旅を初めてから、月明かりで行動するということに随分慣れた。フォスタータは特別人通りの多い豊かな街では無いために街明かりには無縁な村だ。住民もそれほど夜更かしを必要とする人種では無いらしく、家々に灯る明かりも無いに等しいと言っていい。魔術で光を生成出来るこの国では原材料の消費を抑える必要が無いので、きっとただの習慣として、そういう人たちが多いのだ。
 満月に近い十三夜月と三日月が一つ、天幕から吊り下がるライトみたいに煌々と照っているのを何とはなしに仰ぎ見ながら真佳は木造の壁に背をつけた。ほんのりとした暖かさを背中に感じて、ほんの少しだが息をつく。シミュレーション。もしも相手が敵の場合、対抗する意識すら芽生えさせないほどの圧倒的な力でもって差を見せ――

(……やめよう)

 嫌なことを考えるのは。ああいうことはそう何回もしたくない。絶望感と怯えの混じった眼差しを突き刺されるのが、真佳はあまり好きでは無い故に。
 村長宅の壁に背中をこすりつけながら、真佳は地面に座り込んで膝を抱えた。膝に顎をつけて、目を閉じる。虫の声。風の音。葉擦れの音――家の中で、村長だか誰だかが発する低く平穏な寝息を感じた。……それで多少心臓の鼓動が和らいだ。いつの間にか、痛いくらいにずきずきと心臓を痛めつけていたらしい。……緊張しているのか。
 下草と砂利を踏みしめる音。真佳は無言で目を開ける。抱えていた膝を解放して、自らも砂利を踏みながら壁をこすって立ち上がる。

「ごねんね、枢機卿。夜遅くに来てもらって」

アップル・ティー・タイム


 枢機卿は何事かを既に把握しているような顔で、「構わんよ」と口にした。上等っぽい普段着に、カーディガンみたいなものを袖を通さずかけている。森の中にいることもあって夜はひどく冷え込むために、そういう配慮は必要だったのかも知れなかった。昼の気候的にはどことなく、初夏の香りもするのだが。
 ここに、というのはこの世界のことだが――
 ここに来て、随分な時間が経っている。多分、元の世界で言うところの二ヶ月くらいは経っていることになるんだろう。高校一年のうちの二ヶ月というのは随分大きな二ヶ月だ。今学校に戻って本来入るべきだった一年生から始めたところで、勉強にはついていけないわグループにも入れないわで悲惨なことになるんだろう。そう考えると何やら面倒くさすぎて、真佳一人であればもうずっとこの世界にいても別にいいかもなあなんて本気で考えていたかもしれない。
 真佳一人であれば。
 当然さくらも伴っている状態でそんなような無茶はできっこない。

「寒くないのかい?」

 真佳の隣に壁を背にして立ちながら、枢機卿が口にした。遠慮がちな言葉のかけ方、真佳から中途半端に、〇・五人分くらい距離を取るという不器用感、どれを取っても微妙に笑えてきてしまう。まるで家にあまり帰れないために実子との会話の仕方が分からない、手探り状態の父親みたい。これが国の教皇、つまり一番偉い人間の補佐であるというのだから、人生とは分からないものだ……。

「うーん、少し。でも大丈夫です。これでも随分暖かくなってきたと思います」
「ああ、君はもう二ヶ月も旅をしているのだものね。恩寵の月からとなると、成る程……気候の変わり目も肌で感じるというものだ」

 リリ……リリ……という虫の音――これでも最初のほうと比べると、枢機卿は真佳と話すことに随分慣れた。それは真佳も同じだが。少なくとも枢機卿とこうして横に並んで立って、この世界の虫の音は元の世界と比べて綺麗だなあなどと考える余裕が出るくらいには。……――真佳はとても落ち着いている。

「枢機卿」

 役を呼んだ。

「トゥッリオの件を覚えている?」
「トゥッリオ……ああ、少年の殺し屋だね」声のトーンを落ち着けて、「覚えているよ」

 ……目を閉じた。多分枢機卿は、これから何を問いかけられるのかを分かっているのだろうと予測した。

「トゥッリオを雇っていたのは、ベルンハルドゥスという教会従事者だった」
「私も彼のことは話には聞いている。事を起こす前、ということだが――教会学校では非の打ち所のない優等生と聞いていた。まるで神に仕えるために生まれてきたようだ、とも。給仕の仕事を重ね、ゆくゆくは行政部で重要な地位につくことになるだろう、と――。彼は教会従事者にとってのいわば期待の星だった」
「私、ベルンハルドゥスの最後の視線を覚えてる」
「ほう」ほんの一瞬の間を置いた。「どういう目かね?」

