帰ってきたマクシミリアヌスは殊のほか上機嫌であった。

「いや、まっこと不思議な話と言えよう! 教会すら知らぬこの土地で、まさか枢機卿にお目にかかれるとは! 神のご意思が働いたとしか思えんな、これぞご意思と言わず何と言おう!」

 ――酒気は帯びてはいないはずなのに終始この有様で、真佳はともかくヤコブスやカタリナはあっさりマクシミリアヌスとの空間を放棄した――と思考しているうちに、糸目のフゴまでもが部屋を辞していくのを見守ってしまう破目になる。もっと早々に自分も部屋に帰ればよかったと気が付いたときにはもう遅く、今この場にはマクシミリアヌスと真佳、さくら、それに“大鼻”トマスと――あっちくしょう、いつの間にやら“樽腹”グイドまでいやしない。一体いつの間に、どこに消えていったのか。

「案外付き合いがいいんですねぇ、マナカさん」

 マクシミリアヌスにぎりぎり聞こえないような声量で、“大鼻”トマスににやにや顔で告げられた。真佳が付き合いが良いのだとしたらキミはどうなんだとトマスを睨むことにする。
 灰を被ったような色合いの髪を持った、ニックネームとおり大きな鼻の持ち主で、真佳はこのガプサの男の正確な年齢をまだ知らない。一見すると壮年のようにも見えるのだけど、新聞記者が軒並み持っていそうな抜け目の無さを感じる黒の瞳には、同時に夢見る青年がそうするように炯々とした光を宿すことがままあって、そうすると目の前の青年が幾つくらい年上なのかの判断が、いとも簡単に鈍らされてしまうのだった。聞いたところでこの真佳やさくらより少し背が高いくらいの小男が素直に教えてくれるはずもなく、「マナカさんより年上なのは確かでさあ。オレァそんな青春みたいなことはできませんもんで」――とかいうふうな話でもって話題をずらされるのが常だった。何でそこまで頑なに教えてくれないのかは不明だが。
 トマスのほうこそ付き合いがいいんだな、と真佳は言いたかったが、当然のようにジャミングされた。

「教会のことは枢機卿もよそに話すつもりは無いと聞いている。正式な教会ではなくとも、同じ神を同じ解釈で信仰する者同士、そこに神に対する錯誤は存在しないだろうというご判断だ。であるならば、俺も無理に誰かに伝える必要もあるまい。肩の荷がおりたとはまさにこのことだな!」

 ヤコブスがいたら噛みつかれそうなことを興奮のまま述べ立てることに一瞬肝を冷やしたが、トマスはどうやら知らぬ存ぜぬを貫き通すつもりらしい。涼しい顔で食後のエスプレッソに口をつけるトマスの横顔を一瞥してからほっとした。夕食は枢機卿のもとで世話になったと、マクシミリアヌスからは聞いている。
 枢機卿にそこまで崇敬の念を抱けるほどの何かがあるのか、この世界に来てまだまだ日の浅い真佳にはよく分からない。分からないが、旧教が正当なものであり新教は邪道なのだという無意識下の認識をああして憚りなく口にしてしまうくらい、マクシミリアヌスにとってはきっと重大な人物なのだろうという予想は出来た。それをヤコブスは階級社会だ何だと一笑に付すかもしれないが。
 枢機卿に真佳が初めて会ったのは、今から一ヶ月ほどは前になる。
 祭りの真っ只中だった首都ペシェチエーロにて、真佳が殺し屋に命を狙われる事態に陥り、殺し屋自体は迎撃したものの殺しを依頼した張本人が未だ不明確だということで、フレデリクス・デ・マッキ枢機卿直々に外に出るなと言い渡された。マナカ嬢、とその時はそんなふうなこしょばゆい敬称で呼ばれていたような……。いい意味で、昨夜会った枢機卿は本当にただの“おじいちゃん”そのものだという認識を強くする。

「枢機卿、また来てほしいって?」

 マクシミリアヌスに、という意味で尋ねたのだが、どうやら意味を誤解されたらしかった。食い気味の「ああ、勿論だとも!」に連なるように、この巨木のような大男は次なる言葉を紡ぎ出す。

「随分暇を持て余しているとのことでな。君も昼間行ったんだろう? 侍女の客だったから差し控えたが、今度は自分の客として是非来てほしいと再三――」
「げっ……」

 自然視軸はトマスの側を向いている。枢機卿に関わるなと口にしたのはトマスの頭領たるヤコブスだ。自分の言い方も悪かったが、そこまで躊躇いなく口にしなくてもいいじゃないか。絶対ヤコブスに報告される――。
 トマスが肩を竦めたことを目に留めた。

「どうせ期待はしてやしませんよ。マナカさんやそこの中佐に対して自分の発言力が無いことくらいとっくに理解してまさあ」

 ……当然のように言い切られて、「はは……」ほっとするよりも片頬が見事に引き攣った。ちくしょう。割と見つからないように気を使っていたというのにまるで共通認識かのようなその物言い。期待してないなら初めから言うんじゃないよとせめて心の中だけで毒づいた。

