――卿は何も見ていなかった。
 誰のことをも見ていなかった。彼は過去にも親しい友人がいたと言ったが、きっと彼らをも、本当の意味では何も見ていなかった。卿が見ているのは死と神だけで、その相反した思考が現実というものを眩ませた。だから真佳(わたし)は――――――


鉄錆の花



「――さて、卿。スサンナがキミを殺す手段を携えていたなんて、キミには寝耳に水の話だったでしょう」

 まるで物のついでのような言い方だ、とさくらは思う。空気は完全に弛緩していて、そこだけ別の空間のようにも思われる。そこには未だ長い夜の帳はおりていないし、部屋に充満した血のにおいすら漂っていないのじゃないかという錯覚――。
 彼女は自由闊達に過ぎている。空気抵抗すら感じない。――不可思議なほどに。

「……どうやらガッダの呪いが、精神にまで作用していたらしいのでね。僕の千里眼では、どうあっても見通せなかったものらしい。僕はこの局面に陥るまで、彼女が何を掴んでいたか、その一端さえも、どうやら知り得る権利を得られなかった」
「知っていたら、ほかの人に頼んだのでしょうね」
「多分ね」――笑いながらウィトゥス・ガッダは口にする――「絵画を傷つけるというだけなら、きっと誰でも可能だろう。殺し屋である必要さえ無い。殺人に抵抗を抱く人間は多分だが、絵画を傷つけることに躊躇いを覚える人間はそれよりずっと少ないものね。街中に巣食う、僕を嫌っている輩の一人でも捕まえて、燃やすなり何なりさせればいい。――もっとも、その燃やす対象を僕の殺し屋は誤っていたようなのだけど」
「――では、スサンナには頼まなかった?」

 ――弛緩していたはずの真佳の周囲の空間が、一瞬凝結したかのように思われた。
 絶えず笑みを湛えているのに、その赤い双眼が笑っているように思えない。縮瞳。それは捕食者の両眼だ。

「……? 当然だろう。その方策を僕が識るということは、彼女が僕を殺す気がないということを、同時に知るということだ」

 殺し屋の側を盗み見た――彼女はその場から一歩も動いていなかった。身じろぎさえしていない。足まで覆う長い外套が、凪のように大人しい。

「……殺す気はない殺し屋に、意味は無いから?……」

 真佳の声は静やかに――凪の殺し屋と同調したように、静かに彼女は言葉を紡ぐ。自身の音が一滴の水滴と成り得ぬように。凪は凪のまま、平穏な水面を保てるように。

「僕はそのために、殺し屋を雇っているんだぜ? 話し相手が欲しかったというわけではない。貴方も知っているように、僕には時間があまり無い。それは実質的な時間ではなく、感覚的な時間の話。微生物が有機物をじりじりと分解しているかのような長大で退屈な時間の連続は、ヒトの身で見るには長すぎる」
「――」

 だから早く殺してほしい、のだと――……。
 ウィトゥス・ガッダは何もぶれない。そんなことは初めから理解していたし、真佳も知らないなんてことはなかったはずだ。長年思い続けたはずの悲願を、覆すことは誰にも出来ない。

「退屈だった……?」

 真佳は言った。
 それはどうやら純粋な疑問というわけではない。跳ね上げられた語尾から見ると、今にも笑い出しそうか、あるいは泣き出しそうに思われた。

「冗談。さっき言ったことを覚えているぞ、ガッダ卿……」燃えるような赤眼で眼前のウィトゥス・ガッダを見定めるように睨め上げて。「面白いと思える存在に出会ったと言った、友人を得たとも口にした。全てを覚えているとそう言った」

 ――光は通常、直進する、と、ユークリッドは見出した。
 フランスの数学者、ピエール・ド・フェルマーは、「光はその光学的距離が最短になる経路を取る」と告げている。
 ウィトゥス・ガッダが片眉を怪訝げに跳ね上げた。

「何が言いたい?」
「何が?」

 馬鹿にしたように鼻で笑って、

「何も見ていないなんてことはあり得ない(・・・・・)

