平穏に、滞りなく、とっととこの村を出るからな――。
 ヤコブスが言ったそのささやかな願いが叶えられることはないだろうと真佳は思う。いや、問題を起こしに行くというわけでは断じてない。真佳だってささやかな平穏を噛み締める日常にこれ以上無いほどの価値を見出しているのだし。ただ、「極力奴には関わるなよ」の部分を守ってやれるかと言われると。

「――ああ。やあ、いらっしゃい。よく来たものだな、こんな辺境くんだりまで」

 それは村長さんの家で言うべきことではないのでは……。突っ込みかけたが既のところでこらえた自分を真佳は褒めたい。

「お久しぶりです、ルーナさん」

 頭を下げると、ルーナさんはくしゃっと笑ったらしかった。後ろにお団子としてまとめられたくすんだ赤髪と、鉄電気石の割られた断面のような双眸が胸に微かな郷愁を抱かせる。
 ルーナ・クレスターニ――港町、スッドマーレでかなりの日数お世話になった、れっきとしたシスターである。こっちは朝出会ったような穏やかな笑みを湛える初老のシスターと違って正式な教会で働いている、まあ言ってしまえばホンモノだ――“本物”という言葉に実はなんの意味もない以上、“偽物”という言葉もまた無意味だ、と、フィリップ・K・ディックは言うけれど。

「ああ、久しぶり! 昨夜はそう長くは話せなかったものな。久しぶり、というので丁度いい、うん――さて、では、ルーナ“さん”というのはやめてくれ。二度目の邂逅なのだから、つまりはそういうことだろう? 恐らくそれなりに年も近い」
「近い……?」

 三十代くらいに見えるけど。とは言え自分の年齢に対する観察眼は大体が当てにならないものなので、そう言われるとそんなもんかと思わないでも……。

「三十代くらいに見えるだろう?」
「……」見抜かれた。
「よく間違えられるんだ。だから僕も今まで突っ込んでは来なかったけどさ、実際のところ、これでも二十一になって半年でね」
「二十一……」

 それでも成人か成人してないかの違いはあるが――と思ったが、この国では成人と認められる人間は二十よりももっとずっと低いのだった。この国の人たちからしてみれば、確かにそんなものかもしれない。

「さ、入るといい。今回僕のことは宿のお姉さんと思わず、友人として見るといい」

 冗談とも本気ともつかない茶目っ気たっぷりな態でそう言って、ルーナは引いた扉に体を寄せて、真佳を中に招き入れた。家主の尊厳というものは、どうやら剥奪されているらしい。


ショール


 ――枢機卿ー? あんまりうろつかないようにって言ったじゃないですか。ここにはちゃんとした教会の人間なんて、僕と数人のお付きの人間だけで――

 そこでルーナは言葉を切って、月光に照らされた真佳をまともに見たらしかった。鉄電気石色の双眼を丸く見開いて、「……マナカ!? 君何でここにいるんだい!?」枢機卿を挟んでいるのすら忘れた態で、真佳に向かってそう言った。
 昨日、枢機卿と出会った本当にすぐ後のことである。枢機卿との再会に驚いていた真佳としては、二度目の意外な邂逅はキャパオーバーのために思考がショートするくらいの衝撃だ。一体どういう偶然が重なったらそうなるんだ? そもそも、首都におわす枢機卿と港町にいる一シスターのルーナ・クレスターニが共にいること自体からして驚愕なのだ。
 極力奴には関わるなよ、というヤコブスの念押しは、そういった意味で遅すぎた。枢機卿だけならまだしも、スッドマーレで世話になったルーナがいるなら話は別だ。真佳だって自分が人見知りであることは自覚しているが、素性の知れないぽっと出の自分たちに対して、無暗に詮索せず適切な距離を保ってどっしりと宿舎に控えてくれていたルーナにはそれなりに深い恩がある。
 そんなルーナに、自分たちが今村長の家にいること、自分たちも暫くここに居座ることになったこと、暇を持て余しているので、気が向いたら遊びに来るといいというようなことを聞かされて、その好意を無碍には出来るはずがない、というのが、一応の真佳の言い分だ。ただ、少し厄介なことにはなったかも。ヤコブスに先に釘を刺されたことで、さくらにまでルーナのことを伝えることが出来なくなった。あまり関わるなと言われたのだ。ルーナに会いに行くという目的であっても、そこに枢機卿がいる以上、ヤコブスに黙って村長の家に行くというような不誠実なことはしないだろう。

