宿へ戻ったとき、多分偶然にだがさくらと玄関先でかち合った。玄関からすぐそこが上階へ上がる階段になっているので、別段珍しいことでもない。二階に真佳たちが借りている寝室があり、一階にシスターの私室と、それから食堂が備わっている。

「もう帰ってきたの?」

 というのはさくらの側から発せられた。
 もう、というのは心外だなあというようなことを考える。森を歩き回ったりいろいろあったが、それでもまだ夕方とは言えない日差しがずっと地表を照らしてる。

「夕飯をご馳走になったほうがよかった?」
「そういうわけでも無いけれど――」

 真佳の開けた片扉の奥(というのはつまり外のことになるわけだけど――)を見て、「ああ、そうか」とさくらは小さく呟いた。

「数時間しか経ってないのだと思った。もう昼も終わりに差し掛かっているのか」

 ……って。
 さくらの顔をじっとりと、普段さくらがこういうとき、真佳に対してそうするみたいに凝視した。

「さくらだって人のことを言えないんじゃないか。お昼ご飯はどうしたんだよ」
「いいのよ、別に。一食くらい」
「私にはあんなに食べろ食べろうるさいくせに……」
「アンタは昼も夜も抜くからよ。朝ご飯なんて食べてる日のほうが珍しいでしょうに」
「うっ……」

 そう言われると確かにこちらが負けるしか無いのだが……。
 何か釈然としないものを感じつつも、どうしようもないのでこの件は脇にうっちゃっておくことにした。

「そんなに熱心に何してたのぅ……? 本?」
「聖書。なかなかに面白かったから」
「読み終えた?」
「まだね。派生がほかにもあるみたい。何々への手紙とか何とか……。そっちはあれには載っていなかったから、スッドマーレから持ってきたもので読み終えたとは言えないんじゃないかしら」
「ふうん……作者は随分熱心な宗教家なんだ」
「宗教家ってそういうものじゃない?」

 ……む。そういうものかも。熱意の無い宗教家って、そもそも宗教家にはなっていないものかもしれない。首都、ペシェチエーロで出会った一人の治安部隊員を想起する。金髪に氷みたいに薄いアイスブルーの双眼を有したマリピエロというこの男は、教会に勤めていながら娯楽と怠惰とを共に愛する、不信心を当たり前みたいに口にするような男であった――彼みたいな男が宗教家になるのが想像出来ないように、熱意の無い宗教家という言の葉も、虚ろに消える言葉遊びのようなものなのだろう。
 さて、スッドマーレから持ってきたもの、ということは……。

「昨日読んでたほうとは違うんだね」

 事実確認みたいな声で呟いた。港町、スッドマーレからさくらが貰い受けたのは最初から最後まで異界語で書かれた聖書であって、宿のベッド脇のミニチェストに備え付けられているようなものとは当然のことながら別物だ。さくらが昨日読んでいたのは、確かにスカッリア語の書物であった。

「挑戦してみたのよ、この国の言葉を。昨日はね」

 あっさりと言うのに仄かに嫉妬を覚えなくも……。それなりの頭脳があるからこそ、見知らぬ言語に臆することなく“挑戦”などという言葉が言えるのだ。

「大体意味合いは読んで分かっているから、それなりに読めるんじゃないかと思ったんだけど」
「少なくとも傍目には普通に読んでるように映ったよ」

 素直にそう言うと、さくらは悪戯っぽい顔で小さく笑った。まるで悪戯が成功でもしたような……。整った顔立ちの女にそういう表情をされると、特に理由は無くとも人はときめいてしまうものなのでやめてほしい。

