――殺し屋ではない僕が貴方様を殺害するのは神の真意では御座いませんが――

 記憶の頁がばらばらと再生されている。

 ――ベルンハルドゥスの水晶球みたいな瞳に答えは書いていなかった。何も無かった。憎悪も憤怒も憐憫も、激情らしきものは何一つ――

 風に煽られて無作為に暴れる頁の表面を、真佳は冷静に見下ろしている。頁を手で押さえることをしなかったので、たった一場面だけが切り抜かれたみたいに脳裏をよぎってすぐ消える。

 ――まあ、あまり言いたくはなかったが、異世界人というだけで敵視する連中も全くいないわけではない世の中だ。彼もその部類と考えるのが妥当だろう――
 ――“殺し屋ではない自分が真佳を殺害するのは神の真意ではない”、と彼は言った――どちらかというと、“殺し屋に殺させろ”と言われたのを忠実に守っているように真佳には見えた――
 ――透き通っていてしなやかで、天衣無縫で慈愛にあふれた――彼の瞳が指し示したあの感情は、

 ……目を開ける。

聖典の適切なしまい方


「全く無意義な一時だった」

 帰路につきながらヤコブスが、やさぐれたようにそう言った。真佳の斜め後ろを拗ねた様子でひょこひょこついてくるのだが、思うにこれは真佳の後に従っているわけじゃなく、一、帰る方向が同じだから、二、隣に並びたくないから、という、単純な理由によるものだ。

「枢機卿とエルネストゥスさんは楽しそうだったよ」
「楽しそうだからどうだと言うんだ?」

 物凄く嫌そうに口にする……。真佳は短く吐息した。

「楽しそうなら安心するじゃん」
「俺がか?」
「……ヤコブスは違うかもしれないけど」

 うーん、冷静に考えると、確かにヤコブス相手に無茶な注文をしたように思う。エルネストゥスはまだしも、枢機卿が楽しんでいたからってヤコブスに何の益があるのかと言われると答えに詰まる。

「エルネストゥスは? 友達なんでしょ。エルネストゥスが楽しんでるとちょっと嬉しくなったりしない?」
「ならんね」

 いつの間にかポケットから煙草を取り出して口の端に引っ掛けていたらしい。吐息する音が聞こえたかと思ったら、甘苦い“あの”チョコレートの香りが真佳の鼻腔をくすぐった。
 ……ならんのか。真佳はさくらが楽しそうだと嬉しくなるのだが……。
 まあ、

「協調性が底辺だもんね……」
「いつまでその話題を引っ張るつもりだ」

 思考の途中のつもりがいつの間にか声に出していて、斜め後ろからヤコブスが引きつったような声で突っ込んだ。
 下草が適当に刈り取られた砂利道をざっくざっくと踏みしめながら、真佳は背中で手を組んだ。ざっくざっくに合わせてふんふんと調子外れの鼻歌を、後ろに聞こえないように歌い出す。この村の見え方が軸がズレたみたいに多少変わったのが面白く、それで改めて眼前に広がる村の様子を眺めていた。
 昔のヤコブスの話を初めて聞いて、多分少しく浮かれていた。ヤコブスを知れたのが嬉しかったとかいう単純なものではなくて、ヤコブスにも後ろに続く道があり、そこから今までがちゃんと繋がっているんだということが知れたから。
 考えていることが分からなくても、繋がる道があるのであれば結局それは真佳と同じだ。いろんなことを考え感じ、思考し苦悩し感動したりして生きてきた。

「貴様こそ途中から黙ることが多かったが」

 チョコレートの甘い香りが言葉と共に運ばれて、真佳は少しく、どきりと心臓を震わせた。……痛いとこを突いてくる。そっちこそ途中から特に迷惑そうに、あらゆる話題を鼓膜の表層で聞き流していたくせに……。

「何か思うところでも出来たらしいな?」
「何でそう思うのかわかんないですけどお……単に話題が浮かばなかっただけだよ。話下手なので」
「そうかね。それにしては早すぎた気がするが。騎士様気取りで俺から注目を外そうとしていた割にはな」
「…………」

 半分だけ振り返ってジト目で睨むと、ヤコブスは効いたふうもなくあらぬ方向へ向かって煙を吐いた。ヤコブスに頼まれたわけでもなく真佳が勝手に気負って勝手に話の方向を捻じ曲げようと画策していただけで、今では何故もっと自然に話の誘導が出来なかったのかと反省しているくらいの出来事なので、そういうふうに茶化されると恥ずかしいのだが。っていうか気付いていたんかい。ほんと恥ずかしいな。

「……別に、そういうんじゃ……」

 口を噤んで俯いた。歩きながら眉間に強くシワを寄せて、転がっている小石を親の仇みたいに睨めつける。「…………」ちょっと考えてから、結局口にしようと思っていたのとは別の言葉を発話する。

「……首都でのことを思い出していた」
「首都?」多分条件反射で聞き返してきてから、得心したようにヤコブスがすぐに口にした。「ペシェチエーロか」

 口に出さないで頷いただけで応じる。ヤコブスは真佳の後ろにいるのだから、首の動きだけでもきっと伝わるだろうと考えた。

「……一人の殺し屋が、“異世界人”を殺すために遣わされた」真佳を、とは言わなかった。あの時、殺し屋を差し向けたベルンハルドゥスという男は、“真佳”ではなく“異世界人”を殺すために行動していた。「その殺し屋を差し向けた人と、」……似てる、と言うと、語弊があるかもしれない……「……その殺し屋を差し向けた人のことを、ちょっと思い出していた」
「その話なら少しは聞いた」

