「っと、お」

 手綱を繰る手に汗が滲む。革手袋をつけているので汗で滑る心配は無いが、額から垂れ落ちる汗のほうで気を抜けば視界が歪みそう。馬のほうも多少の場数は踏んでいるという話だが、流石にもたつきみたいなものは見えていた。

「きついなら俺のところに来い、真佳。ここで落馬は洒落にならんぞ」
「それが出来る広場が見つかればねー……」

 声は張らなかったので、マクシミリアヌスのもとには多分言葉は届くまい。そっちに割く余裕がこれでも無いのである。足場が悪いとは聞いてはいたが、ここまでギリギリだとは思わなかった。馬一頭半くらいの足場しかない、切り立った崖を歩いているのだ。右手を見れば高く聳える容赦の無い岩肌に睨み下ろされ、左を見れば新緑が海のように漂う樹海が物欲しげな顔で仰ぎ見る――マクシミリアヌスとヤコブスによる板挟みの再現かよと、真佳は渋面を隠さなかった。隠すだけのリソースが真佳の中には無かったので。
 乗馬はそこそこ出来るとは言ったが、ここの基準を考えもせず安請け合いをするんじゃなかった。崖の上を自由自在に駆け巡れるほどの馬術は流石の真佳も持ち合わせていない。というか、現代日本出身の女子高生にそれだけのスキルを求めないでほしい。元の世界の詳細を知らないマクシミリアヌスらに言っても無意味だろうことは分かっているけど!

「む、待て、止まれ」

 手綱を、体を使って引き寄せた。上がりそうになる息を一つの吐息だけで持ち直す。先も見えない急なカーブのその向こう、異質なものが積み重なっているのが見えた――。

「何ですかい? 落石?」

 一人馬から降りて気軽な足取りで駆けてきた“大鼻”トマスが、怪訝な顔でそう言った。
 落石というか、岩雪崩と言うのが正しい気がする。両手で抱え込めるくらいの石が、崖の上から崖道に降り注いだままそこで固まっているらしい。丁度真上に窪んでいる崖壁があった。そこからなだれ落ちたものだろう。
 ひとまずの休憩を得て真佳はもう一度丹念にじっくり吐息したが、安寧を得てもいられない。崖の上は樹木ばかりで馬での道行きは困難であると事前に真佳は聞いている。下方から吹き流れる緑の濃い風、見下ろすまでもない――ここまでの道のりで嫌というほど見下ろした――地平線間際まで緑広がるあの下界を、馬で移動しろと口にするほうが困難だ。

「……参ったな」

 後頭部を掻き掻き、マクシミリアヌスは崖下から吹き上げてくる風の唸りのように呟いた。いないと思ったら、多分トマスが真っ先に報告に行ったのだろう。ヤコブスとさくらが揃って馬を降りていて、真佳の隣を通り過ぎた。……と思ったら、さくらだけが真佳の隣に居続けた。

「今度ここを通るときはマクシミリアヌスに乗せてもらうことね」

 真佳は無言で見下ろしたが、さくらはさして気分を害していなかった。真佳を乗せて半日以上歩き続けた愛馬の首を、すっかり慣れた素振りで撫でていた。栃栗毛の毛並みの馬が、耳をとろけさせて喜んでいるのが馬上からでもよく見える。

「……どの道、今すぐここから先を進むのは難しそうだ」

 半日以上、と前述したとおり、太陽は中天から今も西に傾き続けている。ついさっきの草原がお昼休憩で、そこからずっと歩き詰めだから……午後二時か、或いは三時くらいにはなっていよう。岩雪崩の解体にどれくらいかかるかは不明だが(それ以前にあれは解体出来るのかという話)、一旦戻ってからの話になるのは必定である。
 ……珍しいことに野宿になるかも。マクシミリアヌスはこれまで、真佳やさくらの気を遣って極力そうならないように気をかけてくれていたのだが、こうなってしまっては仕方がない。以前利用した町……というか村は、もう随分と遠ざかった箇所にある。