「そういうふうに見えたのなら上々ね。実際、細かい単語の意味は分からなかったけれど、大筋を理解は出来たわよ?」

 どことなく自慢げにそう言われてしまうと嫉妬の浮かぶ隙も無い。それはただ単純に、誇らしさをすら感じる少女のそれであったので。

「どちらにしたって読めているなら羨ましい。私もそろそろ本が読みたいー」

 恨めしげな声を作って言った。周りに告白すると意外だと驚かれることが大半なのだけれど、真佳の趣味は何と言ったって読書なのだ。活字というものに貪欲過ぎて、読むものがなくなると辞書や百科事典に手を出した。多分そういう人間は、そう少なくないと思うのだけど。
 この世界に来てからもう二ヶ月になろうとしているが、その間全く活字というのを読めていない。最初のころは単純にその余裕が無かったからだが、この暇が暇を呼び暇の三乗みたいになっている状況下では活字発作がよく起きる。

「異界語版の聖書ならあるから、いつでも持ってっていいのに」
「うーん……」

 もうそれでいいか。活字不足は深刻だ。元の世界で聖書というものに手を出したときは、序盤に人名が呆れるくらい羅列されていた時点で覚えきれなくなって諦めた(それでなくともカタカナの名前は覚えにくい)。しかしまあ、これ以上暇が続くのならばそういう苦手意識に蓋をして手にしてみるのもいいかもしれない――こっちの聖書は元の世界のそれと違っているかもしれないし。

「そうする。どうしようもないときは貸してほしい」
「いいわよ。私はもう読み終えているから」

 覚えておく、と頷いて、もしものときの枠内に今の話を保存した。社交辞令を言い合う関係でも無いので、これは本気の返答だ。

「さくらは何しに降りてきたの?」

 さっきの様子だと、遅めのご飯を食べに来たわけでも無さそうだ。思いつきそうも無かったので少しも考えずに条件反射的に尋ねると、飲み物をね、とさくらは言った。

「喉が乾いてきたものだから。お腹が空いた感じはしないのにね」

 と言って小さく笑った。銀の双眸が細められて、まるで猫みたいだと真佳は思う。何もかもをも見通しているかのような猫の宝石みたいな双眼が、真佳は割と嫌いではない。

「じゃあ私も。何か入れてから上に上がる」

 口にしてから、さくらの後を追ってった。


ドルチェ×ドルチェ


 咥えた煙草の先に火を灯す。煙草の側面に刻まれた魔術式から指を外して、ヤコブスは煙草の煙と共に小さく小さく吐息した。何も見つからなかったな。まあ、未だにあんなところに何かがあるとは流石に期待はしていない。ほとんど道楽と暇つぶしでもって森に捜索をかけたのであって、落胆するのもおこがましい。

(とはいえ、あれがあれば少なくとも現状の疑問点に一つ終止符がつけられたはずだったのだが)

 ……これも道楽。必ず終わらせなければならないような謎でも無い。国の異端者なんかをやっているのだから楽天家ではいられないという、その一点に尽きるだけ。不明点があるのなら調査しそれが危険を伴わないものかどうかを見極める。でなければ到底安心など出来はしない、というのが、ヤコブス・アルベルティの性質だ。

(尤も、これが危険を運んでくる元凶だとも思えないが……)

 故に――探索に踏み出したのも思考するのも道楽であると記述する。危険などあり得るはずがない。少なくとも、この村から出る時までは。……それでもこうして、気にかかってしまうのは一体どういう了見だろうと、煙草を吹かしながら流れる雲を睨みつけながら考える。

(らしくもなく警戒線が許容量を超えてるのか。十中八九この村にいるのが原因なのは明瞭だが、おかげで細かいことを見逃しているような気もするこの感覚はどうにも……)

 慣れないな。
 心の中で呟いて、背中を預けていた樹幹から体を離すことにした。目当てのものが見当たらなかった探索場所から少し北へ行ったところで、村人共有のボロい倉庫がヤコブスの体をうまいぐあいに隠してくれる。誰かに見られては都合が悪いというわけでは決して無いが、誰にも見られないのなら見られないでそれに越したことは無い。知りたがりのガキがごくごく近くにいるためだ。

