雲かな、と思ったら、人の顔だった。
 影になってモノクロになった顔の中で、金の眼がつまらなそうな顔でどうやらこっちを見下ろしている。予想だにしなかった人物なので、更に真佳は驚いた。

「何をやっている」

 まるで砂を噛んででもいるかのような語調であった。その後ろで栗毛の馬が鼻を鳴らして、一拍遅れて真佳の顔に生暖かい息を吐きかけた。

「……ヤコブスに起こされるとは思わなかった」
 ふん、と鼻を鳴らす音。「俺だって人を呼びはする。俺が一番近かったからな。寝ぼけて道行きが遅れては敵わんぞ」
 それからぼそっと呟いた。「――これくらいで体力が喰らい尽くされるタマでもあるまいに」

 ……何だか心配されているのかいないのか、微妙なところだなあ。まあ多分ヤコブスのことだから言葉のとおり、本当に心配しているのはこれから先の道行きで、真佳の体では無いのだろう。これがさくらだったら別だけど。
 ひょいっと空気の布団を跳ね除けるように上体をまず起こしてみせた。二言目を放ったときにはヤコブスはもうこちらを覗き見るためにかがみ込んでもおらず、高い塔から見下ろすように寝転ぶ真佳を見つめていたので、頭がぶつかり合うなどという事故は心配するだけ無駄だった。

「寝てた」

 一言。大きく伸びをして、ついでに欠伸を噛み潰しながら口にした。ヤコブスの眉がぴくんと跳ねた。それだけだった。

「もう馬はいいの?」
「とっくにな。休息はとらせた。乗馬する側も十分休息はとれたはずだ」
「さくらも?」
「……」

 こちらを見下ろして眺めているだけの間があった。多分それで、ヤコブスのほうも気付いたろう。

「……ああ、問題ない……ように見える」

 返った答えはさっきのものよりたどたどしくて、頬が緩みそうになるのを引き締めるのに苦労した。
 チッタペピータ、さくらら曰くアルブスの村を超えてさらに西、アルブスの運命鑑定士に視てもらったというその先へ馬と共に一週間。流石に飲み込みが早いもので、乗馬が初めてであるはずのさくらもそれなりに体力の消耗は抑えられてきたらしい。一昨日より昨日、昨日より今日と進める距離が増えてきた。何を隠そうこのパーティ、真佳含めてさくらに対して過保護な人間が集まっているために道行きよりもそちらのほうを優先してしまいがちなため、さくらが慣れなければ先に進もうとすらしない(というのはちょっと大袈裟か)。
 それでもうまくいっているほう――いよいよ立ち上がって背伸びをすると、突き抜けるような蒼穹がぐんと身近に降りてきた。ヤコブスが合わせて一歩後退したのを、空気の感じだけで意識した。見渡す限りの草原、近くを流れる小川のせせらぎ、阻まれることのない風と、青い空。スカッリアに来てから随分と慣れた景色だが、元いた世界を思い返すとふとしたときに強い感慨を感じたりもする。この景色こそ、自分たちのよく知る日本とスカッリアとを隔てる何よりも強烈な亀裂なのだと。

「……貴様は本当に疲れないのだな」

 なかなか離れないなと思ったら、心底怪訝そうに……というか、薄気味悪そうにヤコブス・アルベルティは口にした。スカッリアでは一般的だという金の眼が奇怪なものでも見ているように眇められていた。風に晒されまくってぱさついている黒髪はいつものとおり、黄色いレンズの派手なゴーグルで後ろにぞんざいに流されたまま。口周りにとっ散らかった無精髭と相まって、それは無理くりつくった実にぞんざいなオールバックという感じ。誰もお洒落だなとは思うまいし、本人も無論意識しているわけでは無いんだろう。
 彼の――というか“彼ら”の――アイデンティティである青い上衣は、相も変わらず鞄の奥底に沈められたまま、再び日の目を浴びる時を今か今かと待っている――。

「疲れはするよ、失礼だな」
「……」

 めちゃめちゃ不審な顔で睨まれた。何も信じていないらしい。

「適度に力は抜いてるんだ。これでも。体力の調整は仕込まれたけど、無限回路なんて埋め込まれたよーな記憶はないよ」
「……まあ、構わん」

 何も納得していなさそうな声色だったので、多分本当に言葉は信用されていない。構わんて何だよ。流石にそこまで化物じみた造形はしていないんだぞと、仕方がないので心の中でだけ口にした。
 さくらは乗馬が初めてであると言ったが、当然のこと未だ一人で乗りこなせるまでには至っていない。マクシミリアヌスかヤコブスか、そのどちらかの前に乗せてもらう形でここまで来た(その権利を二人で奪い合って時折どちらからともなく子どもじみたくだらない毒を吐く。そういうのは当事者以外、全員右から左へ受け流しているが、乗せてもらっているという関係上間に挟まれる格好になっているさくらは流石にそうもいかないらしく、乗馬よりはむしろこっちのほうで体力を使い果たしている感がある。マクシミリアヌスもヤコブスも気付いていないが)。
 そんなわけなんだから、真佳よりも他人を乗せて気を使っているヤコブスのほうが疲れやすいのは当然なのだ。マクシミリアヌスもヤコブスも、随分体と精神力を鍛え上げてきたんだろう。
 ヤコブスにひっついて――と言うよりまあ、正確には目的地が一緒だからなだけなんだけど――一塊になったパーティに合流すると、そのマクシミリアヌスが非常に難しい顔をした。真佳の側までわざわざ二歩ほど近付いてきてから、その巨体を屈め低声で。

