秋風真佳がさくらとヤコブスに街壁の麓まで連れて来られたとき、ちょうどガプサの面々は順に地面に降りていた。長い縄や細長く割いた洋服をうんと高いところ、壁の頂上からぶら下げて、それを頼りに下ってきたらしいと一目で分かる。

「――何だ、一件落着かい?」

 蓮っ葉な物言いでこっちに気付いたカタリナ・モンターニャが口にした。最後の一人となった糸目のフゴが、若干危なげに靴裏を地面に擦り付けた(「つつがなく」とヤコブスはそれに応じた。本当につつがなくだったか?――突っ込みたかったが、今回彼らを危険な目に遭わせたのは真佳自身であったので敢えてツッコミはやめにした)。

「貴様らも随分苦労したらしい」

 簡素な煙草入れから煙草を一本取り出して、ようやっと落ち着けたとばかりそれの先端に火を灯す。チョコレートの甘苦い香りが遅れて鼻腔をくすぐった。ゴーストタウンみたいに活気を失っていた富裕の街――遠くのほうでちらほらと人のざわめきを感知した。人の営みが戻りつつある兆しがあるということだ。一際大きい、聞き間違えのないような野太い声もどこかで聞いた。夜は明け、この国が祀る太陽も徐々にあるべき座に還る。

「頭を使わない単純な肉体労働さね。苦労だなんて思ってないし、あんたも思ってはいないだろう?」

 生まれ出づる朝日の中、ガプサの女は実に不遜な顔をする。こういう肝の据わった人種でなければ、きっとヤコブスの隣に居座ることは出来ないんだろうと考えた――彼はク、と短く喉を鳴らしたが、それが笑ってのことかどうかは微妙なところとも考える。

「直、教会がなだれ込む」

 煙草の煙を吹かしながら全然別のことを彼は言う。目線は遠いところにあるために、それが忠告であるということに気付くまでには時間を要す。
 副流煙を伴う吐息。

「連れ去られたくなかったらあの大男にとっとと声をかけるがいい。教会によって門が開かれた暁には、俺は容赦なく貴様らを連れてここを出るが構わんな?」

 構うに決まってるだろーがと心の中で突っ込んだ。

「……いいけど、アンタらどこで待ってるって?」虚をつかれた様相で瞬きながらさくらが言った。
「このまま先に進むんなら西門がいいんじゃないか?」カタリナが言った。「一番目的地に近いだろう? 上から見たところ、教会は首都のある東側から来るようだから、そういう意味でもあたしらにとって有り難い」

「そういうことだ」煙草の煙を吐き捨てながらヤコブスがそれに乗っかった。特に異論は無かったために、さくらと二人、一時的な別れを告げて声のするほうに踵を返す。マクシミリアヌスのことだから、きっと教会のほうにいるんだろう。瓦礫の撤去も大事だが、不安を感じている街の人間の精神ケアも重要だ。真佳らが夜通しガッダの館にいたように、マクシミリアヌスも夜通し働いていたのに違いないと考える。人の気配が無いくせに少しも損傷してない家屋の間を、さくらと二人並んで歩いた。

「……初めからああするつもりだったの?」

 ふと思いついたみたいな感じでさくらに言われた。
 カタリナらがいた南門近くの壁から中央寄りにある小ぢんまりした教会まで、端から端ではないものの一応それなりの距離はある。
 それがスサンナとガッダのことであることを、聞くまでもなく真佳は察せた。

「――」

 さくらがそう問うたのが意外であった。そういえば、彼女はスサンナと一緒に卿の館へ来たのだっけ。街へ入って館に来るまでの間に、彼女らの間で一体どんな会話が交わされたのか。
 あの後、スサンナと卿がどうなったのか真佳は知らない。事態を見届ける前に、さくらとヤコブスと三人揃って外に出た。きっとスサンナは上手に卿を殺せたろう。そこに疑問の余地は無いし、仕損じることはあり得ない。