「いや、本当によく来てくれた。ほら、僕はずっとスッドマーレにいただろう? それなりに栄えた街だったから、突然こんな田舎に放り出されてどう暇を持て余そうか困ってたところでね。洗濯も掃除も、村長の家の方がやってくれるし……ああ、教会の方がそんなことをしないでください、自分たちが行いますんで、と来たもんだ。スッドマーレの僕を見てただろう? それなりに忙しなく立ち働く部類なもんだから、お客さん扱いされるのも慣れなくてね。お人形さんみたいにぽかんと座ってるだけというのは、どうも性に合わない」

 というような長台詞を、真佳を居間の椅子に座らせつつコーヒーの用意を整えながら口にする。本当に立ち働くことに関して欲求不満だったのか、その様相はいつも以上にてきぱきしていて、一分の隙も見当たらない。真佳のおもてなしをできることに喜びを感じているふうだった。多分、家の人たちには自分のお客さんだからということを先に伝えているのだろう。
 真佳の好みの味を覚えているのか、ちょうどいいぐあいにミルクが入っていた。砂糖は二杯、入れてかき混ぜて舌に乗せてから、口にする。

「……何でルーナがここに? ってゆーか、何で枢機卿……がここに?」

 恐らく自室として宛てがわれた部屋に引っ込んでいるのだろうが、自然枢機卿と言う声が小さくなった。別に真佳だって嫌がらせでヤコブスの言うことを守ってないわけではないのだから、極力関わるなという頭目の言葉をつい想起してしまう。“枢機卿とは”関わってないですよーというのを免罪符にしようと思って。
 味の感想が無かったことが若干不満だったのか、ルーナは一度「んー」生返事で答えてから、自身もコーヒーを口にしてから発話した。

「言ってみれば休暇中でね。僕ではなく、枢機卿が。余暇を過ごすために西へ向かっているところへ、あの落石に差し掛かったって寸法さ」
「余暇……? 西に?」
「枢機卿のご実家があるらしい。随分働き詰めだったからって無理やり取らされたようなものでね。ご自身はあまりよくは思っておられない節がある」
「ふうん……」

 張り詰めてぴりぴりした空気感が抜けていたのはそういう意味から来るんだろうか。ペシェチエーロで一回枢機卿と顔を合わせている真佳としては、いい休暇のように見えるけど。

「ルーナは?」

 肝心な部分を省略した聞き方になったが、ルーナはきちんと意味を捉えてくれた。コーヒーのお茶請けとして固めのクッキーのようなものが添えられていたので、真佳はありがたくそれに手をつけさせていただいた。棒状に切り揃えられていて、そういえばルーナは前にも旅のお供にと言ってお菓子をくれたんだったなというようなことを思料した。最初に出会ったとき、料理は得意じゃなさそうな口振りをしていたのを覚えているが、少なくともお菓子作りはとても上手い。

「僕はお付き。わざわざスッドマーレから呼び出された形になるけれど、もともと僕はほかのシスターと違っていろんな街に赴任することが多くてね。そこいらのシスターよりは安心だっていうことで、選抜されたというわけさ。まあ、西にも行ったことがあるわけだから、それなりに相応しいとは思うけど」

 その年で? という、あからさまな目で見てしまった。半分くらい残っているクッキーをまだぽりぽりやりながら(一本が割と大きいので)何も言わないでいると、ルーナが不遜に微笑した。大人びた顔立ちのためにそういう表情をするとびっくりするくらい様になる。

「経験豊富だろう? 流石に最果てにまでは行ったことはないけどね。一処に留まるのが性に合わないために、そういう人生を送らざるを得ないのさ」

 と言ってニヒルに笑った。左肩だけを器用に竦めて、自分もコーヒーに口をつける。砂糖とミルクは入っていない。

「もうスッドマーレには戻らないの?」
「うーん、どうだろうね。もともと長く居座るつもりでもなかったからさ。枢機卿のお供をしても、もう南には戻らないかもしれないな」

 まるで根無し草だなと真佳は思う。実際ルーナが言ったように、どこかに根を張って生計を立てるルーナというのは、言われて初めて考えたけれど確かに想像しにくいものではあったのだ。
 そういう話の関係で、ふと思いついたことがある。

「じゃあ、ルーナがここを?」
「ん? ……ああ、この村のことかい?」

 首の動きだけで肯定すると、「ああ、違う、違う」と言いながらルーナはカップを持っていないほうの手を振った。

「ほかのお付きの人間さ。僕はそれにくっついてきただけ。何でも、この村の出身らしくてね。途方に暮れているところに助け舟を出してもらったというわけさ。野宿を回避して戻る方法も無かったからね。流石に枢機卿相手に野宿してくださいとは口が裂けても言えまいよ」

 ……確かにそれは言い難い。国の……確か、一番目だか二番目だかに偉いとかいう人間だ。真佳やさくらに対するマクシミリアヌス以上に、口にするのは困難なように思われた。

「僕もこの村の存在は聞いたことがなくってね。まあ、経験豊富とは言ってはみたものの、それは飽くまで教会に関係するところだけの話だ。こういうところは流石の僕も縁が無い。君たちみたいに旅をしたことがあるというわけでもあるまいし……」