 ――つま先で、転がる小石を踏みつけた。
 月は高く、煌々と照る光の恩寵に陰りの影は見られない。

「――信仰者の目」

 呟いた真佳の一声が、夜闇を溶かす月光に滲んでかき消えた――鈴を転がすような虫の音と控えめな葉擦れの音だけが、フェードインするみたいに無言の時に分け入った。
 ……それからしばらく、ただただ虫が奏でる音楽だけを聞いていた。枢機卿が何も言い出さなかったので、真佳も特別何かを口にする必要が無かったためだ。枢機卿と二人、横に並んで立ったまま、多分二人ともが、村に落ちた夜の緞帳と行き渡る寝息を肌で感じて待っていた。
 突然がさがさと何か取り出すような音が聞こえたと思ったら、隣で枢機卿が煙草の箱をいじくっていたので驚いた。「煙草、」条件反射で口にすると、枢機卿はその薄い唇に人差し指を添えもって、「内密にね。あまり印象が良くないものだから」少しハスキーな落ち着いた声音で口にした。あまりこなれていない動作で火をつけると、「……ふう」一服、長息。白い煙が月を絡める蔓草のように空へ向かって吹き付けられる。……真佳はそれを、どきどきしながら見守った。吸うんだ、枢機卿が。煙草。いや、聖職者が煙草を吸っているのを今まで見たことがなかったわけでは無いけれど。

「随分捨て置いてきたものだ」

 人差し指と中指の間に白く細長い煙草が挟まれているのを視界の端で見てとった。メンソールというのか、鼻につんとくるようなにおいがする。……ヤコブスみたいに口に咥えたまま発話したりはしなかった。

「家族、友人、時間……煙草もその一つ。昔は間がないくらいには吸っていたんだが。酒もやめ、趣味のカードにも手を出さなくなってしまった。全ては枢機卿という頂に登るため、と言ってしまえばそれまでだが……」灯る煙草の火種を見下ろして、自嘲するように一笑。「これが果たしてそうしてまで欲しかったものなのかと問われると、きっとそうではなかったんだろうという気になるよ」
「…………」

 真佳は何も言葉にしなかった。枢機卿の長い長いこれまでの道のりに対して、何か口を利けるほど満足に生きているわけでもない。

「君にその話をされることを、きっとどこかで待ち望んでいたんだろう」

 まるで神に懺悔するみたいにそう言った。聖職者は貴方のほうなのにと、真佳は少し思ったが、教会の懺悔室にお世話になるような格式高い生活を送ってきてはいなかったので、何も考えなかったふりをした。

「ベルンハルドゥス・コッラディーニ……知っているとも。何なら、あの少年の殺し屋、トゥッリオ・パンツェッタと言ったか――彼の存在をベルンハルドゥスに示唆したのも、この私だ」
「……私を殺すために?」
「異世界人を。あまりにも未知である君の存在を、放置しておくことに恐怖した」

 そこに、恩赦を請うような色が無かったことに安堵した。聖職者は貴方のほう。真佳に人を許す権利は無いし、それにいい加減、人に救いを求められることに飽き飽きしている。

「枢機卿がそう言ったの? それとも、神様が望んでいると口にした?」
「神が望んでいると口にした」
「……それは後悔?」

 ……一服、するだけの間があった。

「いや、あまり後悔はしていない。ただ、君が生きて、今ここでこうして出会えていることに……感謝しているよ。再会した日、神に素直に祈りを捧げた。懺悔と感謝――まるで、万能の神を夢見る少年のように」

 それは真佳も同様だ。あの時、ベルンハルドゥスと一緒に枢機卿の罪が露呈していたら、この村で同じテーブルを囲み、ティーカップを傾けながら、何も知らない状態で安穏と語り続ける事様はあり得なかったんだと考える。
 ……ベルンハルドゥスとももっと話をしてみたかった。それは真佳の、数多くある後悔の中のひとしずくには違いない。

「……そうか。それならそれで、別にいい」
「……糾弾はしないんだね」

 少し困ったようにデ・マッキは苦笑した。糾弾してほしかったんだろうか。後悔はしていないと言ったくせに、おかしなことを口にする。
 ……別に殺されてもいいなあとベルンハルドゥスに対して思ったことを、ここで思い出していた。

「別に。終わったことに声を荒げても面倒くさいだけなのでよいです。私も枢機卿に会えて、お茶会とか出来たことがちょっと楽しい。私はそれでいい気がする」
 煙を吐き出す間があった。「……君はあまり、長生きをしてくれそうにないね……」

 一体どういう感情でデ・マッキ枢機卿がそう呟いたのか、真佳には判断がつきかねる。けれどどちらでもいい気がした。いい意味でも、悪い意味でも。

「もう異世界人は殺さなくていいの?」

 努めて明るい声音で口にする。殺すつもりなのならそれはそれで別にいいし、ああ、でも、さくらだけは守らなきゃいけないから、それは少し困るなあなんて。
 答えは既に知っていた。殺すつもりなら、今まで幾らも機会があった。

