最初、笑顔で言われたことが何一つ頭に入って来なかった。スカッリア語だったのだから当然だ。ただ、一語だけ、この人は確実に“ヤコブス”と口にしたような――。
 昼過ぎに真佳が目を覚ましたとき、聞こえてきたのが木戸を叩くノックの音だった。一定間隔をあけてコンコンコンと鳴らされるノックの音をしばらく聴覚の表層で聞き流していたが、あまりにも誰も出て行こうとしないので訝しげに思って階下に降りて扉を開けた。人様の家ではあるのだが、居留守を使う気にもならなかった。ノックし続けていた時間的に、この人は誰かが出てくるまで諦めないんじゃないかという気もしたので。
 清潔感のある黒髪に、吸い込まれそうなエメラルドグリーンの双眼が爽やかさを助長させている。さくらや、富裕の街チッタペピータで出会った貴族の顔に見慣れたせいで、僅かな美醜の差というものが分からなくなってきている自覚はあったが、パーツ的には対照的で綺麗な配置に収まっているような気はした。背は高く、せいぜいヤコブスより数センチ低いくらいの身長差。ヤコブスより体格はひょろっとしている気はするが、多分こういうのが普通なんだろうと思う。治安部隊じゃない、教会行政部の外套に腕を通していた――黒の色合いに、襟元に教会を象徴する紋章がピンでとめてあるのを目に留めた。
 教会行政部がヤコブスにわざわざ何の用事……? にこやかにヤコブスと口にしてはいたが、どうしても警戒が先に立つ。この村には国正式の教会というものは存在しない。つまり、正式な外套に身を包んでいるこの男は枢機卿側からやって来た可能性が至極高いということだ。新教であることがバレた……? 誰のせいで? ……私、とか?
 今回、枢機卿側と会話経験があるのは真佳とマクシミリアヌスだけである。どちらかの失言でバレてしまうに至ったとか……いや、それにしては一人で来ているというのが若干納得行かないが。

「どいてろ」
「わ」

 斜め後ろから低声で呟かれた声に押されるようにたたらを踏んだ。実際声にはそんな能力は無かったのだが、階段から駆け下りてきたヤコブスがどうやら物理的にそうしたらしいと一拍遅れて気が付いた。乱暴なことをするなあ、もう。慣れているので不満は口にはしなかったけど。
 そんなことより、頭の上で交わされる二人の押収を興味深げに見上げてしまった。ヤコブスは真佳の事情を知っているくせに相も変わらずスカッリア語で、ということはつまりこの人は真佳に少しの情報すらもたらすつもりは無いのだろう。何を話しているかは分からないが、どうも……友好的なにおいがする。ヤコブスはとてつもなく嫌そうな顔で、嬉しそうなんてこれっぽっちも見えないのだが、多分この人にとってはそれが一般的な対応なのだと思う。対して黒髪緑目の彼は――
 人懐っこい大型犬みたいに、ヤコブスの両手を握ってぶんぶん振り回しそうなくらいどうやらヤコブスのことを歓迎していた。村の人間、では無いと思うのだが、教会にヤコブスの知り合いが? 世界がひっくり返ってもそんなことはありそうもない。ということは、この人は一体誰だろう。
 黒髪緑目の男の人のほうが何かをしきりに誘いかけているように見える。ヤコブスはそれを何とかして断りたい雰囲気を醸し出しているが、相手の男の人には全く伝わっていないらしい。訳知り顔でふうむと唸る。ヤコブスにはむしろそっちのほうが相性がいいと言えるのかもしれない。自分もそういう路線で行ってみるべきだろうかと考えた。めちゃくちゃ怒られそうだ。
 肩を抱かれて、前に押し出されたのはその時だった。
 は、という顔で見ると、それは無論ずっと隣にいたヤコブスのほかになく、

「こいつと一緒くたなら付き合おう」

 何がどうしてそうなったのか、最終的にそういう路線でヤコブスは話をつけたらしかった。


ターコイズグリーンの双眼


「一体どういうことなの……」

 下草の生えた道を踏みしめて歩きながら、隣を歩くヤコブスに向かって問いかける。黒髪緑目のまだ名前も知らない男の人は真佳より一歩も二歩も先にいて、意気揚々と歩き続けている。今、鼻歌を歌いだした。

「不可抗力だ」
「不可抗力て」

 あからさまに鬱陶しそうに舌打ちをされた。しかしこればっかりは聞き流すこともできなかろう。何せどういう経緯か知らないが、どうやら真佳もヤコブスと、知らない男の人と一緒にどこかへ連れて行かれることになっているようなので。
 じっとりとした視線を突き刺し続けると、観念したのかヤコブスはまた小さく短く舌を打つ。前を歩く男の人に聞こえないくらいの低声で、真佳のよく知る日本語を介して口にした。

