そもそも客人を想定していなさそうな小さな教会だったが、二階に上がった短い廊下の左右に四部屋の空きがあるとのことだ。当然の成り行きというか、女三人が固まって一部屋、マクシミリアヌスが一部屋、残ったヤコブスら四人が二手に分かれて滞在することになる。
 客人を想定していなさそうな、と言ったが、質素で素朴ながら掃除の行き届いた部屋だった。きっと夕飯をご馳走になっている間に、シスターか誰かが掃除してくれていたんだろう。ベッドは二つしかないので、ソファがベッドの代わりになる。マクシミリアヌスの部屋から運ぶには、この部屋は少々狭すぎた。

「あたしは今日はソファで寝るよ」

 先にカタリナが口にした。

「今日は慣れない道行きで二人とも疲れているんだろう? 野宿には慣れているからさ。こんなんでもあたしには立派な寝具ってことで。あ、でも、出来れば四日に一度くらいの割合で代わってくれたら嬉しいんだけど」

 真佳は少しく微笑した。実はここまで、二人っきりでの会話らしい会話が必要となる局面もなかったために、カタリナには未だ人見知りの感が拭えていない。しかしいい人であるのは分かる。真佳やさくらに遠慮をさせないように、さり気なくベッドを譲ってくれた。

「……えーっと、じゃあ私が四日目にソファで寝る……ね」

 敬語になりそうになって既のところで切り替えた。態度が定まらなくてもたもたしたが、カタリナがにこっと笑ってくれたのでほっとした。「ありがとね。その時になったらよろしく頼むよ」
 さくらが何か言いかけたらしいが、上手く話がまとまったためか結局口は開かなかった。薄っすら意地の悪い微笑を浮かべたのは見えたような……。美人なんだから淑女然としてればもっとモテてるんだからなと八つ当たり気味に真佳は思う。
 すっかり闇の帳が降りていた。ここにはペシェチエーロやスッドマーレやチッタペピータと違って、点々と聳える街灯というものはない。月明かりだけが差し込む百入茶。今宵は空には生クリーム色の満月と、爪先みたいな繊月の月が行灯のように世界を飾る。

「明日はあたしも撤去作業に赴くよー」

 既に夢の世界に頭の半分を持っていかれてるみたいな声で、ガプサの女がそう言った。明かりを消すと、ここも真正の闇になる。真佳が現在進行系で潜り込んだのとはまた別のベッドのほうで、黒い塊が口にした。

「アンタが? 何か出来ることがあるんなら、私もついていくけど」
「いやいや、そうじゃなくてさー」ソファの真上で片手を振って、「どうせうちの首領は現場に行こうともしないだろ? その穴埋めと思ってくれりゃあいい。グイドはまた別にして、トマスやフゴとマクシミリアヌスを一緒に置いて安心して待っていろ、なんて、そのほうが酷じゃないか?」

 唇を噛むような間があった。ノイズのかった暗闇に侵され続ける天井を、真佳は暫し見澄ました。

「あんたらは来なくていいんだって」

 カタリナの声が先手を打った。さくらが言い淀むことなどとても珍しいことだけれど、ここ最近の道行きであれば仕方がない。真佳も今日は、珍しくくたびれ果てていた。

「休めるときには休んでおきな。それがおねーさんからの忠告。これからお荷物になりたくないだろ?」

 暫くしてからさくらが「分かった」と口にした。カタリナは本当に話の仕方が上手いのだなあと、夢の縁に僅かに引っかかっていた思考回路が考えた。


闇夜に火種



 何でそこを出たかって、夢の縁を追い出されたからだ。
 季節は元の世界で言うところの初夏に近いはずなのだが、森に周囲を囲まれたこの村はまだまだどこか肌寒い。温もりを差し入れる太陽は眠りに落ちたときと同様に行方をくらまし、空では暗色の雲が音もなく月の真ん前を横切っている――「くっちゅん!」風が強い。

「誰だ?」

 何で外に出たんだろう、せめて教会の中で何か飲み物でも頂戴すればよかった――早々に自分の行いを後悔しているところに誰何の声を投げられて、真佳は多少なりとも驚いた。この暗闇はまさか人の気配すら飲み込んでしまうほどの分厚い暗幕なのだろうかと、一瞬本気で考えた。
 鋭い刃物のような声色に一瞬体勢を低くしたが、何のことはない。聞いたことのある声だった。チョコレートのような甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。