「…………疲れた…………」

 慣れない道を馬で往くのは。心底からの本音を胃の腑からポンプで押し上げるように口にすると、さくらはちらと呆れたようにこちらを見上げたらしかった。銀光を放つ十三夜を思い起こさせるその眼光は、真佳が知り合ってからこれまで陰りを帯びたことがない。
 さくらは器用に、こちら側にある右肩だけを竦めて見せた。だから言ったでしょう、とでも言いたげな呆れ顔だった。

「これは旧教側の仕事じゃないのか」

 ……ヤコブスの棘が飛んだとき、脳内の記憶を巻き戻したのは言うまでもない。ヤコブスはさくらと共にここまで来て、さくらはここで立ち止まった。ヤコブスが立ち止まった様は見ていない。前にいるのはマクシミリアヌスしかいないのだから、そうだった……この二人が誰もいない中で相対してしまうのは必然だった。しまった、と言うよりは……やれやれ、またかよ、だから私は疲れているんだ、これ以上事態をややこしくしないでくれ、という思いのほうが正直なところ勝っている。
 マクシミリアヌスが明らかに苦々しげに口にした。

「だからこんな辺境では見つけるのも困難だろうがと言っただろう。教会に通達はしておく。が、都市や港町から離れたこの場所の整備はそうすぐには行えない」
「これだからお役所仕事というやつは……」

 ヤコブスがあからさまに舌を打つ。「……?」真佳は眉を跳ね上げた。歯に衣着せぬ物言いはいつものことだが……何だろう。
 真佳がさくらを見下ろすと、さくらもこっちを丁度見上げたところであって、必然的に視線と視線がかち合った。

「まあいいじゃないか。いつ通れるか分からないんだろ?」

 真佳とさくらの背後から、芯の通った女の声が突き抜けるように飛び込んだ。手綱を握ったまま視線を巡らす――いつからそこにいたのか、首領に一任したと思っていたガプサの一員、ヤコブスの一派に属する紅一点が、崖道の曲がり角の、中途のところに立っていた。

「カタリナ……」

 今度はヤコブスが苦々しげに言い放つ。カタリナ・モンターニャ。生まれつきらしい健康的な小麦色の肌と黄金色の双眼を持った、姉御気質の団員だ。今日も波打つ長髪を高い位置に一つにまとめて、孫悟空がしているみたいな金の輪っかを額のところにはめている。三蔵法師がいくら何かを唱えたところで、彼女を御すことは出来ないだろうが。だって彼女が真に忠誠を誓っているのは、ヤコブス・アルベルティだけなので。
 しかしそれにしては、ヤコブスは今回迷惑そうにカタリナを見返しているなと思う。外からちらと眺めただけでもガプサが一枚岩なのはすぐ分かる。ヤコブスの今の心情については、恐らく誰よりもカタリナこそがよく分かる。……今回どうやら、三蔵法師役は存在しない。

「そろそろ腹をくくればいいじゃないか。誰に迷惑をかけるわけでもなし、困ることは何も無いだろう?」
「俺がこうむる。一体どの面下げてわざわざあそこまで赴けと……」
「時効だよ、時効。それに心配するまでもない。あたしたちが今どういう宗派にいるかなんていうことは、彼らは何も知らないんだからさ。だろう?」

 ヤコブスが眼光鋭く同族のカタリナを睨んだが、カタリナは効いた風も無い。鷹や狼なんかの猛禽類に睨みつけられて平気でいられる人間の心臓は鋼鉄なのかもしれないと、この時真佳は思量した。

「……何の話?」

 ガプサの“姫さん”さくらが口にしたことで、膠着状態に入るかと思われたその状況が軟化した。

「……故郷だ」

 苦虫に変わった唾液を忌々しげに噛み潰してでもいるかのように、渋い声音でガプサの首領が口にした。「故郷?」「何だと?」さくらとマクシミリアヌスから出た発言が見事なまでにかぶさった。