「何を話しておったのだ?」
「何も」反射的に答えてから、多分これでは駄目なんだろうなと気が付いた。「……うーん、疲れてないかってゆー……気遣い?」

 そういう類いのものだったっけ? 言っていて自分でも分からなくなったが、まあ多分あながち間違いでもないだろう。深く考えないことにする。
 花崗岩みたいにごつごつしているマクシミリアヌスの顔面が、更に渋面を形作ったのを見てとった。

「ふん……まあいい」

 何も納得していなさそうな声色だった。
 ついさっき、同じような色の声音を実際耳にしたような。

「ここから更に西方へ前進するが、これまでより足場が悪く馬を御すのも難しい場所だ。君は慣れているかもしれんが、使う精神力は比にならん」
「そこまで足場が悪いなら流石に初めての立地かもな……。さくらは誰が乗せるの?」

 物凄く苦々しげな顔をされた。苦虫を噛み潰しているどころか、マクシミリアヌスの喉から苦虫が抽出されて来そうな様相。その顔だけで次の言葉は推定できる。

「あの邪教の頭領だ――」

 ヤコブスを指してそう述べた。


シェーナ:はらから



 魚の鱗のような地形をしたスカッリア国には、一つの宗教しか存在しないとされている。太陽の御子たる赤ん坊を祀るソウイル教。国の政治を機能させ、他国の攻撃から国を守り、自国の争いを取り仕切る。それは宗教だけにとどまらない、国にとっての主要設備を全て擁する、実質国の機構であった。頭髪と同じ茶色い髭を野生の猛獣みたいに生やしたこの巨漢、マクシミリアヌス・カッラは、ソウイル教の正式な軍に所属する、言わば立派な軍人だ(今は軍服の上着を剥ぎ取っているために、一見して軍人であるとは分かりづらい)。ソウイル教を代表していいぐらいの敬虔なソウイル教信者で、これまで数々のソウイル教に属する人間を見てきたけれど、彼くらい誠実に真っ当に、神に全幅の信頼を寄せている者を真佳は知らない。
 ……一つの宗教しか存在しないと“されている”と前述したとおり、明言されたわけではないけれど、蓋を開けてみれば公式に認定されていない宗教は星の数ほどあるようだ。ヤコブス・アルベルティはそのうちの一つ、同じソウイル教ではあるけれど、公式に認められたものではない、強いて言うなら“新教”と呼ばれるものに属していると聞いている。ヤコブスだけじゃない、真佳とさくらとマクシミリアヌス以外の四人もそう。彼らはヤコブスにくっつく形で、このパーティに合流することになったので。
 新教と旧教(便宜上、ヤコブスとマクシミリアヌスの信奉する宗教はこういう言語で識別される)、同じ神を祀りながらその形態は相違点が多くあり、そして、同じ神を掲げていながら彼らの多くは……仲が悪い。
 マクシミリアヌスが後ろを振り返った。真佳の更にその後ろ、濃緑の槍で貫くような様相でその一点を睨みやる。
 ……どうにか溜息を押し留めながら、真佳もちらと後ろを向いた。さくらとヤコブスが騎乗した馬がすぐそこを闊歩していて、更に後ろに残りのガプサ(つまりは新教に属する彼らが自称として使う言葉だが)の面々が。
 何か、軽い話をしていたようだ。大丈夫かとか、疲れてないかとか、多分そんなこと。さくらは多分大丈夫だと口にした。絹糸のような焦げ茶色の髪の毛が、彼女が首を振るのに合わせて小さく戦いで風の囁きを狂わせた。
 マクシミリアヌスはまたすぐ前を向いたらしい。真佳が視線を戻したときには、いつもの雄々しく力強い真四角の背中が真佳のほうを向いていた。
 ……何で私はよりによってこの二人に挟まれてなどいるのでしょう?
 もう何千回も思ったことだ。せめて誰か一人でもこっちに来いよ。私だけが針のむしろだよ。可哀想だと思わないのか。休憩の時に実際言ったら、肩を竦めて全員目を見合わせて「オレらに間に入る義理があると思いやす?」とか抜かしやがった。“大鼻”トマスはその後付言として飄々と、「寿命が縮みそうな位置に自ら行く命知らずはいませんや」。後で覚えておけよと、頭の中のメモ帳のトマスの顔に赤ペンでぐるぐる丸を描く。
 ガプサ五名、ソウイル教治安部隊員一名、それにこことは異なる別の地維、大昔にも一度訪れた者があったとされる異世界人が計二名――
 真佳とさくらの、それが現状のはらからだ。

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