「……? 何かまずいことでもあったのか?」
「いや、何でもない……何でもないんだ。マクシミリアヌスは気にしないで……」

 頬を引き攣らせたまま答えると、マクシミリアヌスに怪訝な顔で見返されてさらに居心地が悪くなる。空咳をしてから、マクシミリアヌスが勘違いしたままになっていた会話のほうに話題を戻すことにした。

「そうじゃなくて、マクシミリアヌス。枢機卿、またマクシミリアヌスに来てほしいって?」

 何だ、そういうことかと得心顔で、マクシミリアヌスは頷いた(最初からこう言っていれば余計な気遣いをしないで済んだものを……自分の惰性が嫌になる)。

「また是非来てくれと言いはされたが、それは俺である必要は無いのだろう。先にも述べたが、暇を持て余しているとのことであったのでな。話し相手であれば俺でなくとも構うまい」
「実に謙虚な自己評価じゃない」

 意外そうに、そこでさくらが漸く会話に加わった。マクシミリアヌスが途端に片眉を跳ね上げる。

「謙虚も何もあるものか。俺は事実を述べたに過ぎん。枢機卿の口振りからすると、むしろマナカのほうに来てもらいたがっていたように思えるが」
「私?」

 何で私、という意味を込めたら必要以上に素っ頓狂な音になる。枢機卿と会ったのはさっき述べた一回だけ、それから後は直接言葉を交わしたようなことは無い。

「そりゃ、こんなむさいおっさんが来るよりはマナカさんみたいのが来たほうが嬉しいでしょうよ」

 トマスが無遠慮に混ぜっ返して、それをマクシミリアヌスが鬱陶しげに睨みやるような間をあけて、

「尋ねたいことは一杯あろう。異世界人というだけで君は話題のタネなのだからな。しかしまあ枢機卿が尋ねたいのは何もそれだけというわけでは無い」何故か少し誇らしそうに唇の端を持ち上げて、「大聖堂のお膝元を離れたここ一月の近況も、この国に対する君の感想も是非聞いてみたいのだそうだ。外から見たこの国の現状を、後学のために少しでも聞いておきたいと。それがこの国をよりよくするきっかけにもなるだろうと、デ・マッキ枢機卿はそういうご判断を下された」

 多分見るからに嫌そうな顔をしたと思う。旅の道中、面倒くさいのに絡まれないようにという意味で一ヶ月丸々自分の出生を隠して過ごしてきたのだが、知り合いに再会するということはこういう結果を招くことになるのか。今後は気をつけよう。気をつけられることでもないが。

「……さくらでもよくない?」

 逃げる意味が大半で相方のほうに話の矛先をうっちゃると、下品な声は漏らさなかったもののとても嫌そうな顔を返された。この世界に残ると決めてから次の街に向かう一週間ほど、さくらだって首都にいた。

「サクラは枢機卿には会ってないだろう。存在は無論知ってはいようが、その程度の認識では容易く茶に誘うことなど出来んのではないか? 特に今の枢機卿は役務で来ているわけではなく、一人のご老人としてここに来ているのだからな」
「……と、いうことよ。私に遠慮せずどうぞご自由にお茶に誘われてきなさいな」

 したり顔なんかしながらいつも以上に気取った口調で言い返されて、「……」さすがに言葉に詰まらざるを得なかった。話を振ったのは自分なのだが、もう少し同情してくれても良いのではないか。国のトップレベルで偉い人間と会談なんて流石の真佳でも気が引ける。それがオフであろうが何であろうが、尻込みするのは当然のことだと思うのだけど。

「…………まあ、じゃあ……気が向いたら……」

 全く気乗りしないながらも渋々ながら頷くと、そんなこととはどうやら露ほども疑っていないマクシミリアヌスが実に剛毅に破顔した。

「ああ、そうしてくれると俺も助かるというものだ。昼間だけはどうしても訪ねることが出来んのでな」

 反射的にハテナを脳に浮かべたが、次の瞬間合点した。思い出した。マクシミリアヌスには落石を取り除くという役目があるのだ。真佳たちにとっても枢機卿にとっても非常に重大なこのお役目を担ってくれている以上、昼間に枢機卿とお茶をするなんて些事を押し付けるわけにもいかないというのはよく分かる。
 ……仕方がないな……。
 心の中で、苦々しい思いをしながら呟いた。

「因みに……マクシミリアヌスも、“物資を積んだ馬が通れるぐらい”まで回復させるっていうのに賛成な感じ?」
「カタリナから聞いたのか?」

 まるでお見通しみたいに言われて真佳は曖昧に微笑した。そうだと答えるのも何だか気恥ずかしかったので。

「なら安心しろと言っておこう。心配するな。俺もそのつもりで動いている。正式な教会であろうがなかろうが、一宿一飯の恩はある。君たちの世界の言葉だろう? 異世界人の功績を書き記した文書には、ほとんど必ずと言っていいほどこの言葉が出てきたものだ」

