目が覚めたとき、当然ながらカタリナやマクシミリアヌスはいなかったが、夜中に会話したとおり、さくらとヤコブスだけはそこにいた。トマスは買い出しの雑用、フゴとグイドはマクシミリアヌスら同様撤去作業に行ったらしい。夜更かししていたので当然だけども、やっぱりこの日も目が覚めたのは昼だった。

「……? 何かヤコブス難しい顔してない?」
「……難しい顔というか、まあ仕方のないことね……ちょっとあり得ない人間がここにいる」
「あり得ない人間……?」
 ヤコブスがさくらの向かいで嘆息に近い吐息をついた。真佳はさくらの隣に腰を下ろすことにする。「最悪だ。俺だけでも早々にこの場から抜け出したいがそうもいかないのが忌々しい」

 そこまで本心をさらけ出すとは相当だ。いつもはガプサのリーダー然として、それを基盤に動いているというのに。故郷に戻ったら精神が若返るとかいうのの作用であるかもしれない。真佳の机以外には食べかけの昼食が乗っている。簡素なサンドイッチとくだんのピューレ、それからオニオンスープらしきもの。食堂に座っていれば自然とこれを持ってきてくれる。真佳も入る道中シスター(の似姿をした何か。ここが公式の教会でないのなら、きっとあれも正式なシスターではないのだろう――)と会釈を交わしてきたので、多分すぐに持ってきてくれる。公式の教会では無いにしろ、それと同じかそれ以上に心配りの行き届いた場所だと思う。真佳は割とここが気に入っているのだが、まあそれはきっと真佳か、あるいはさくらだけなのだろう。
 一拍置いて、さくららが話しているそれが誰であるのかにやっとのところで感づいた。

「ああ、枢機卿のことか……デ・マッキ……何とかデ・マッキ枢機卿……だったっけ」

 二人ともに心底怪訝な顔を返された。

「知ってたの?」
「知ってたってゆーか……」

 ――……Mi() scusi(スクーズィ), c'è(チェ) qualcuno(クワルクーノ)?――――――
 ……昨日の夜の出来事だったから。ヤコブスが去った後、もたもたと考え事をしている間にやってきたのは。
 デ・マッキ枢機卿――正確にはフレデリクス・デ・マッキという名であることを、そう時間が経たない間に真佳は再認識することになる――そう、真佳は一度、彼と会ったことがある。首都ペシェチエーロにて、殺し屋に命を狙われたすぐ後のことだ。マクシミリアヌスとあと一名、マクシミリアヌスと同じ治安部隊員の人間と三人で迎え入れることになったあの老人。真佳はすっかり忘れていたが、デ・マッキ枢機卿は真佳のことを覚えていた。月明かりはあったにせよ色も識別できない未成熟な光の中で、ああ、もしかして、と確かに老人は口にした。

 ――マナカ殿かな。いや、このあたりにいるという報告は聞いていて、もしかしたらまた会えるのではないかとちらと思っていたものだから……ああ、いや、すまない。覚えているわけもなかったか。フレデリクス・デ・マッキ……一応枢機卿などやらさせていただいている者なんだが、覚えておられるかな……どうだろう。

 デ・マッキ……その音にデウス・エクス・マキナという言葉の羅列を想起して、それでようやく符合した。シワにまみれた丸顔に、それを覆うように後頭部にかぶさった白い髪、丸眼鏡越しの目はシワに埋もれるほど細く、同じく糸目の人間であるガプサの人間、フゴを自然と回顧した。あの時と違うところと言えば、あの枢機卿独特の荘厳な服は着ていない。スーツに細めのタイとベストを合わせた、気品に関しては段違いではあるものの現代社会に生きる真佳にとってはそこそこ見慣れていると言って間違いない様相――スカッリア国の富裕層が軒並みこういう服装でいることを真佳はこの旅で知っている。
「すうききょう……」と真佳は我ながら萎んだ風船のように気の抜けた声で口にして、「ペシェチエーロで会った?」
 老人は実に温和な、ほっとしたような笑みを浮かべて頷いた。月明かりが丁度頭上に差し込んで、首都で出会った、疲れ切って張り詰めた空気を纏っていた枢機卿とはまるで別人のように見えたことに、少なからず驚いた。
 食器と木製の机とかぶつかり合う、硬質で嫌いではない音がした。

「まあ、知ってたかな。昨日会ったから」

 サンドイッチとくだんのピューレ、オニオンスープらしきもの。配されたものに真佳は会釈だけで礼を告げ、ふくよかな体型の年老いたシスターは同じく会釈してからテーブルの横を離れていった。こちらの会話に耳を傾けるような、野蛮な真似はしなかった。
 さくらは絶句していた口を閉じ、

