「助けてマクシミリアヌス」

 開いたページを凝視しながら真佳は言った。よく見慣れた言語が横書きにずらっと並んだスカッリア国の本で、五百年前の異世界人は縦書きという文化を彼らに教えこまなかったのか、或いは製造過程の関係で仕方なしに横書きで綴ることになったのか、そこはそこで不明ではあるが今助けてもらいたいのはそこではない。
 真佳の対面で食後のエスプレッソを飲みながらマクシミリアヌスが緑の双眼をぱちくりさせた。この巨漢中佐、割とブラックでも飲めそうな顔をしているくせに、砂糖とミルクはたっぷり入れる。

「人の名前が多すぎて誰が誰だか分からない」
「聖書を読んでそこで躓く人間を俺は見たことがないぞ……」

 渋い顔をしながらまたエスプレッソを一舐めした。暇すぎることと、それからさくらの勧めもあったことで早速一冊借りて読んでみることにしたのだが、真佳の嫌な予感が普通に的中してしまって先に進めなくなったのだ。ダコスとかいうのは一体誰なんだ。一ページ目に遡って探している間に時間が過ぎる。やっとのことで見つけると、またぞろ知らない名前が綴られる。

「うっそでしょ。名前を把握してないと先に進めないでしょ」
「一度で理解すべきものでもないからな。二度、三度と繰り返すうちに深奥に到れるというものよ」
「無理でしょー! そんな悠長なこと言ってられないでしょ! まず一回目が読めないんだから!」
「一度に覚えようとしすぎなのではないか?」
「でないと物語が頭に入ってこないんですよー!」

 言い合っていると横のほうでトマスがぽつりと呟いた。「そもそも物語として見るもんじゃありやせんからねぇ」
 夕食後、全員特に何もすることが無いために相も変わらず食堂で駄弁っているのだ。ヤコブスだけは頑なに、共の席に着く気も無いのか夕食後すぐに二階へ上がっていってしまったが、ほかの面子はここにいる。エスプレッソを嗜んだり、明日の打ち合わせなどをしたりして。今回の落石撤去作業で救われた点があるとすれば、撤去作業に赴いているマクシミリアヌス、カタリナ、トマス、フゴ、グイドの五人がそれなりに普通に喋れるレベルまで慣れてくれたことだろう。宗教の違いという小さからぬ壁があるにせよ、それ以外の場面ではお互いに目を瞑って良好な協力関係を構築している。無条件にいがみ合う関係では無くなってきたということだ。

「マクシミリアヌス。やっぱり手押し車はもう一台くらいは必要だよ。村にある一台だけじゃ、効率が悪いったらない」
「今から作るのか? 一朝一夕で作れるような代物ではないぞ」
「ちゃんとしたのじゃなくてもさ、岩を運んでも問題ないくらいの……あー、いや、岩を運んでも問題ないくらいだったらちゃんとしたのじゃなくちゃ駄目か……」

 うーんと呻きながら顎に手を当てて、目の前に置かれたエスプレッソのカップをスプーンでもってかき回す。カタリナの思い悩んでいるその様子に、トマスが対面から口を挟んだ。こっちも食後のエスプレッソをさっきからちびちび舐めている。

「二手に分かれやすかい? 人手は減るが、後々のことを考えるといい考えかもしれやせんぜ」

 マクシミリアヌスが真佳の隣で不満げな呻き声を漏らしたが、それはどうやら彼ら彼女らには聞こえなかった。多分マクシミリアヌス自身、ガプサの連中と何でもない話をすることに据わりの悪さを感じてはいるんだろう。

「まあ、それが建設的だろう……。俺も手押し車があれしか無いのには心もとなさを感じていたところだ。増やすと言うのなら、作成班と撤去班に分かれて事を成すべきだろう」
Va bene(ヴァ・ベーネ)。じゃ、明日村の人たちにはあたしから伝えるよ。作るにしても材料とかもろもろ、村の人たちに協力を仰がないとどうにも出来ないからね」