 誰から、というのは言わなかったが、真佳にだって予想は出来た。多分さくらが、ヤコブスにちゃんと報告をしていたんだろう。

「俺はヒメカゼに力を貸しただけだが、それなりに大団円で終わったらしい」
「大団円かは……どうだろう」

 結局殺し屋であったトゥッリオはベルンハルドゥスに殺されて、ベルンハルドゥスは最後、自ら命を絶ってしまった。きっともっと皆が幸せな終わり方というのもあったんだろうと、極たまにだが考える。たまにというのは、常に考えていると途端に気が滅入るためだ……“神は唯一にして、ほかに神なし”。
 後ろからヤコブスが呆れたように口にした。

「自分を殺しに来た人間の死を後悔すると? 随分平和な世界から来たらしい」
「そりゃまあ……」

 言いよどんだ。そりゃまあ、衣食住はここと比べたら贅沢なくらい揃っているし物資に滞りは無く紙は千切り捨てられるくらい使いたい放題、道楽に興じる余裕があって、終戦してから半世紀は経っているために戦争という恐ろしさが随分薄れた平和な世界に生きている、……という自覚はある。マクシミリアヌスだって、若い青年の死を多少悼んだ程度で、彼らの死に対して特別感傷的になっていたりはしなかった。
 ……敵の命は屠るもの。そりゃあそうだ。だって彼らは、ずっと戦争の中にいた。多分それが、この国の人たち皆の共通認識なんだ。
 口ごもった真佳の反応をじっくり丹念に味わうような間を置いて(……というのは、被害者意識が過ぎるだろうか……)、ヤコブスが続いて口にした。

「俺はその殺し屋を差し向けた奴っていうのを知らんがね」咥え煙草の不明瞭な言い方で、一瞬そいつを口の端から引き抜くような間があった。「聞いたことはある。それなりに信心深い奴だった」
「調べたの?」
 大変不愉快そうな渋面で、「勘違いするな、俺じゃない。トマスが人定して、グイドが補足した。あいつの知識に引っかかっていたんだろうよ、そのベルンハルドゥスとかいう名前が。奇跡的なことに」
「……前から思ってたけど、グイドさんって瞬間記憶能力者か何か?」
「何だと?」
「いや、知らないならいいんだけど」
「……」

 問いただそうとしたのか分からないが兎にも角にも沈黙の後、ヤコブスは再び煙草を咥えた聞き取りにくい声で言う。

「……エルネストゥスを見て奴を思い出したんだとしたら、それは間違っていない認識だ。ソウイル神を、ひいては教会を信仰しているのは昔からの性質だった」舌打ちをして、低声の早口で言葉を継いだ――「“あれ”が教会の犬になっているという可能性は、考えて然るべきだった」

 エルネストゥスを、か……。
 似てる、と言いかけたのは真佳自身だが、主体はデ・マッキ枢機卿であって正確に言うとエルネストゥスでは実は無い。エルネストゥス個人、というよりエルネストゥスから枢機卿に注がれる尊崇の……いや、まあ別に、エルネストゥスを見てと捉えてくれても何ら支障は無いのだが。
 しかし、“教会を信仰している”、とはよく言ったものだ。それは神への崇敬と同一でありながら別個のもので、神を信仰していても教会を信仰している者は真佳の周りにはそう多くない。実際ヤコブスだって、教会を信仰していないが故にガプサという形に落ち着いたのだと考えるし。それこそ教会を信仰している顕著な例は、エルネストゥスとベルンハルドゥスぐらいなものかもしれなかった。
 靴の裏に当たる小石の感触を意識の表層で感じながら、ベルンハルドゥスのことを思い出している――さらさらとなびく、ミルクティーみたいな色をしたとても上品な短髪に、清涼感を伴うアイスブルーの双瞳。柔らかな砂が指の隙間をすり抜けるような居心地の良い話し方。真佳が首都の教会で食事をする際、ずっとウェイターとしてついていてくれた二十歳くらいの青年だ。その青年が最期に見せた、透き通っていてしなやかで、天衣無縫で慈愛にあふれたあの双眼を、今でも未だに憶えている。

「……ベルンハルドゥスは多分、誰かに言われて殺し屋を雇うことにした。んだと、思う」
 ヤコブスが奇妙な顔をする――「それが教会だと?」

 ……流石に察しがいいんだな、と考えた。説明するための道筋を一つ二つ示しただけで、すぐに点と点とを結びつけて線にする。ヤコブスにはそういう才能がきっとあるんだろうと思考する。

「今に始まったことじゃない。それくらいのことは当然考えられる相手だ。そう警鐘を鳴らしていたつもりだが」
「……そうか、驚かないのか」

 そりゃそうか。ヤコブスだってつい今しがた口にした。ヤコブスは教会を信仰していないし、信じていない。マクシミリアヌスとは違って……。

「……少し考えたいことがある」

 前を向いて口にする。ヤコブスは言葉を返さない。煙草を吸って、吐くだけの動きを呼気の音だけで把握した。
 ――囁くように呟いた。

「私は多分、君たちみたく不信を貫けるだけの過去が無い」

 TOP 

inserted by FC2 system