もう何年前になるのも判然としない。この村に生まれてきた時点で村の人間は皆その人間にとっての家族であって、何年来の付き合いかということを真剣に考えることのほうが馬鹿馬鹿しいのかもしれないと、唇の端で短くなった煙草を引っ掛けながらヤコブス・アルベルティは考えた。
 エルネストゥスを含めた村での出来事については、今でもよく覚えている。エルネストゥスはヤコブスより二、三歳ほど生まれてくるのが早かった。最初はヤコブスの兄役を気取ったが、ある一定時期からそんな関係も無くなって、友人に近い兄弟のような間柄になっていたのだと思う。成人近くになると自分たち以上に年かさの人間が見当たらなくなったために、一時期は二人で未成年児の兄役を務めたこともあった。その頃から周囲の空気を読むのがすこぶる下手で、鈍感で不器用で鬱陶しいくらいに純朴だった。

 ――そうだ、村長の家においでよ。

 去り際、エルネストゥスがヤコブスに向かって名案を思いついたみたいな態で呟いた。自分は今仕事中なので、ここでそう長く昔話に花を咲かせている時間は無いのだという。ヤコブスはその時、あまり話を聞いていなかったように思われる。昔からの顔なじみが教会関係者になっていたという衝撃を、受け止めるだけの時間が要った。

 ――飲み物くらいはご馳走しよう。ほかにも客人はよく来るんだ。昨日も修道女の一人が客を呼ぶのを許されていてね。枢機卿はお優しいから、僕の申し出にもきっと快諾してくださるよ。了承をもらえたら伝えに行こう。教会にいるんだろう? 客人は皆そちらにいると聞いてるよ。楽しみだな! なにせ十八年間の昔話だ! 君が村から出た後、どうしていたかも気になるし、それにほら、僕にもいろいろあったんだ。久しぶりに話すのが楽しみだよ!

 ――滔々と述べられるそれを、ヤコブスは顔面の表皮でもって投げられるがままに受け流した。勿論枢機卿の近隣になど行くつもりは無い。エルネストゥスは知らないが、今のヤコブスは教会と真っ向から敵対するべき属性に属す人間だ。そうでなくとも、かつての村の人間にわざわざ会いに行くつもりもさらさら無い。村を出た瞬間に、自分の出生は捨ててきた。
 村長の家へ足早に帰っていくその後姿を見守ったまま、樹幹に背をこすりつけた状態で煙草の煙を吐き出した。短くなった煙草をつまんで火先を指でもみ消して、タスカ(ポケット)の中に仕舞い込む。
 ……了承を得たら伝えに来ると言っていたな……。
 苦々しい溜息が喉の奥から零れ出た。あいつは全く、十八年経っても人の顔色を伺うことすらしやしない。枢機卿のお付きだと? よくもそんな役回りがあいつに巡ってきたものだ。俺だったらあいつに四六時中付き従われるなど金を積まれても御免こうむる。
 嫌な懐かしさすら感じる濃い新緑の匂いを肺一杯に吸い込んで、もう一度だけ吐息した。
 あいつがやってくる前に撤去作業が終わってくれれば、これ以上ないくらい幸福なことなのだが。


クーラ・アックア


「あれ、珍しい。どこか行ってたんだ、ヤコブス。観念して知り合いのところでも訪ねたのかい?」

 ――宿に帰ってきてから早々に顔を突き合わせることになったカタリナに一瞬思考が停止した。それほど長い時間外にいた感覚は無かったが、どうやらあれからこいつらが帰ってくる時間帯までずっと森で思考を巡らせていたらしいとその時漸く自覚した。――いつかはカタリナと対面することは無論避けられないと覚悟を決めていたとは言え、実際対面してみると気の利いた言葉の一つも口の端からは出てこない。
 カタリナは覚えていないだろうが、こいつだってこの村の出身なのだから、エルネストゥスと接点くらいは幾度となくあったことをヤコブスのほうは記憶している。未成年児は未成年児の最年長がまとめて面倒を見ることが、いつからあったか知らないがこの村のしきたりみたいなものだった。ヤコブスやエルネストゥスにとって、カタリナはいわば年の離れた妹だ。そういった血の繋がらない弟や妹が、ヤコブスやエルネストゥスには多くいる。彼らもヤコブスの知らない場所で、この十八年という時間をどこかで生きていたに違いない。多くはこの村に留まっていると思ったし、だからこそ外に出かけることを避け続けていたのだが。

「あれ、本当にいなかったんだ」

 一拍遅れて食堂の戸口からひょっこりと顔を出したマナカがカタリナと同じようなことを言う。……こいつの存在で自分が助かったと考える日が来るとは思わなかった。人見知りを豪語しておきながら邪険にしても躊躇なくひっついてくる厄介者。しかし今回ばかりは間が持った。マナカが現れたことでカタリナの視軸がそちらを向いた。

「あたしもびっくりしたよ。外に出る気が全くないと思っていたからさ。このまま本当に最後まで引きこもっちゃったらどうしようかとさ」
「引きこもっても人は死なないから大丈夫だよ」
「それは不健康な人間の言い分だ。マナカもたまには朝早く起きて、お日様の光を浴びることだね。一日の始まりが全く違うものになるからさ」
「…………起きようとは思っているんだよ」