 そこではたと気が付いたように、

「そういえば、君たちは一体どうしてここに? マクシミリアヌスが知っていた……というわけでも無いんだろう?」
「えっ――」痛いところを突かれた――「いや、えーっと、まあ……いろいろと……」

 自分は尋ねておきながらごにょごにょと言葉を濁してしまった――誰であろうと相手は教会従事者だ。そう易易と新教に属する人間の話など、流石にしてはいけない気がする。ルーナや枢機卿の前ではガプサの話は特に内密にしておくことを、今更ながら心に決めた。
 ルーナは特段問いただすようなことはせず、「ふうん?」尻上がりの言を吐き口角をつり上げ薄く笑った。

「今回も君は訳ありなワケか」
「いやっ……まあ……」

 言えないことはたくさんある……。口に出すか出さないかの微妙なラインでごそごそ言うと、「いいよ、気にするな。僕にだって言えないことの一つや二つはあるものさ」粘りっけの無い口調でけらりと笑ってビスコッティ(……と、言うのだった気がする)に歯を立てた。
 ……ほらね。だからルーナには頭が上がらないと言ったのだ。

「因みに枢機卿は、この村のことは他言無用にするらしい」

 固いクッキーをぽりぽりぽりとやりながら、話の方向を捻じ曲げるついでという感じでルーナのほうが口にした。「へ……?」枢機卿が? マクシミリアヌスだけでなく、こんなに大勢の、それもお偉いさんの目に映ったのだ。言われてみれば、確かにこの村の存在が明らかになっても可笑しくないと、今更ながらに思ったが……。

「僕たちも全員口止めをされてしまってね。枢機卿に、という意味だが。そっちにはマクシミリアヌスがいるんだろう? 彼にも、もし教会に報告するつもりであったとしたら告げ口しないように伝えてほしい」
「マクシミリアヌスは話すつもりは無い……とは言ってたけど……」

 仮にも教会のお偉方が、こういった非公式の教会を見過ごしてもいいんだろうか? 口に出さない疑問はしかし、ルーナには感知されたらしい。

「いいよ、いいよ。新教みたいに神へのアプローチに相違があるわけでもないしね。っていうのが枢機卿のご判断。寝床と食料の恩もあるし、それくらいは譲歩しても神様はお怒りにはならないだろう」

 新教みたいに――という言葉にどきりとした。コーヒーのカップに口をつけて、それで真佳は反応したのを隠したような気になった。実際ルーナがどこまで悟っているのか、彼女の言動からは計り知れない。
 何だかコウモリを思い出すなあと考えた。イソップ寓話でコウモリは、獣の一族と鳥の一族を行ったり来たりした挙げ句、最後には仲間外れにされてしまう。

「マクシミリアヌスやサクラは元気かい?」

 真佳の内心を知ってか知らずか、優しく微笑みながらルーナが言った。頬杖をついて微笑まれると、やっぱり十は年上のお姉さんのような気がしてしまって落ち着かない。

「それは元気だ。マクシミリアヌスなんて煩いぐらいだし」

 ――何故煩いのか、ということは既のところで飲み込んだ。ガプサに関しては極秘事項にと思ったそばからすぐやらかそうとする……。いつか本当にやらかしそうな気が自分でしたので、やっぱりヤコブスの言に従ったほうがいいかもしれない。
 しかしルーナは、真佳の言葉を違う意味に解釈してくれたようだった。

「あっはっは、あの人はいつもあんな感じさ。感情表現が豊かですぐ大声を上げるから、近くにいるとたまったもんじゃない。一瞬鼓膜が破れたんじゃないかと思うだろう?」

 真佳は思わずくすくす笑った。今は怒りで声を荒げることが多いけど、そうでなくともマクシミリアヌスの声量は突き抜けて届く。おまけにお小言という意味でも煩いので、年頃の女子としてはうんざりしてしまうこともある(まあこれは、真佳が無謀なことをしているせいも多分にあるのだが)。

「ああ、私たちが出会う前からそうだったんだ」
「そうとも。一見粗野で野蛮で、男と聞いて皆が思うようなところを煮詰めたような性格をしているが、その実、情に脆くていざというときは冷静で、まあ、付き合っていくうちにみんなマクシミリアヌスに自然と背中を預けるようになる。今もそういう男だろう?」

 ブラックトルマリンの瞳が目の前で細められるのを見て、真佳も穏やかな心地というのを味わった。マクシミリアヌスとヤコブスのやり取りに最近はうんざりしているが、それでも根っこは揺らがない。いつしか背中を預けられる相手だと、真佳自身も思うようになっていた。

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