「“あれ”は何だ――貴様は何を飼っている?」

 ――息が、とまっていることに気が付いた。煙草の火種が何も言わぬまま明滅を繰り返し、どれだけの時間が経ったのか――憶えていない。それでも何を言われていたのか、忘れることは出来なかった。頭の中ではそれこそ何十回も、ヤコブスは真佳に同じことを聞いていた。

「――」

 唇を無理やり引っ剥がすと、それが新品であったみたいにぷつっ……という何かが切られる音がした。舌が乾いていると思ったら、いつの間にか喉の奥までからからに乾ききっていた。
 知っている。何を指し示しての言なのか。チッタペピータの未明どき、“あいつ”が真佳より表に出ていたころ、ヤコブスはそこに居合わせた。記憶は残っている。ぼんやりと――珍しいことに。最悪なことに。

「……それは」乾ききった喉に言葉を上手く流し込めないで苦労した――「私がはぐらかしたら受け入れてくれる話?」

 吐息――チョコレート様の甘い香りが広がった。きっと溜息ではなく、煙を吐き出すためのものであったのだと、何故だかそのとき信じたがっているということに気が付いた。

「危険か危険でないか」

 甘い香りに似合わぬ声で、ヤコブスは短くそう告げた。表情が分からない、というのは――随分人にとって都合がいいのだな、と、真佳はその時初めて思う。

「それくらいなら答えられるだろう。どの道長くはない道のりだ。貴様と永劫過ごすわけでもなし、その話自体に興味は無い」

 ――ヤコブスらガプサにとって、害を成す存在であるかどうかということだ――効率よくと言うだけあって、随分と痛い場所を突く。しかし答えられないと突っぱねることも出来なかった。“奴”を眼の前にして、身の危険を案じない人間なんてきっとどこにも居はしない。

「……多分、危険なんだろうと……思う」
「素直だな」

 声のトーンが上がった気がした。自然、薄い頬肉を片方だけ歪ませてシニカルに笑うヤコブスの相貌を想像している――普段笑うことの少ない仏頂面の男が厭世的に笑う、安らぎも何も無い、人に焦燥だけを残す笑み。生き急ぐかのようにも見える彼の行いは、何故だか自然、それを取り巻く人間にも同じような焦燥を抱かせる。走り出さなきゃならないのに走る先が見当たらない。そんな時に前を突っ切って歩みを止めない男の背中が、きっと人を彼の配下につかせるのだ。カリスマ、と言うにはそれはあまりにも刹那的。一瞬間だけきらりと煌めき崩れゆく、一条の流星を想起した。……それは、あまりさくらには追ってはほしくない背中ではある。

「ま、いいさ」

 自分で問いかけておきながら、実にあっさりとヤコブスは引き下がって煙を吹いた。危険であるのならもうこれ以上旅の供は出来ないと、切り捨てられて然るべきだと考えていた――その場合、さくらはどうするのだろう、とも。

「名は」
「は?」
 明らかに渋面を作ったような声色で、「飼っているものの名を言えと言う」
「……」少しの逡巡。「……鬼莉」
「ああ、確かにヒメカゼはそう言った。ではそれに間違いはないのだろう」

 身じろぎをする音がした。名前知ってるんじゃないか……恨めしい思いを顕に闇に溶けるヤコブスがいるであろう場所を睨んだが、当然この闇夜の中でヤコブスが真佳の変化に気付いてくれるはずもない。

「いいの、距離を……取らなくても」

 はん、と、鼻を鳴らす音がした。

「警戒なら常にしている。貴様とあの教会の従僕相手にうちの連中が無警戒で臨んでいたと思っていたのなら、それはとんだお笑い草だ」
「……でも鬼莉は」
「自惚れるなと言っている」

 言葉を途中で差し挟まれた。夜の虫さえほんの一瞬気配を消した。

「言っただろう。貴様と永劫を過ごすつもりは毛頭無い。旅の道中で出すなどという過失を犯すなと言っているだけだ。それくらいのことは出来るんだろうが」

 咥え煙草の実に不明瞭な言葉でもって言い切った。ぶっきらぼうで無作法で、相手に言葉を伝えようという意思など微塵も無い。放擲した言葉が人の頭をかち割っても、きっと平然と煙草をくゆらせるだけなのだ。罪悪感は覚えない。人の言葉を真に受けるからだと、肩を竦めながらきっと言う。
 ……でもそれが、真佳には少し、ありがたかった。