 ――殺し屋の彼女の指先が、ぴくりと僅かに動いた気がした――

「キミは見ていたとも。この世界を、数百年の時間の流れを。ああ、満喫していたとも。だってでなければ、友愛を感じることも興味を覚えることも無かったはずであったのだから。キミは流れる時間を見、快事を感じ、その上で今を否定した。感じていたのは退屈ではなく焦燥と神に対する引け目であって、不老不死というオプションが無かったならばキミは人生を楽しんでいた、はずだった」

 殺し屋は既に真佳を凝視していた。真佳より彩度の高い明るい赤目が、目一杯まで見開かれた状態で真佳の立った空間を。
 殺し屋の喉が隆起する、その様を、辛うじてさくらは視認する。

「無意味だ、なんてことはなかった」

 真佳が言った――。

「そこに一瞬でも、悦楽の兆しがあるのなら」

 ――――――ウィトゥス・ガッダが吐息する。感嘆の混じった吐息ではなく、諦念の色の濃い吐息。そこに疲労の意味こそあれど、興奮の意図は含まれない。
 それでも――ああ、それでも、さくらには真佳の意図が分かってしまった(・・・・・・・・)

「その一瞬は認めよう。――そうだね、常に退屈を感じていたわけではない。貴方の言うとおり、それは退屈ではなくて焦燥と引け目と呼ばれるものであったことも否定しない。……物語に散りばめられた幕間のような間隔で、僕の感情に悦楽があったことは認めよう。……楽しかった。これが永遠であればと感ずるほどに、私は神に懺悔した――」
「――」

 誰かの喉が詰まる音。――そうは長引かないさ、と、少し前に真佳は言った。ああ、なら、本当に長引きはしないだろう――。

「しかし無駄な話だ。どうあっても無駄なことだよ、マナカ。だからどうした? 大局は何も変わらない――」
「変わるさ」

 ……それまで亡霊のように立ち尽くしていた殺し屋の女が口にした。
 ウィトゥス・ガッダが驚いたように目を瞠る。そこに女がいたことさえも、忘れていたようだとさくらは思う。

「――ああ、もう……もっと早くに認めてくれてれば、あんたも遠回りなんてしなくてよかったのに。強情だよな、ほんと――」

 片手で顔を覆いながら蓮っ葉な物言いで口にして、何か――唇の動きだけで付け足した。真佳の側からは彼女の手のひらが邪魔をして付け足したことさえも見えなかったのだろうけど、さくらの側からはよく見えた。湿った吐息。彼女が何を口にしたのか、唇の僅かな動きは見えても解読までは困難だ。
 それでも、彼女はきっとウィトゥス・ガッダの言葉を繰り返すようにこう言ったのだ――楽しかった、と。噛みしめるように。魂の奥のさらに奥、根っこのところに大事に大事に、刻みつけておくように。

「マナカ」

 女が言った。

「……その。気を使わせて悪かった」

 真佳が短く首を振る。口元に微笑を残しての否定の意思。微笑っているのに、けれど何かを堪えるような笑みだった。殺し屋は一瞬、ちょっと迷ったような間を見せる。

「……最初からこれが目的だったのか?」

 真佳が小さく頷いた。

「……にしては、随分突っかかって……いや別に、そこに関して今は恨んではないんだが……」
 ……真佳は少し意外そうな顔をして、「うん。……だって、本当ならキミに卿を問いただしてほしかったからね」

 ――殺し屋が短く吐息した。

「そうか。……手間をかけて悪かったな。そうだな……最初から、逃げずにちゃんと向き合ってればよかったんだ」

 そうしたらウィトゥスも苦しまずに済んだんだ――ということを、彼女は唇の先だけで呟いた。それは真佳のほうには届かない。

「ごめんな、ウィトゥス」

 吐息のついでのように彼女は言った。

「もう何の憂いもない。先延ばしにして悪かった」

 名も無き殺し屋が振り返る。さくらのほうにではなくて、ウィトゥス・ガッダの佇む側へ。鉄錆のにおいの交じるこの部屋で、彼女は実に恬淡寡欲な顔をした。

「誰かに頼る必要もないさ。僕が貴方を殺してあげる」

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