「ヤコブス……?」

 体をうまいぐあいに隠してくれる――という安堵感から生まれていた油断が、思考回路と一緒にその時瞬時に凍りついた。考えてみれば当然のことで、宿舎からなら身を隠してくれるこのオンボロの倉庫はしかし、それ以外からも同様に身を隠してくれるわけではない――ということに気が付くまでに随分の数の動悸を経た。知らない声だ。少なくとも今回の旅のメンブロ(メンバー)の声などでは決して無い。ヤコブスと同等か、あるいはそれより年齢が上の男の声だった。
 振り返る。温和そうな緑目と清潔感のある黒髪くらいしか特徴の無い、至って平凡な男であった。人違いを貫くことも考えたのだが、ヤコブスが相手を観察している隙間に相手もこちらを注視していたに違いなく、ヤコブスが反応を起こすより先に表情を明るくしてから口にした。

「やっぱり! ヤコブス・アルベルティだろう、十八年前に村を出た!」

 感極まっていると判断したときには既に両手を握られて、無理やり握手をされていた。反応する隙も与えない。鈍感なやつだと眉を潜めて考えて、それに記憶の隅を突かれた。
 特徴の無い外見、空気を読めそうもない鈍感さ、それを上回るほどの、村育ち故の純朴さ――十八年前はヤコブスのほうがこいつを見上げる立場であった気がするが、この十八年でヤコブスも随分と背が伸びた。今は二、三センチほどの差に縮まっている。それでも未だ敵わないのが癪ではあるが――

「エルネストゥス……か……」

 呟いた声はほとんど反射的なものだった。エルネストゥスが瞬時に頬を綻ばして、「ああ、覚えていてくれて嬉しいよ」人懐っこい顔で首肯した。
 随分垢抜けた服装をしている、と観察しているさなかに気が付いていた。パンチョット(ベスト)と揃いの色合いをしたパンタローネ(ズボン)にカミーチャ(ワイシャツ)という出で立ちで、パンチョット(ベスト)とパンタローネ(ズボン)の色合いを変えたりパンチョット(ベスト)を省略したりといった外れ者の風体は呈していない。カミーチャ(ワイシャツ)のボットーネ(ボタン)も第一まで閉じられていた。十八年前のこいつも、そういった様相であっただろうかと考える。

「もう村には戻らないと思っていた。どういう風の吹き回しだい?」

 まるで当時のあの頃のように屈託なく口にするエルネストゥスに内心ひどく戸惑いながらも、「ああ……」とヤコブスは口にした。(……あの頃もそうであったが、こいつは本当に人のスパッツィオ・ペルソナーレ(パーソナルスペース)というものを気にしない。それが人を引きつける要因でもあり、また、人に疎まれる原因であったと記憶している)。

「道中寄っただけだ。すぐ立ち去る」
「あの崖の落石だね」

 訳知り顔でエルネストゥスは頷いた。村の人間も当然把握しているものと思っていたので、それについてヤコブスは特段違和感を覚えない。

「落石が撤去されたらすぐにでも出るのかい?」
「そのつもりだ」

 もとよりこんなところ、立ち去る予定も心算もなかった。エルネストゥスに対して向ける言葉ではなかったので、それは胸の裡に閉まったが。もともとの話、誰に対してもわざわざ引っ張り出して愚痴っぽく口にするようなことでも無い。そんなものは井戸端会議中のご婦人方の役割だ。

「良かった! じゃあ一緒になるかもしれないね」

 声を明るくして言われた言葉に「……?」あからさまに怪訝な顔で応答を返すことになる。エルネストゥスはこの村の出身だ。当然落石撤去が行われれば、後腐れなくここでお別れ――だと、思っていた。

「枢機卿、いらっしゃるだろう? そのお供の一人を仰せつかっていてね。あ、君が出てから、教会行政棟で働くようになったんだ。だから作業が終わったら、僕も出立。いつまでいられるか分からないけど、久しぶりに長く話せるかもしれないね」

 ――邪気も屈託も無い顔色で、にこにこにこにこ笑って言った。

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