「そう、すぐ近くに村がある。――あたしとヤコブスの故郷がね。行ってみるかい? ここからはそう離れていない」


反照、アンティテティカメンテ



 水平線近くから差し込む灼けるような木漏れ日を浴びながら、真佳は不可思議な気持ちを味わった。充満する新緑の匂いか、頭上に伸し掛かってくるかのように張り出した樹木の枝葉故か、それらが生み出すまるで隠し通路みたいなこの道故であったのか。

「俺は聞いていないぞ……この近くに村があるだと?……教会の把握してない村が?……」

 さっきからマクシミリアヌスがぶつぶつぶつぶつ呟きながら、真佳の後ろについていた。ここも細道と言える幅ではあるが、ついさっきまで真佳の体力をすり減らしてきた崖道よりは落下する危険が無い分馬の扱いは単簡だ。地面も随分歩かせやすい。きっと何人もの人間がここを行き来することで、踏みしめられてきたのだろう。
 崖道を戻って一旦崖の頭頂部、ついさっきまで自分たちが見上げていた頭上の密林へと、案内を受けているのであった。カタリナの言うその村は、この森の中にあるという。

「そう腐るなよ、中佐殿」

 崖道を往くときとは真逆に、ガプサの面々が固める先頭付近からカタリナの声が呼びかけた。マクシミリアヌスの独言は流石に聞こえていないだろうが、マクシミリアヌスが不満顔を晒しているのはここへ至る以前の過程で知っていよう。
 カタリナの肉声は、夏の突き抜ける青空のようによく響く。

「この国は膨大なんだから、教会が知らない村や物事も多くはなるさ。ついこの間のチッタペピータでのこともそう。アルブスの村なんて、把握してる人間のほうが少なかったんだから」
「言われなくとも分かっておるわ」

 カタリナに返した声は囁き声ではなくなっていた。マクシミリアヌスが声を張ると、カタリナ以上によく届く。
 以前経由した富豪の街、チッタペピータにて、真佳以外の面々はこの国の希少生物、アルブス族の暮らす秘密の村へ案内されていたらしい。希少生物故にあらゆる局面で狙われることが多く、それだからこそ彼らの住処は国の宝物庫並みの価値を持つ。彼らが人を拒んで住まうのは当然で、そんなものを教会が把握していないのはむしろ至当のことなのだった。
 マクシミリアヌスの大声が、カタリナの言をやめさせる意味も多分にあったということに、一拍遅れて気が付いた。

「……アルブスの村の件に関して、俺は沈黙を貫く」

 吐息しながら彼は言う。今度は声は張られていない。

「……神に仕える教会に対する、初の不誠実となるだろう。しかし、まあ……君たちを救ってくれた恩に、俺はどうしても報わねばならんのだと考える」

 手綱をごつい指先でいじくりながら――豪放磊落という言葉が板についた、二メートルを超える大男たるマクシミリアヌスにしては珍しい挙動でこの国の現役治安部隊中佐は口にした。荒っぽくオールバックにした赤茶の頭髪と、それと色を同じくする口元を覆う男性性を押し出すような口髭、筋肉隆々でタッパもあるこの巨体が、自分の中の感情を持て余すなどということが、この時代で起こり得るなどと真佳は思っていなかった。ただ唯一、知性の色を宿す樹林の碧眼が物憂げに細められている様を見て、何となくだか真佳の中で腑に落ちた。そりゃそうだ。だってマクシミリアヌスはほとんど街から――ひいては教会からは出ていない。親にも等しいその場所を初めて離れて、今旅をしているわけなのだから、きっと……同じではいられないのだと考えた。

