお見通しだったみたいに枢機卿が明るく言葉を付け足した。「もう一人になるのだから、母には首都に来るようにと誘ったんだがね。私に似て頑固なもんだから、自分はこの地に骨を埋めるんだと聞かなくて」

 そう言って、思い出したようにふふっと笑った。木造建築の、陽の光をたっぷり浴びた、古い家のにおいがふわっと漂ってきたような気がしたが、恐らく気のせいであったのだろう。気付いたときには、もう漂っては来なかった。

「お母上はまだご健在で?」

 ルーナが問うと、枢機卿はカプチーノに口をつけた状態でこくりと頷く。「失礼」頷きだけで返してしまったことに対して、彼は律儀に謝罪した。

「手紙は送ったんだが、何せ旅程が決まったのがつい先日なもんで、母からの返事は間に合わなくてね。ただ、病気の話もそれまで聞いたことが無かったから、元気だとは思うのだが……」沈みそうになった声色を持ち上げて、「いや、まだまだくたばりそうも無い母親だ。むしろ私のほうが母より不健康であるかもしれない」

 ……それは少し分かる気がする。少なくとも首都にいるときの枢機卿は、張り詰めたものが張り裂けないよう注意しているのにそのことでまた心を病んででもいるかのようで、底無しのブラックコーヒーみたいなものを抱えた人を、真佳は少し敬遠していた。

「お母上とは手紙でやりとりを?」
「と言っても、向こうから送ってこられるのにざっと目を通しているだけだがね。魔術通話を持たせようともしたのだが、手紙で十分と突っぱねられて……」苦笑して、「執務室に詰めている間は筆を取る間も無かったものだが、そう考えると今の時間はとても不思議に感じるよ」
 ルーナも隣で合わせて笑った。「とても貴重な時間ですからね。たっぷりと堪能してください。戻ったらまたあの多忙が待ってはいるわけだからね」
 笑声。「叶わないことだが、この場に留まれたらどれだけいいかと考えるよ」

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