「昔の知り合いだ。今は教会に属してるとかで、枢機卿のいる村長の家に招待したいと言いやがった。断ったが聞くような柄じゃなく、恐ろしいことに枢機卿も交えてとか言い出しやがる」全く本当に反吐が出る、と殊更低声で口にしたが、真佳の耳にはばっちり聞こえた――「断り切れそうも無い上に一人で教会の人間に囲まれるのが嫌だったんで、貴様を盾役に任命した」

 めちゃくちゃ勝手なことを悪びれもせずに言われたために、すぐには言葉の意味が頭に入ってこなかった。……まあいいけど。嫌われているのだし、それくらいの対応はされて当然と言えば当然だ。

「さくらを連れてきたほうが良かったのでは?」

 ヤコブスは真佳を嫌っているし、嫌っている人間三人とテーブルを囲むよりさくらに入ってもらったほうがヤコブス的には助かる気がする。それに、任命されたところで真佳に何か気の利いたことが口に出せるとも思えない。ヤコブスに意識が向かないように話を独り占めしろということになると思うが、真佳は自分が口下手であることを自覚している。

「後で俺の正体が知れたとき、真っ先に“あれ”に矛先が向くのは避けたい」

 ……私には別に矛先が向いてもいいってことね、りょーかい……。頬を引きつらせながら視軸を前方へ移行した。男の人のまだ向こう、下草だけが申し訳程度に除草された田舎道のずっと先に、すっかり見慣れた村長宅が見えている。三日連続で来ることになるなんて、流石に村長も想定しては無かったろう……。一体どういう顔でお邪魔しようと考える。

「そういえば、私はまだ聞いてない」
 明らかにいらいらした口調で、「何だ。事情なら今話したぞ」
「そうじゃなくて、名前」

 男の人の、という意味を込めて前方に視線を投げかける。多分こちらに話しかけているのだろうと思われるスカッリア語が飛んできていたが何を話しているか分からなかったので何の反応も出来なかった。
 ヤコブスが隣で、気難しげな顔をした。

「何故貴様に教えてやらんといかん」
「盾役に任命したんでしょ……。ヤコブスの代わりにお話するんならそれなりの情報をいただいとかないと。私アドリブ利かないし」

 アドリブ、という言葉が通じるかどうか分からなかったが、どうやら言いたいことは伝わった。五百年前の異世界人は最近の日本語に通じていたらしく、日本に普及しているカタカナ語ならそれなりに通じてくれるらしいということは、ここ数ヶ月で何となくだが分かってきた。きっとカタカナ語のまま、現地の人に教えていたのではないかと思う。
 吐息と共に、ヤコブスが言った。

「……エルネストゥス」
「……エルネストゥス」

 ヤコブスよりも拙い発音で復唱してから、小首を傾げた。……聞いといてなんだが、もしかしたら覚えていられないかもしれない。カタカナの名前を覚えることは相も変わらず苦手なままだ。エルネストゥス、エルネストゥス、と覚え込ますように口の中だけで繰り返し呟いていると、ヤコブスのほうから言葉を振った。

「……あいつらの前では話を出すな」
「あいつら?」
「カタリナやトマス。ヒメカゼの前ででもいい。何にせよ、ここだけの話にしておけ。後で面倒なことになる」
「誰が?」
「俺が」

 当たり前のように言う。まあ当然真佳だって、真佳が面倒なことになるから心配して言ってくれているんだなんていう妄想は一度も抱いたことが無いけれど。

「内緒にしておいてほしいということ?」

 ヤコブスが渋い顔をした。

「恩着せがましい言い方をするな」
「だってそうとしか言えないでしょ……」少し考えたら何か適当な言葉が湧き出てくるかもしれなかったが、その前に村長の家に着いてしまいかねなかったのでそういうことにしておいた。それは多分、重要な話題ということでも無かったし。だから重要なことを考える代わりに口にした。「別に内緒にするのはいいんだけど」

 最初からそう言っといてくれれば話が早いというだけなので。何で内緒にしたいんだろうとかいう疑問はあるにはあるが、それは内緒にするにあたってさしたる問題になってくるというわけでもない。

「……けど?」
「ん?」
「けど何だ」
「何? ん? 何が?」

 ヤコブスが頬を引きつらせて、殺気すら立ち込めそうな視線でもって真佳の頭のてっぺんを物理的に見下ろした。

「貴様が言ったんだろうが……」
「言ったっけ? ほんと? 内緒にするのは問題ないよ」
「……」

 まだ言い足りなさそうな感じではあったが諦めたみたいにそこで会話を打ち切った。強めの舌打ちと、それから押し付けがましい溜息をこっちに投げてよこしながら。
 けど……のその先を仮に真佳が要求したとして、ヤコブスは応えてくれる気はあったんだろうか。だったら勿体無いことをした。もう少し友好的にしゃべりませんかみたいなことを要求してみればよかった。結局舌打ちが返ってくるだけのような気がするが。
 エルネストゥスが振り返ってぺらりとスカッリア語で何か言い、それにヤコブスが短い言語で答えるのを耳に聞いた。ヤコブスの舌打ちを聞き咎めたのかなと思ったが、それにしては口調がさっぱりしすぎているのが気にかかる。「なんて言ったの?」と問いかけると、非常に面倒臭そうな顔をしながら「村長の家にある香茶の種類について薀蓄をたれただけだ。どうでもいいと一蹴した」一蹴したと言っておきながら、エルネストゥスはまだ話し続けているような。多分今のエルネストゥスの話は全く聞いていないんだろう。