「昨日っていつよ?」
「まさか夜中と言わんだろうな……」

 ヤコブスが頭痛を抑える顔で、米噛みを揉みほぐしながらさくらの言葉に乗っかった。「夜中?」とさくらは更に怪訝な顔をする。

「うん、そう。ヤコブスと会った後の話だよ。ちょっと考え事をしていたら、偶然たまたま、枢機卿がそこにいた」
「どういう偶然でそうなるんだ、貴様は……」

 ヤコブスが心底嫌そうな顔でそう言った。どういう偶然でと言われても、会ってしまったものは仕方がない。
 一拍遅れて、ガプサであるヤコブスにとって教会の枢機卿なんて存在は目障り以外の何者でもないということを理解した。

「ヤコブス、顔割れてるの?」

 オニオンスープの入ったマグを引っ張り寄せながらそう問うた。ヤコブスは舌打ちしただけで答えなかったが、代わりにさくらが答えを紡ぐ。

「割れてはいないけど、存在そのものが鬱陶しいんですって。バレたらひっ捕らえられるってことを危惧しているというよりか、教会の人間というだけで嫌みたい。まあ、マクシミリアヌスに対しているようなものね」
「教会の元締めだ。あの大男より数段悪い。“教会”に対する盲目的な信仰心という意味で言えばどちらも変わりはあるまいが」

 吐き捨てるように口にした。煙草を吸えない状況を忌むように、時々忙しなく指の先でテーブルの表面を打ち付ける。オニオンスープに口をつけて、サンドイッチにかぶりつきながら考えた。気が散るったら無い、その規則的な打撃音……。

「だからここには来たくなかったんだ」まるで自分の産まれた村に来たこと自体が原因であるとでも言うように、ヤコブスはまだぶつぶつとぼやき続けている。「枢機卿なんて最高顧問がこんな辺境の村に辿り着いてなるものか。そもそも何故落石なんぞ起きていたのか全く分からん」

 それは運が悪かったとしか言えないと思うけど……。
 でもヤコブスの疑問は正しい。二つ目ではなく、一つ目のほう。マクシミリアヌスも知らない、ヤコブスやカタリナがいなければ真佳たちだって辿り着けなかったこの村に、何故枢機卿がいるのだろう。

「アンタ、枢機卿からそういうの聞かなかったの?」
「そういうのって?」
「何でこの村に来られたのか、ってこと」

 ああ、やっぱりさくらも気になるのはそこなのか……ペーストにしたマッシュポテトの挟まれた素朴なサンドイッチを咀嚼しながら、どこか遠いところで考える。――嚥下。

「うーん、残念ながら。お供に連れられてねとは言ってたけど、詳しいことは聞いてないよ。その時は驚きのほうが勝ってて、特にそこまで考えが至らなかったので」

 舌打ちされた。勿論ヤコブスにである。

「まあいい。何にせよ、奴らに行き会う前にこの村から出ていくだけだ」
「村長の村にいるのよね」

 さくらに確認されて、「うん、そうだけど」と答えはしたが、彼女らもよく知っているなと考える。真佳は昨晩教えてもらったクチだが、さくららも誰かに聞かされたりしたのだろうか。

「ああ、シスターが教えてくれたのよ」

 気になって問いかけたら、何でもなさそうな顔でさくらに言われた。シスター……さっき真佳に食事を運んできた彼女のことだろう。今のところ、この村の教会でシスターと呼ばれている人間に出会ったことがほかに無い。

「枢機卿が来ていることへの喜びと誇らしさから教えてくれたんだけど、でもここが正式な教会でないことを思い出しでもしたんでしょうね。すぐに気まずそうな顔になって、お客さんたちは気にせずごゆっくりって」
 ふん、とヤコブスが鼻を鳴らす。「あの老いぼれもここが正式な教会でないことには一目で感づいたらしい。ここに泊まるわけにはいかないと言って、村長の家へ押しかけたそうだ」

 それくらいの常識はあるらしいと明らかに声が言っていた。マクシミリアヌスと対しているヤコブスにはすっかり慣れたと思い込んでいたのだが、そもそもそんな単純な関係性でも無かったのだった。二人が仲が悪いのは信仰する宗派が違うから。これはこの世界では絶対的な亀裂である。そしてそういう理由である以上、ヤコブスが枢機卿を良く思わないのも道理であった。

「極力奴には関わるなよ」

 さくらに、というよりは、どちらかと言うと真佳に言い聞かすような文句だった気がする。私が一番接触しそうですか……オニオンスープを舌に乗せながら、マグの影で極自然的に視線を逸らす。まあ確かに、もう既に接触してしまってはいるのだが……。
 視軸を戻すとこっちを睥睨しているヤコブスの金目と目が合った。
 今視線を外したのは見逃さなかったからなと、何よりその目が言っていた。

「これ以上の厄介事はごめんだ。平穏に、滞りなく、とっととこの村を出るからな」


オニオンスープで朝食を

 TOP 

inserted by FC2 system