 郷愁に感じ入るかのような響きがあった。幼いころ繰り返し聞かせてもらったお伽噺を思い出しているかのような。きっとマクシミリアヌスにとって、それはお伽噺とそう変わらない伝承ではあるのだろう。五百年前にやってきたと謳われる異世界人、つまり真佳とさくらの同郷は、その功業により真佳らが馴染みやすいよう世界の色を塗り替えた。過去、この世界に落雷の如く現れた異世界人の手によって、この世界の文明レベルは飛躍的に向上することとなったらしい。この世界にとっては五百年前、真佳とさくらにとってはそれは……多分、そう遠くない過去の人。今では真佳たちはそういう考えに相成った。一応、同郷同士の内輪の話ということで。
 まあそれはそれとして、落石撤去の作業に関しての話がカタリナの独断というわけではなさそうだったので何はなくともほっとした。作業者の意見が割れて、一方は先に進むと言い一方はもう暫く居続けるなどと言いだしたりなんかしちゃったら、またぞろ仲裁のために心を砕かなければならなかったので……。この面子で旅をしてから真佳の胃袋が徐々に蝕まれてきているような気がしているのは、あながち考え過ぎなだけでもなさそうだ。

「おかげでこっちはいい迷惑ですがね。首領のほうはとっとと村を出たいってんでぴりぴりしてるわ、この件に関してはカタリナの姐さんも意固地だわ……」

 灰色の後頭部を掻き回し掻き回し言ってから、

「姫さんはそれでいいんですかい? 出発が遅れることになりやすが」

 何故か彼らだけが好んで使う、“姫さん”の呼称でさくらを呼んだ。カタリナと同じことを問われて、さくらは少し鼻白んだようだった。

「いいって。カタリナにも言ったけど。もうこれは私だけの旅じゃないんだから、気を使ってもらう必要は微塵も無いわよ」

 多分さくらのほうも放っておく気はないんだろうと思ったが、さくらがそれ以上言わなかったので放っておいた。これで案外情に深いタイプなんであることは、多分トマスらにもそろそろ伝わっていていい頃だ。

「ヤコブスは嫌がってるんだなあ」

 苦笑交じりに真佳のほうがそこのところを引き取ると、マクシミリアヌスがはんと鼻を鳴らした。我が意を得たり、という感情が見え隠れしていたように思うのは、多分真佳の気のせいではない。

「放っておけ、嫌になれば一人で勝手に先へ進めば良いのだ」

 ……というのをいつかどこかでマクシミリアヌスが逆に言われてるのを見たようなー……(というか多分私が言った)。
 今回ばかりは誰もヤコブスについていく気が無いのは分かりきっているからか、いつもに増して何だかひどく強気である。毎度毎度煮え湯を飲まされているのはマクシミリアヌスのほうなので、そうなっても仕方のない気はしてる(というのは、真佳ら自身がマクシミリアヌスに煮え湯を飲ませる側な故)。
 そうしたら(というのはマクシミリアヌスのいうとおり嫌になったら、)ヤコブスは先に進むだろうか。進まない気はする。何だかんだ、ヤコブスはさくらに執心しているので。それは多分甘酸っぱさを覚えるような意味では無くて。

「カタリナとヤコブスは大丈夫なの?」

 ほとんど無意識的に尋ねると、トマスは言葉にならない唸り声みたいなものを吐き出しながら困ったように額を掻いた。

「どー……なんでしょうねー……。何せあの二人が意見を分かつなんてことが初めてなことなもんで。姐さんが首領の意に背くことを押し通すなんざ、そうそうあることでもねえですからね。それもこんな些事でもないような事柄で」

 トマスがよく周りに気がつくことを、真佳は既に知っていた。周囲の情景をよく読んで、その場に適した言葉を、或いは適さない言葉を(こちらは完全に嫌がらせで)投げかけることの出来る才人だ。そのトマスが言うのだから、それはよっぽどのことなのだろうと予想はついた。
 申し訳ないことに巻き込んでしまったなあ……と、考えずにはいられない。だってこれでガプサがばらばらになったらまず間違いなくそれは真佳たちのせいなのだ。傍から見ても一枚岩として存在していた彼らに亀裂を入れたとなると、無事元の世界に戻ったとしても多分引きずることになるのだろう。

「なあに、そんな深刻なことでもありませんや」

 真佳の気難しい顔を見兼ねてだろうが、トマスが殊更気軽に発話した(ほら、今回も。トマスには心眼でも宿っているのじゃないか、と、割合冗談じゃなく考える)。

「二人ともちっとばかし故郷の空気に当てられてるだけでしょうよ。ここを出ればころっとしたもんで、こっちが心配してたのが馬鹿らしくなるくらい元通りの二人に戻りまさあ」

 厚ぼったい瞼の下の双眼を細めながら、屈託の無い顔でトマスはくしゃっと破顔した。肉の薄い頬にシワが刻まれているのが何だか印象深かった。

「……トマスは知ってる?」

 気がついていたら問うていた――

「ヤコブスとカタリナの、この故郷でのことを」


ピオッジャ

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