「ああ、出来るよ。もし出来なかったとしても、キミたちやさくらには絶対に迷惑にならないように気をつける」

 また鼻だけで笑った。
 でも今度は、人を小馬鹿にするみたいなそういうニュアンスではなさそうだった。

「当然だ。厄介事は御免こうむる」

 また身じろぎをする音がした。教会の壁に預けていた背中を引っ剥がしたのだ。煙草の火種の動きから、その程度のことは推察された。

「寝ろ。あす用事があるにせよ無いにせよ」
「そうする。ヤコブスも良い夢を」

 はん、とまた鼻が鳴る――
 教会の外、真の闇。その場所に、真佳だけが残された。


深更アップロフォンディメント



 きっと機会を伺っていたんだろう、と思う。
 夜空に向かって息を吐く。あんなに意固地に遮断されていた月明かりが、風に流された雲によって漸く姿を現した。
 ヤコブスがあのことを――というのはつまり鬼莉のことだが――カタリナやトマスに言っているのかどうかは知らない。ただ、ヤコブスが真佳に対してこの話をしてきたことは、富裕の街――チッタペピータを出てから今日まで、今さっきが初めてだ。真佳と二人きりになる機会を狙っていたとしか思えない。だってあれから一週間が経過した。

(マクシミリアヌスに聞かれないように気を使ったのか……)

 ……うーん、あんまりしっくり来ない。そういう気遣いを仮にヤコブスがしていたとしたら、ちょっと普段の彼と乖離しすぎてそっちの二重人格をまず疑う。
 鬼莉が真佳の別人格であることをヤコブスが察したかどうかすら真佳のほうは知らないが、“あいつ”が動いているのを見ているのだからそれに近しいことは大体想像出来ていると見て間違いない。鬼莉と真佳はつまりそういった関係で、ヤコブスが心配するくらいにはそいつは倫理観に欠けており、そして真佳のことを心底嫌っているらしい。

(……もう、出てこないとは思うんだけど……)

 だってチッタペピータでとある人物に出会うまで、随分長いこと封じ込めることに成功はしていたので。
 嫌な場面に出くわしたものだ。何せ真佳は鬼莉のことについては他人以上によく知らない。奴が出ている間、真佳の記憶は機能していないと考えて差し支えないし、時々話しかけに来る“あいつ”は大体真佳の嫌がることだけを一方的に言い募ってから消えていく。誕生のきっかけも、いつごろから真佳の中に居たのかも、聞かれたところで真佳に答えられることは何一つとして存在しない。それでどの面下げて危険は押さえるので信じてなどと……。

 ――鬼莉と初めて出会ったころ、一度聞いたことがある。

 ……そういえば以前、さくらがそんなことを言っていた。

 ――アンタの中に自分が居るのは、アンタがいじめられるよりもっとずっと前だって。どれくらい前か問いただしたけど、結局はぐらかすだけで教えてはもらえなかった。今回の件より前に、アイツがアンタの中に居座るきっかけがあったはず。

 ……と言われたって、真佳にそのきっかけに心当たりがあるはずもない。真佳だってさくらにそう言われるまで、ずっといじめが原因なんだと思ってた。よく分からないけれど、解離性同一性障害というのはそういうトラウマから発生し得るものであるとは聞いている。
 真佳がいじめられ始めたのは四年前。中学に入ってすぐのことで、人とは違う赤い双眼を有することと、それを凌駕するコミュ力が無かったことからいじめられるに相成った。クラス全員による無視から始まり、陰口や悪口がエスカレートして物を投げられたり盗まれたりお湯をぶっかけられるなど。中学二年の時、さくらが転校して来なければ、もしかしたらそのいじめは行き着くところまでたどり着いてしまっていたかもしれない。
 中学二年、さくらが転校してきたことで真佳は鬼莉の存在をその時初めて認識し、己の中に抑え込むよう努力した。以降、この三年間で鬼莉が現れたという話とか、不自然に記憶が途切れているという感覚は一つも存在していない。少なくとも、真佳が知り得る範囲では。
 チッタペピータで出会ったウィトゥス・ガッダ卿――彼が何故鬼莉の存在を知っていたのか、結局最後の最後まで分からないまま終わってしまった。ガッダ卿に鬼莉の存在を教えたという人物は、一体何者なんだろう。ガッダをして反則であると言わしめるその人物とは一体誰か?
 ――……あまり長居はすべきではない。この世界からは早々に立ち去ったほうがいい。さくらの用事を片付けて、危険が真佳らに追いつく前に…………――

「……Mi() scusi(スクーズィ), c'è(チェ) qualcuno(クワルクーノ)?」

 問われた言にぞっとした。

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