「……ヤコブス?」
 問うた途端に舌打ちされた。「貴様か……」

 貴様って。本当にヤコブスは分かりにくいようで分かりやすいな。真佳が彼に名を呼ばれたことは、出会ってからこれまで驚くべきことに一度も無い。

「そんな邪険にしなくても。今日はやけに息が合うじゃないですか。お昼もヤコブスが起こしてくれたし」
 また舌打ち。「効率を考えたまでの話だ。とっとと寝ろ」

 うーん、と真佳は小首を傾げ、手を引っ込めた代わりにでろでろになった袖を口元に添えて考えた。真っ暗なので多分相手には見えないけれど(そして真佳にもヤコブスの姿は映らない)。
 いつもに増してつっけんどん度十割増しみたいな感じだな。苛々していると言うよりは、殺意に満ちていると言い換えたほうが腑に落ちる。そんなに故郷が嫌なのかなあと考えてから、
 ……あ、そういえば、私が反抗期継続中なのかとか、トマスも声を引きつらせるようなことを普通に口にしたのであった。

「……怒ってる?」
 煙草を咥えた不明瞭な声で。「何が」
「村の手前で言ったことをさあ……」
 小馬鹿にするように鼻を鳴らした。「バンビーノでもあるまいに」

 ……わざわざスカッリア語で口にした。い、意地悪だなあ。でもさくらは既に、この国の言葉がイタリア語に近しいものであるということを突き止めているのだ。有名なものなので流石の真佳でも知っているぞ。バンビーノはつまり、子どもっていう意味だ。
 煙草の火種が軽く小さく上下した。それだけが、そこにヤコブスがいるということの証左になる。

「早く寝ろ。貴様はあすは暇かもしれんが」
「ヤコブスだって落石の撤去に行かないんでしょうが」

 まるで人をニートみたいに、という不満を込めて口にすると、ヤコブスが息を吐いた音がした。煙草の火種に照らされて、呼出煙がほんの一瞬視界の端を掠めたような。

「撤去作業以外にやることはある。食料の調達、馬の世話、それから……」
「ああ、そういえば、さくらに乗馬のテクニックを教えないといけないね」

 ……暫く夜の虫の声だけが空気を占める間があって、「……チッ」ヤコブスが本当に苦々しげに舌打ちした。……もしかして、ここぞとばかりに自分だけがさくらに教えるつもりだったんじゃあるまいな……。

「ヤコブス、今何歳?」
「何だ突然」
「場合によっては未成年に手を出した廉で逮捕だよ」
「……? 何を言っているか分からんが、貴様らは既に成人だけはしているだろう」

 いや、この国の仕組みで言うとそうなのだけど。
 まあ、特別な感情でさくらを見ているわけではないようなのでいいとする(そもそもの話、そういう条例がこの国にもあるのかどうかは知らないが)。

「ヤコブス、私のこと嫌いでしょう」
「好かれているとでも思ったのか?」
「今条件反射で答えたな……傷つくなー」

 軽々しい口調になるよう努めてから、
 吐息した。
 前方には魔女が住んでいそうな森の闇、教会の壁に背を向けて、月と星の光しか差し込むもののない世界の上で、見えない息を目で追った。

「いいよ。そのほうが私は信用できる」

 優しさは毒だ、と――
 かつて、真佳は考えた。
 間違っているとは思わない。根本的な部分は変わっていない。表情筋は柔軟に動くようになりはしたが、それが心に適用されているとは考えない。
 警戒心が抜け切れない――さくら以外には。
 ――結局のところ、真佳は人を信用出来ない。裏切られるのが怖いから。裏切られる心配が無いままに誰かを信じようとするのなら、その対象は真佳を嫌っている者にほかならない。
 優しさは毒だ。
 であるならば、優しさを向けない相手をこそ信用すればいいということ。

「じゃ、さくらに乗馬を教えるのはキミに任せよう」

 一転明るい声で言い切った。

「どの道教える側とか務まらないんで。全部感覚だから、言葉で教えろって言われても困るんだよね……」
「…………」

 長めの沈黙。代わりにしゃべくり散らすみたいに、煙草の火種がじんわりと明滅を繰り返す。自分が繰り出したわざとらしい明るい声が、から回っているみたいで一瞬気まずさみたいなものを感じたが、何ということはない……これがヤコブスの会話の距離感なのだということが、だんだん真佳も分かってくる。

「……別にそういう意味ではなかったが、まあいい、それはグイドあたりに任せよう」
「……? ヤコブスが教えるんじゃないのか」
「俺が他人に教示するのが得意であると思うのか?」
「…………」

 そう言われると思わないが。
 てっきりヤコブスがさくらに教えたいのだと思っていた。煙草の煙を吐き出すその音が、長息みたいに真佳に聞こえた。

「そういうのは得意なやつにさせればいい。でなければあまりに効率が悪い」

 煙草の火種が真佳より少し高い位置から離された。煙草の灰を落としているのだと理解した。……一瞬夕刻のこのあたりの様子を考えて、そこには砂利しかなかったことを思い出す。

「そんなことより聞きたいことがあった。丁度いい」

 真佳との出会いを“効率よく”終わらせられるようにとでも言うように、ヤコブスが相変わらずの投げ捨てるみたいな声で口にした。

「“あれ”は何だ――貴様は何を飼っている?」

 TOP 

inserted by FC2 system