 そう言ってエスプレッソをぐいと一息で飲み干した。実に平和だ。共同作業をするとビジネスライクでも信頼は生まれるものなのだなあと考える。

「さくらは躓かなかったの?」
「何が?」
「最初の名前の列挙」
 溜息を吐いて返された――「私もマクシミリアヌス同様、物語として見てないもの」

 ……そういえばこいつ、中学生になって日本に転校してくるまではアメリカかどこかにいたんだった。当然キリスト教が主流の文化圏らしく、聖書というものにもそれなりに慣れ親しんで来たんだろう。この界隈で真佳の味方は一人もいないということだ。

「一から読んでいく、という作法も無いんですよ」

 と、横から“糸目”のフゴがそう言った。隣のテーブルから、エスプレッソの注がれたカップを片手にこちらに視線を投じている。

「これというページを選んで、その章や節を読んでいくというのもあります。一種の占いのようなものですね。或いは、その時々に合ったものを読んでいくとか」
「合ったもの」
「安らぎが欲しいときにはこの聖句を、という具合に。これという規則は無いので、アキカゼさんの好きなように読んで構わないんですよ」
「へえ……」

 手元の聖書に視線を落とす。そんな自由度の高いものだとは思わなかった。もっとがちがちの雁字搦めで読まなければいけないものだと。逆に後ろから読んでいったほうが、冒頭の名前の列挙にも対応できるようになるかもしれない。そう考えると若干気は楽になる。

「教会でも、その日に合った章を司祭が抜擢して朗読する」

 真佳の対面で、マクシミリアヌスが口にした。

「皆その箇所を聖書で引いて朗読に耳を傾けるのだ。――意外だな。ガプサの人間にそういった読み方を勧められる人間がいるとは」

 関心というよりは睥睨に近い視軸を斜め前方から突き刺されて、フゴは若干慌てたようにカップを持っていない左手を振った。

「いやっ、そういう読み方はガプサにもあるっていうか、俺はもともと旧教の出で――」

 言ってから、しまったというようなあからさまな顔をして口を閉じた。中途半端なところで途切れた話題が微妙な沈黙を運んできて、次にどういう反応をすればいいのかということが上手く頭に思い浮かばずにただ間抜けに時を過ごしてしまった。

「ふん」

 と鼻で笑ったのは、マクシミリアヌスだ――

「どうでも良いがな。何にせよ、マナカがこの国の成り立ちに興味を抱いて聖書を勉強してくれるのならこれより喜ばしいことは無い。何なら典礼に行くのでも良いぞ! 無論、この村以外の場所で、という意味になろうが」

 最後は少しだけ声を落としてそう言った。マクシミリアヌスとしては、そりゃあどっちかと言うと正規の教会で初の典礼とやらを受けて欲しいと思うだろう。ここの事情は置いといて――。
 フゴとガプサの面々が、あからさまにほっとしたような顔をした。
 そういう気遣いも出来るんじゃないか、と、真佳は感心半分に考える。

「まあー……一応お世話になってるから行ってもいいけど」

 多分半分くらい意味は分からないんじゃないかな、と付け足すと、何、そんなこと、と意外なくらい清々しい声でマクシミリアヌスが呟いた。

「神に拝する心持ちがあれば良いのだ。真摯に誠実に述べられる告解に、貴賤も何も無いのだからな」

 頭をぽんと撫でられる。いつも荒削りの岩みたいな荒っぽさを見せるその声があまりに穏やかで廉直で、そういう声をすると本当に教会関係者みたいだな、と、本人に言ったら不服を唱えられそうなことを至極真面目に思考する。彼の抱く猛烈な炎の中に篤実な緑樹があることを、無論真佳は理解しているつもりであった。

「じゃ、それで引用された箇所を足がかりにまた挑戦してみるよ」聖書の小口を指でなぞりながら、「その時はまた、ご教授よろしくお願いします」

 照れくさくなって、最後は少し茶化すみたいに口にした。



聖書の手引き

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