「マナカ――」

 あの時、去り際に一言ガッダが呼んだ。

「変なことを聞くようだけど――貴方は言葉の魔術使いか何かかい?」

 物凄く真面目な顔をしてそんなことを。流石に本気か冗談か測りかね、即座に答えは返せなかった。自身の血液をたっぷり浴びた洋服からは、こっちがくらくらするくらいの鉄錆のにおいが漂った。多分、ガッダはこのままスサンナに殺されるのだろうと思われる。

「突飛なことを口にしているのは理解している」

 真佳の反応に気分を害したのか、むすっとした顔でガッダは言った。顔が綺麗なので何をしても様になる。

「ただ、あのスサンナが――」

 躊躇うように口にした。

「あのスサンナが、ああも容易く気分を変えるとは思わなかったものだから。僕は何か、彼女の益になることを知らず口にしていたかい? そうでなければ貴方の偉業であるのだろう?」
「…………」

 何ともまあ呆れたことに……ガッダ卿だけはあの状況についていけてなかったらしい。突然スサンナが意見を翻したのだと、そういうふうに感じたようだ。人間らしさを期待しても無駄だとは、言い得て妙だと言えるだろう。

「この数年間、ずっと足踏みしていただけだよ」

 と真佳は言った。

「本当ならもうこの結末は決まっていたのに、卿が最後の撃鉄を起こさなかった。これはただそれだけの話」
「……?」

 まだ分かっていないようだったので、仕方なしに心の中だけで問いに答えた。――卿が今のスサンナを認め、今を見、肯定していたのなら彼女は何の憂いもなく早くにキミを殺したでしょう、と――。それだけでよかった。そしたらスサンナは卿を殺すことを決めたのに。ただ彼女は、霧のように朧気な童話の存在にはなりたくなかった。楽しかったでも、恨んでいたでも、嫌悪していたでもいい。何か一つ、ウィトゥス・ガッダという男の中で、何らかの爪痕を残したかった。だってそうでなかったら、自分が得たこの数年間の実態は一体何であったのか。
 きっと彼女は負けず嫌いなのだと思う。
 だから今を、現況を見ていない卿の目線が許せなかった。
 殺すわけにはいかなかった。だって何も証明してやいないから。

「――なるほど、人心とは計り知れない」

 と卿は言う。まるでニンゲンという生き物とは相容れないといったような話をしているが、こいつも人間であることに変わりは無いはずなのだ。きっとこの数百年で人間性が剥離したのだと真佳は思う。

「……そうだね。昔はもう少し、人の心くらい理解できていたと思う」

 表情を和らげると紫色の双眸が細められ宝石みたいな光を宿す。今の今まで知らんぷりを決めていた曙光が、漸く東の空から淡く怠惰に窓を突き抜け地表を焼いた。

「けれど今は人ではない。ゆめ忘れるな。貴方がここで遭ったのは、吸血鬼と呼ばれる禍事にほかならないということを」

 ――。
 …………。
 ………………。
 初めからああするつもりだったのか、と、さっきさくらに尋ねられた。

「まあ……最初はスサンナに片をつけさせるつもりだったのだけど」

 スサンナがだんまりを決め込んだので、結局真佳が言うことになった。でもまあ考えてみれば当然だ。それをあの時自分から聞けていたのなら、きっとこんなに長い年月はかからなかった。

「ウィトゥス・ガッダはああやって認めてくれると思ってた?」
「どうだろう……一か八かだったのは本当だけど、でも」

 ――息を吐く。

「この二日間、ガッダ卿と過ごしてみて、私もスサンナと同じことを疑問に思った」

 ふうん?と尻上がり気味にさくらが言って、それに関してはさらに追求してくることはしなかった。これ以上の解答は真佳も持ち合わせていないのだから当然だ。
 ……この二日間、きっと一瞬一瞬はガッダ卿にとって有意義な時間はあっただろう。笑顔の全てが嘘ということは決して無い。それが分かったのなら、その先はスサンナに任せられると考えた。