「残念ながら、そういうつもりは微塵も無い。私は肉弾戦が苦手だし、私についてきてくれたお供の仕事に殺しは入ってないからね」

 意地悪く、にやりと笑ってそう言った。そう返してくれたことに感謝した。よかった。特に気負っているふうもなかったので。なのできっと、私たちは今までどおりお茶会というものが出来るだろう。殺される、殺されないよりも、真佳にとってはそっちのほうが重大だ。

「また明日行くよ」

 意外さに瞬くだけの間があった。

「……いいのかい? 来てくれるのなら拒む理由は無いけれど、連日じゃないか。そこまでの時間を君から頂くつもりは無かったんだが」
「うーん、私もそこまでの時間を枢機卿と過ごすつもりは無かったな」

 正直なところ、最初は渋々だったのだ。マクシミリアヌスに言われて、仕方がなくという感じで。実際お茶会をしてもぎこちがなくて、愛想笑いだけする変な間があったりして。お互い会話が途切れて香茶をすする音とか。それでも少しずつ、少しずつ話の種を拾っていくのが楽しくて、いつの間にか渋々という感情はどこかに抜け落ちてしまっていた。それは友達とする気兼ねない会話とも違ったし、何も考えなくて済む家族との会話とも違ったけれど。例えるならば家でちょっと気を張って作ったアップルティー。ふとした林檎の香りに心が安らぐあの感じ。実は真佳は紅茶はあんまり好きでは無いが、林檎の香りは嫌いじゃない。

「でも行くよ。ほかにすることもないし。あと、ほら。この村を出たら、多分もう絶対ああいう雰囲気でお茶会することは無いからね」

 枢機卿は真佳の隣で、短く苦笑したらしかった。真佳がさくらと共に帰るときは、さくらの目的を果たしたときだ。目的――それは即ち、彼女の両親を殺した犯人を特定することにある。
 そのとき首都に戻るのか、それともそのまま元の世界に戻るのか、今の真佳はまだ知らない。万一首都に帰ったとして、更にその時長期休暇から首都へと帰った枢機卿がいたとして、真佳と枢機卿が出会うタイムラインに林檎の香りが流れるかと言ったら、真佳は即座に否と言う。
 話が尽きないというわけでも無いのに心地よく秘密めいた場所、言語化出来ないからこそ無視が出来ないこの不可思議な感触に、もう少しなら触れてみてもいいだろう。真佳と枢機卿が、それぞれ世界の枠に収まるまでは。それまでは秘匿されたこの村で、身分と出生を忘れていつか目覚める夢浮橋を。
 堪能してみても、きっといい。



「随分と温和に運んだものだ」

 ほとんど後ろからかかった声に真佳は振り返らなかった。甘い、チョコレートのにおいがする。吸引した者の体腔を、生きていることを自覚させるメントールと違って、チョコレートはまるで全てを溶かして有耶無耶にする、甘さで酔わせるみたいなにおいをしていると考える。
 そこに誰がいるか、無論振り返らずとも知っていた。真佳がそこにいるように、ヤコブスにお願いしたからだ。真佳は足を休ませない。

「不信で別れると思ったがね。俺にとってはそちらのほうが都合が良かった。教会の人間とは極力繋がりを持ちたくたいし、貴様が繋がりを持って厄介事を招き入れるという危険を犯したくは無いからな」
「それでも静かに聞いていてくれたじゃないか。私はめちゃくちゃ感謝をしているんだけど」
 はん、とヤコブスは鼻で笑った。「貴様に感謝をされたところで何か利点があるわけでも無い」

 砂利を踏みしめる音が二人分、ざっざっ、ざっざっ、静かな夜に木霊するのを意識の表層で聴いていた。ヤコブスは相も変わらず可愛げが無いなあと考える。枢機卿と別れて、ヤコブスが声をかけてきたのは村長の家から随分歩いた後だった。枢機卿がまだ真佳の背中を追っている可能性を、きっと危惧してのことだろう。
 煙草の煙を吐き出すような吐息があった。今日は随分煙草の煙に縁がある。

「満足か?」
「何が?」
「偽善が通用したことが。命を狙われて問責もせずに見逃す馬鹿はそういまい」
「……」ここにいるのだが、ということを言おうとしたが、思い直して中途でやめた。ヤコブスが言いたいのは多分そういうことじゃない。「……不思議に思う?」