「異界語で話せ。訳すのが面倒くさい」

 真佳に語りかけるよりも高い声音でヤコブスが口を出したので、滔々と流れていた聞き取れないエルネストゥスの話が一瞬そこで閉じられた。きょとんとした顔で振り返って、タレ目がちの緑目で昔の知り合いだというヤコブスの顔を観察してから、続いて控えめに視軸が真佳に移動した。

「驚いた。律儀に訳していたのかい? ちょっと見ない間に随分世話焼きになったねぇ、ヤコブスは」

 からからと笑ってエルネストゥスが口にした。ヤコブスは面倒臭そうに舌を打ってあらぬ方向へ適当に視線を投げただけで、返答らしい返答はそれだけだったが、エルネストゥスは不満は口にしなかった。

「すまない、異界語を使う民族の子だったのかな。スカッリア語を話せないくらい異界語に浸かってる子には今まで出会ったことがなくて……」

 申し訳なさげに後頭部を掻いてから、

「エルネストゥスって言うんだ。よろしくね、えーっと」
「真佳です。真佳で大丈夫です」

 くしゃっと笑って、「マナカ。よろしくね」歩きながら右手を差し出されたので、条件反射でこちらも右手を差し出してから握手した。肉刺の無い、大きな男の人の手だ。服装どおり、やっぱり行政部の人間で間違いないと思われる。
 ヤコブスがとても嫌そうな顔をするので一体どういう種類の人なのだろうと思ったが、人の良さそうな好青年という印象しか真佳の心には湧いてこない。もしかしたらあの面倒臭そうな対応は真佳やエルネストゥスに対してだけのものではなく、ヤコブスの一般的な反応というやつなのかもしれなかった、と考えた。

「すごく可愛い女の子じゃないか」

 とエルネストゥスが口にした。

「枢機卿のもとへ会いにも来なかったのはこれが原因か? 枢機卿がいらっしゃるということくらいは、君も耳にはしてるんだろう?」

 舌打ち。どうやら答える気は無いらしい。
 ヤコブスの事情を、エルネストゥスは知らないんだとそこで真佳は気がついた。ヤコブスが新教の人間であるということを知っていれば、きっとそんな話にはなっていない。旧教の人間だと信じているから、枢機卿に会いたいと思って当たり前だという、そういう思考に至るのだ。
 隣を歩くヤコブスの横顔を盗み見た。昔の知り合い、と言っていたが、どこまで昔の知り合いなのかまで真佳は直接聞いていない。

「……エルネストゥスさんって」噛みそうになった。「ヤコブスとはいつからの……?」

 ヤコブスが横目で睥睨してきたが、彼が何らかの言葉を発するよりもエルネストゥスがそれに答えるほうが早かった。

「強いて言うなら、生まれたときからってことになるのかな。同じ村の生まれなんだ。つまり、ここって意味だけど」

 フォスタータに……と、口の中だけで呟いた。隣を伺うと、ヤコブスが露骨に、余計なことを言いやがってという顔をしている。真佳かエルネストゥス、どちらに対してだろうと思いながらそっと見なかったことにした。

「無愛想だろう? 昔っからずっとこんなでねぇ、君に酷い態度をとっていないといいんだけど」
「いや、別に……それほどでは」

 あまりにもあっけらかんとエルネストゥスがヤコブスのことを語るので、目を白黒させながらとても曖昧なことを言ってしまった。今ではヤコブスは人を視線だけで射殺さんばかりの目をしているのだけれど、エルネストゥスはそれには気付いていないらしい。ヤコブスに背中を向けているから気付かないのか、それにしてもこれほどの殺気なら気付いて振り返っても良さそうなものだが。

「……えーっと、今は……教会で働いてらっしゃる……んですよね、多分」

 何とか話題を逸らしたかったので思いついた別の話題を特に考えずに口にすると、エルネストゥスは実にあっさりと「そうだよ」そちらの話題に飛びついた。

「驚いて聞いてほしいんだけど、なんと枢機卿のお供を任されているんだ! これから枢機卿のご実家まで、僕を含めた数名の教会従事者が付き添いをさせていただくことになってる。さて……」

 木で出来た古い一軒家の前で立ち止まって、エルネストゥスは真佳に対し、手のひらでもって扉を示した。どこの教会で働いているのかは知らないが、その所作は実に優雅で、自然的であったと考える。

「続きは家の中で、緩く香茶でも飲みながら。どうぞ、シニョリーナ。ご案内いたしましょう」

 気負わない態度でそう言われて、慣れていない応対にちょっぴり慌てふためいた。

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