「結局殺してしまうことになるわけだけど」

 とさくらが言った。

「アンタはそれでよかった?」

 ――真佳より少しだけ高いところにある、さくらの横顔を盗み見た。
 さくらはこちらを見ていなかった――銀の双眼を凛と朝日に染まりつつある街に向け、朧気に見えてきた中央区画の建造物だけを怠惰に見据えているように思われた。ソウイル神がまるで贔屓をするように、彼女の綺麗な顔と黄枯茶の髪をそこだけ主の恩寵で満たしたように錯誤する――実際には陽光というものは分け隔てなく平等に、この地表を焦がし続けているわけだけど。

「――」

 何と返答するか、少し迷った。

「これ以上は……私の我が儘になってしまうから」

 卿の死にたいというのが我が儘だと言うのなら、真佳の出来れば生きていてほしいというのも単なる下らない我が儘だ。卿の我が儘を否定すると言うのなら、自分の我が儘を通すことだってできはしまい。
 さくらが少し笑った気がした。風の精霊が悪戯したみたいな笑声が鼓膜の表面を刺激した。

「生きづらそうな性格ね」

 相変わらず、というのを含んだ声音でさくらは言った。数時間ぶりに見るな、というのを真佳は何とはなしに考えて、疑問に思う。会っていなかったのは二日全てなのだから、数時間ぶりという表現は間違って――
 あっ、
 とそこで何かが弾けた。
 気が付いた。ガッダの屋敷で会ってからこっち、さくらは少しも微笑いはしなかった。

「さくらは、」

 舌っ足らずになった言葉を中途のところで呑み込んでもごもごする。「?」さくらが疑問符を浮かべて、さくらより少し歩みが遅れた真佳のほうを目で追った。

「――」

 ……さくらはそれでよかったの、と尋ね返すのは簡単だ。
 簡単なのだが、何故だろう。それは少し躊躇った。だってそれでいいはずが無かった。極力生かしたいと考えたのは、真佳だけでは無かったはずだ。さくらが人の死を容認するなんてこと、まかり間違ってもあり得ない事柄だって知っている。
 多分真佳は言葉を探しすぎたと思う。歩調だけは速めてさくらと肩を並べた真佳に対し、小首を傾げて髪を揺らして、さくらは実にたおやかに微笑した。

「構わないわよ」

 ……と、確かにさくらは口にした。真佳が何も言葉にしていないにも関わらず。

「仕方ない。そればっかりは。アンタもそう言ったでしょう。ウィトゥス・ガッダを生かしたいのも、彼女に殺させたくなかったのも、全て私の我が儘だった」

 なら仕方ないのだと彼女は言う。「……約束は、約束にはならなかったけれど……」前を向いて呟かれた言の葉の意味は、真佳には理解出来ないものだ。

「……生きづらそうだね」

 と真佳が言うと、さくらは「そうね」と言って口端だけで小さく笑った。自分は一体何を躊躇っていたのか、真佳と違ってとっくの昔に生きづらい自分との折り合いをつけているさくらにとって、その質問はあまりに今更なものであったと改悟した。真佳が尋ねるより先に、きっとさくらは自覚して自認してあるべきことを呑み込んだ。
 ――だから真佳は吐息する。この世界に残る要因となったもの、さくらに帰れないと言わしめたもの、さくらの探しているもの、真佳はそれを知っている。より正確に言うならば、正しく理解しているのだと言うべきだ。それは彼女の両親の死に関する情報、などという生半可なものでは決して無い。
 彼女が探しているのは、彼女の両親を殺した犯人――そのものだ。
 さくらが気付いているかどうかまで真佳は知らない。犯人の手がかりくらいは思っていそうだが、それがどこまでのものかどうかまでは。……しかし、首都、ペシェチエーロの運命鑑定士がさくらの“探しているもの”と言った以上、それは真実さくらの“探しているもの”であるべきだ。
 ――天を仰ぐ。
 そして真佳はさくらと共に、これからすぐと西へ往く。彼女が探しているもの、彼女が求めているもの、きっとそれにはすぐ出会う。


ミカヅキ



 ――遠くでマクシミリアヌスの声がした。

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