「私はとっても嬉しいよ」

 視線を前方に戻して言った。マクシミリアヌスには、ぎりぎり聞こえているだろうと考えた。

「私としてもアルブスの一族には恩義を感じているからね。まともに話してはいないけれども」

 でも、さくらが危ないときにさくらのためにその秘密の場所をすぐに提供してくれた。チッタペピータの街で出会ったアルブスの少年も、それから話を聞くまでもなく受け入れてくれたという長老も、彼らの中に他に意図があったとしても、十分感謝の対象だ。そういう彼らとの約束を、ほかならぬマクシミリアヌスが守ってくれると言うのなら、これ以上歓喜に震えることは無い。
 ふん……という、鼻を鳴らしたような音が背後から聞こえて、それだけだった。それだけで多分、きちんと言葉は伝わったのだと察知した。

「さあ、ひらけるよ!」

 カタリナが一番先頭で声を上げ、真佳のすぐ前方ではヤコブスが短く吐息した。そろそろ腹を括ったろうか。括ろうが括るまいが、どの道ここにいる全員が彼の故郷に押し入ることになるのだが。
 カタリナに続いて馬を駆る。樹木が左右を通り過ぎ、急に視界がひらけたその場所は――
 小さく、焼け焦げたような妙な異臭にぶつかった。
 でもそれは、多分気のせいだったのだ。
 森に出来た広場の中に、ぽつん、ぽつんと家がある、集落とも言えそうな村だった。見える範囲には二軒の家しか存在しないが、右のほうの奥、よく見ると広場が広がっているのが伺えるような場所がある。自然に出来た広場というわけでは、どうやらなさそうな空間だ。家々は今のところ全て木材で出来ていて、森林独特の濡れた空気と木材のにおいとが重なって、随分爽やかな薫香となって村を訪れた者を包み込む。
 ヤコブスが、長く、深く、吐息した――何かを刻み込むような呼気だった。

「教会はあるのか?」

 訝しむようにマクシミリアヌスが口にした。真っ先に気になるところがそれとは、という感はあるものの、ここ、スカッリア国で教会と言えば、行政機関も兼ねる非常に重要なお役目だ。マクシミリアヌスはどちらかというと軍務に属する立場だが、警察関係の仕事やなんかも、担っているのは教会だった。教会の人間である以上、物を頼みやすいというのも少なからずあるんだろう。

「ああ、あるよ。あそこに道が見えるだろう」と、真佳がさっき気付いたばかりの右側の奥を指さして、「その先。まあそんなに立派なもんでも無いけどね。安心したかい? ガプサの村に連れてこられたわけじゃないって」
 マクシミリアヌスが顔をしかめる。「別に俺はそういう意味で言ったんでは……」

 カタリナが朗らかに笑った。男勝りな呵々大笑が、マクシミリアヌスの尻すぼみの言葉を空の彼方へ吹っ飛ばす。本気で言ったのか冗談なのか、イマイチよく分からないような反応だったが、カタリナに嫌味が無いことだけはよくよく心に伝わった。

「じゃ、手っ取り早く教会に話を通す。ああ、ここでもあたしらは普通の旧教信者で通すから、そっちもそのつもりで。頼んだよ。故郷で揉め事は起こしたくなんかないからね」

 小ざっぱりと口にしてから手綱を繰って、「行くよ、アマンダ!」成人前の瑞々しい少女のように誰より先に駆け出した。奥の道へと消えるポニーテール(カタリナの髪型と馬の尻尾、二つの意味で)を見送りながら、
 ……随分と腰が軽いんだな、と真佳は疑問に思って首を捻る。これではヤコブスと対照的だ。カタリナがこの村への道を指し示したのだから当然と言えば当然なのかもしれないが……いや、そもそも、ヤコブスがあれほど嫌がっているこの場所への道を気軽に指し示したこと事態が不可解だった。同じ故郷出身でありながら、この二人の差は何だろう。

「……ヤコブスさ」

 神妙な顔で真佳は言った。

「まだ反抗期継続してたりする?」

 道端の反吐でも見下ろすような顔をされた。
 返事をする前に(というか返事もしたくないとばかりに)ヤコブスがカタリナを追ったので、結果的に真佳ら六人が残された。

「……マナカさん、相当度胸ありやすね……」

 真佳の前で、引き攣った声で“大鼻”トマスが口にした。

 TOP 

inserted by FC2 system