 ぼそぼそと言い訳じみたことを口にした。どうやら引き下がったようだ。起きようと思っていながら昼まで寝てる人間をヤコブスは今まで見たことがない。

「上に行く。教会の犬も帰ってきているんだろう。顔を合わせたくないからな」

 マナカに負けず劣らずぼそぼそと低声でその三言だけを口にして、カタリナの脇をすり抜けた。階段の段差に足をかける。

「あっ、待ちなよ、どこへ行ってたかぐらい教えていきなよぅ」

 カタリナがぶうたれた声を出したが、気にもせずに階段を上がった。そもそもこいつにエルネストゥスのことを話したくないというのが本音だったので、その話にこれ以上付き合う気は毛頭無い。覚えていないだろうと思うので確率は低いが、軽率に会いに行くなどと言い出されてはこちらも困る。
 ……舌打ちをした。エルネストゥスがこちらに来ると宣言しているのだった。そちらのほうはどうするか。

「ヤコブス」

 カタリナとは違う女の声が肩にかかって、つい反射的に顔半分だけ振り向けた。階段の手すりに前腕を乗せてこちらを仰ぎ見ている人物と、目が合った。
 その赤い双眸が何もかもを見透かすような目をしていたことにぎくりとして、そんな自分が鬱陶しかったために反射的に睥睨したが女はびくともしなかった。背を向けて、改めて足を動かした。

「あっ、用があるから呼んだのに」
「俺には無い。貴様にはあろうとも」

 かなり突き放した言い方をしたのだが、「ヤコブスの用なのに。もー」階下からはぶうたれたような呟きが漏れ聞こえてきただけで、怒った素振りも凝りた様子も見られない。……さっきとは別の意味合いで深い溜息が飛び出した。これでもまだ自分に話しかける気のある女が存在しているとは思わなかった。一体どういう精神構造をしているのか、一度頭の中を開けて中身を見てみたい気すらする。これもまた、此度の旅路の頭の痛いところであった。
 エルネストゥスは恐らく、カタリナが出発する頃合いには出てこないだろう。朝方に他家を訪問する非常識さは流石に備わってないだろうということを仮定して。やって来るなら、カタリナが出た昼以降――昼に来るなら問題は無い。基本ここにはヤコブスとサクラと、おまけに赤目の女しか存在しない。問題はカタリナが帰ってくる夕方以降に来た場合だが……。
 舌打ちした。
 宿舎だけを警戒して、あんな場所で突っ立っていた自分自身に対してだ。

「ああ、面倒なことになった……」

 翌朝目が覚めた時、エルネストゥスが頭でも打って記憶喪失になってくれやしないものか、と、この時本気で考えた。

■ □ ■


 俺には用は無い、だってさ。親切心で声をかけたのに。そりゃあ嫌われている自信はあったし、邪険にされるという可能性もあるだろうなとは思っていたが。

「せっかく渡そうと思ったのに……」

 親切心だぞこれは。何度も言うが。手のひらに握った長方形のプレートを、改めて力を入れて握り込む。ふーん。そっちがその気なら別にいーもん。

「何を渡そうと思ったって?」
「ひゃ」

 真横から飛んできた話し声に思わず悲鳴が飛び出した。木板の渡された古い階段のその先だけを睨みつけて唇を尖らせていたのだが、そう言えばここには真佳一人だったわけではない。

「や……何も。別に何も」

 危うさを感じて半ば故意に視線を逃すと、覗き込むようにカタリナの金目がそれを追ってきた。右側に視軸を逃してさらに抵抗。意外にもと言うかありがたいことにと言うか、カタリナはそれ以上追求する気は無いらしく、「ふうん」と鼻で吐息しながら素直に頭を引っ込めた。

「花束でも渡してくれるのかなと思ったのに」
「花束て……」
「割と本気だよ? あんたから歩み寄ってくれるのなら手っ取り早い。何せうちの大将が自分から仲良くしようとするだなんて、まかり間違ってもあり得ないじゃないか」
「花束で釣れるの?」
「……」真佳と並んで階段の手すりに頬杖をつきながら、真剣に考えるだけの間を置いて。「……無いね。無かった。さっきの言葉は忘れていいよ」

 多分、そこまで考えるまでもなくあり得ないことだと思うのだけど、というツッコミは実際口にはしなかった。
 手すりの上に両腕を重ねてその上に顎を固定しつつ、上目遣いで階上を見上げて考える。まあ、でも、確かに必要以上に嫌われているような気がしないでもない……。いや、まあ確かに、好かれる性格をしているつもりも無いけれど。

「……せめてこの旅の間だけでもそれなりに接してはくれないものかとは思ってますよ」

 応じてくれるかどうかは別として。だって一応、少しの間だけでも一緒に旅を続ける仲間なのだ。何かあったとき、意思の疎通が滞ったままだと絶対に何らかの支障が起きる。それはヤコブスも重々承知しているとは思うのだが。

「あたしの意見はさっき言ったとおりだよ。あんたから歩み寄ってくれるのなら手っ取り早い。何ならあたしも力を貸そう。あの強情っぱりを、あたし一人がどうこうできるとは思えないけどね」

 茶目っ気を含んで言われたそれに、何も解決したわけでは無いのに不思議と頬が綻んだ。全く話を聞こうとしないヤコブスを相手に、自分一人でどうこうしなければいけないわけではないのだ、という安心感から来たものかもしれない。自分にも味方はいるのだ、という。それもヤコブス陣営の、心強いお仲間が。

「ありがとう。頼りにしてる」

 ひとまずはこのプレートを手渡す機会を、もう一度だけ見極めよう。つむじを曲げるのは、多分それからでもいい気がする。

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