 答えるまでに少しの間、間があった。ヤコブスは枢機卿とは違うので、行儀悪く咥え煙草の不明瞭な声質で。

「……少なくとも、命を狙われた相手から距離を取ろうとするのが一般的な人間の条件反射というものだ」

 そりゃあそうだ。誰も死にたくはないんだもの。死の危険性がある場合、人はそれから出来うる限り逃れようとする。心では何を思っていても、それが生物という存在に初期の初期からプログラミングされた、消しようの無い原始的なリアクションというものだ。
 で、何故それが真佳に働かないかと言うと。

「簡単でしょ。私は殺される危険が無いからね。枢機卿も、ルーナも、エルネストゥスさんも、束でかかってきたところで私なら簡単に制圧できる。そういう自信があるものだから、命の危険の有無とかいう項目は基本的にはどうでもいい。それよりも枢機卿とのお茶会のほうを優先した」
「……何を企んでいる?」
「ええ……何その懐疑的な……」
「枢機卿との繋がりを維持することで、一体何を成そうとしている?」
「――」

 ……成る程、枢機卿とのコネクションを得るという発想は無かった。何せ教会のナンバー2だ。これ以上強力なコネは無いし、多分枢機卿の名を出すだけでかなりいい扱いを受けられる。左団扇とはこのことだ。虎の威を借る狐とも言う。

「……ヤコブスって随分人を信じることに抵抗心があるんだなあ」

 わざわざ振り返って口にすると、とても嫌そうな顔をされた。

「達観するように語るな、気色悪い」
「常に人を疑ってるってことでしょう?」
 更に追い打ちをかけてみたら、強めの舌打ちで返された。「言ってみただけだ。本当に貴様がそこまで考えているとは思っていない。その考えに至るほど、貴様の脳みそに期待を抱いてないからな」
「一を言うと百で返ってくるな、本当にキミは……」

 月明かりに照らされるヤコブスを半眼でもって睨みやり、それからもう一度前を向く。月はこんな外れの村にまで平等に、ずっと先の地面を煌々と照らし続けていた。月がこんなに明るいならば、確かに人工的な明かりは不要だし、もしかしたらそれは余分なものなのだろうと考える。

(枢機卿はここを私たちの世界のようにしたいと言っていたけれど)

 砂利をざくざくわざと鳴らして歩きながら、真佳は不意に考えた。

(多分それは、それほど正解というわけでもないよ)

 ……それは多分、枢機卿には口にしない。いつだって正解というものは、自ら得てから正否を認識するものだ。

「……結局、俺の出番は無かったな」

 煙を吐き出すとともにヤコブス・アルベルティが口にした。

「とても有り難かったのだよ? いてくれて」
「よく言う。さっき貴様が自分で口にしたように、もしもフレデリクス・デ・マッキが貴様に敵対意識を持っていたとして、奴に貴様は殺せんよ」
「私の力を買ってくれているということ? うっれしーなー」

 舌打ちされた。
 ……一人くらいは真佳の思惑を慮って、なあなあで事を済ませてくれてくれる人間がいてくれたってよいものを。

「気の抜けた声を出すな。本気で言っている」咥え煙草の行儀の悪い声色で、一段トーンを低くして。「フレデリクス(・・・・・・)()マッキが敵対行動をとった場合に備えて貴様は俺にあの場にいるよう求めたが(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、」

 ――吐息した。ざくざくと砂利の道を踏みしめる。不思議と表情筋は動かない。

「本当にそれだけか? 他にも理由があったわけではあるまいな」
「買ってくれてるとこ悪いけど、それだけだよ。本当にそれだけ」

 声が凪いでいた――真佳は少し言葉の調子を意識する。

「キミは万一枢機卿に私が殺されないための保険。敵地かも知れない場所に、流石に何の対策もなく一人で乗り込むほどお目出度いわけではないからね」

 ……有り体に言うなら真佳は枢機卿を信用していない――と、いうことになる。不信を貫けるだけの過去は無いが、だからと言って盲目的に信じられるほどの過去も無い。それは多分、非道い話ではあるんだろうが。
 ――声の調子を意識した。出来るだけ明るく、ちゃらけた口調に聞こえるように――
 振り返る。不敵に口角をつり上げて。

「――私は一応、まだまだ死ぬ気はないんだぜ?」

 ……これは本当。いつか突然、衝動的に殺されることを許容することになったとしても、その瞬間までは確かに真佳は生にしがみついているのだろうから。希死念慮を常に胸に抱えて生きていられるほどには、悲観的では無いはずだ。
 ヤコブスが短く吐息する――煙草を口端に引っ掛けて、何かを考えるみたいに金の双眼を斜め下方に向けていた。真佳は再び前を向く。

「……よかろう。そういうことにしておこう」
「……キミは本当に懐疑的だな」
「そうでなければ生きられない世の中に生きている」

 それは多分皮肉だったが、真佳は突っ込みはしなかった。
 みんなそれぞれ自分の世界を生きている。真佳はどこでも生きられるが故に、多分どこかに生きているという自覚が無い。

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