真佳が怒りを覚えているのは間違いない。その原因がどこにあるのか、さくらは実際に尋ねたようなことはない。そんな隙間は無かったからだ。もうすぐ日は昇って二日目が終わる。真佳と分かたれたこのたった二日の間に彼女が何を体験したのか、さくらには想像しようもない。
 ――ただ何に苛立っているのか、その理由は分かった気がした。何だか知らないが――奴は、“殺し屋”のために怒号を吐いているのである。


残存いただき光栄です


 ――殺し屋の女は動かなかった。少なくともさくらの見える範囲では。その双眼がどういう意味を持ってどこぞに向けられているのかまで、彼女の斜め後ろに位置するさくらの側からは捉えられない。

「殺し方が分かってたくせに今まで殺そうともしなかった時点で、それはスサンナが一番よく分かっていたはずだ。私を焚き付けた理由は一体何だ? キミの代わりに卿を殺してくれる人間が欲しかったからか? そうしたら自分が卿を殺すという役回りを、永久に実行不可能なこととしてうっちゃることが出来るんだものね。今、わざわざこうやってやっと殺しに乗り出して、自分が思っていた手段が通じないという現実に打ちのめされている理由は何だ?」吐息するだけの間を置いた。「卿を殺すというたった唯一の役割を、ほかに渡したくなかったからか?」
「っるさいうるさいうるさいッ!!」

 真佳の挑発しか存在しない声色についに殺し屋が声を荒げて空気を強く震わせた。それはほとんど正方形の居間兼客間によく響き、喉のあたりをも侵食していた血の臭気というものを、一時忘れさせるほどの鮮烈な叫喚。

「――」

 真佳までもが押し黙った。それは気迫に呑まれたと言うより、女の答えを待っている意味での間隙だ。彼女の荒い息遣いだけがこの空間を支配する。

「――黙って聞いていれば勝手なことを」

 しゃがれた声で、女は言った。

「誰が殺すかなど僕にはどうでもいいことだ。言っただろう、その行動に特別性は無いのだと。役割をほかに渡したくは無かったからだと? そんな醜い執着性などあるものか。侮るなよ――たとえ貴殿が赤目の人間であったとしても限度があるぞ」

 ――彼女の後ろに控えているさくらでさえも気圧されるような、地を這うことで獲物に近付く蛇のような声だった。一歩、知らずに退いていたことを靴裏の感触で察知した。なのに真佳は――
 ……真佳が涼しい顔で変わらずそこに在ることに、さすがのさくらもぞっとした。隣でヤコブスが口を開きかけた気がしたが、結局言葉を発しはしなかった。――まるで外眼筋が硬直したように視線が真佳を向いている。

「――じゃあこれで終わり? ガッダ卿の弱点を守り通すことに永く神経を尖らせ続けてきたくせに?……
 スサンナ。私はキミが肖像画の可能性に思い至っておきながら、もう一つの肖像画に目を向けないなんてことはあり得ないはずだと思ってる。だってキミには私以上の時間があった。私より多く玄関ホールの画を見つめ、私より多くの事柄を思考している聡明なはずのスサンナが、そんな当たり前のことを失念しているはずがない」
「っ――」

 女の足裏が地面を擦った。分厚いカーペットは彼女の動きに微塵も動きはしなかった――彼女の頬が、歯を食いしばる形に隆起した。

「それでもそこで思考を停止させたのは――」
「煩いッ!!」

 ――弾丸のように飛び出した彼女の姿に一瞬思考が出遅れた。「っ――」さっきまでそこにいた彼女はさくらの目の前から掻き消えて、一直線に――真佳の側へと。

「――」

 真佳、と言おうと口にしようとしたものの言葉が喉から出てこない。脳が状況に未だ追いついていないのだ。言葉を紡ぐだけの余裕が今、さくらの脳には一切存在していない。
 女の前方、扇状に物体が浮遊していることを視認した。視線を転じる――もうそこには無いけれど――床に放り出されたキャンバスに刺さっていた刃と同じ。話に聞いていた毒の武器。ベレンガリアを毒による混迷に陥れたあの刃。

「――それ以上、考えたくはなかったからだろう? 卿を殺す方法を」

 金属音。
 刃の形に硬化した毒という概念も、同様に硬質な音がすることをさくらはこの時初めて知った。真佳はそこから動かなかった。その手に携えたクナイ一本で全てを弾き返したらしかった。同時期に無鉄砲に発射された殺し屋のそれは、衝動的なものだったにしてもクナイ一本でこうも容易く弾かれたのだ。

「――」

 殺し屋の荒い息遣いを耳で聞く。毒の刃はもう彼女の前に浮遊してはいなかった。第二撃を放つつもりも、どうやら彼女に無いようであったのでさくらは少しほっとした。「――」殺し屋は、口を噤んだらしかった。

「……卿」

 仕方がないなとでもいうように、真佳が溜息混じりにガッダの呼称を口にした。真佳が睥睨してからこっち、自分から会話に割り込むことを律儀にも自重していたらしいウィトゥス・ガッダが、眼鏡の奥で少し胡乱げな顔をした。

「疑問に思ったことがある。卿が持っているもの、欲しているもの、感情でも過去でも記憶でもいい。それらは全て、本当に死の願望というものの上にのみ存在していたものなのか」
「――」

 ガッダは鼻白んだんだとさくらは思った。血のにおいの最も充満したその場所で、においでなく真佳の言葉にのみ困惑したように躊躇した。

「……僕に人間らしさを期待しても無駄だ、マナカ」

 恐らく心を覗き見て――一転、憐れむような目線でもってガッダが言った。その時、真佳が何を考えていたかなど、無論さくらに知りようがない。

「少なくとも数百という単位の年月、何も無かったとは言わないけどね」血に汚れた壁に何の躊躇いもなく背をつけた――服自体、既に取り返しのつかないほど血に塗れてはいるのだが。「それはどれも、僕の支柱には成り得なかった。そもそも土台が砂で出来ているのだものね。その上に何を建てたところで、崩折れるのは至極道理であったのだ」

 ウィトゥス・ガッダは吐息する――長年の毒を吐き出すように吐息した。まるで人生の酸いも甘いも噛み分けたかのような老齢特有の長息は、似つかわしくない若人の喉から紡がれる。老いを感じさせない肌、神御自ら作り出したに違いない完璧な造作。芸術品と見紛うそれは、瞳に乗せられた疲れと諦念によって間違いなく血の通った人間なのだということを否が応でも知らしめる。

「――マナカ。僕もね、何度か諦めかけたことがある」

 心情を吐露するように男は言った。

「貴方のような面白い存在に出会ったことが無いわけじゃない。スサンナのような知己を得たのも、一度や二度ではなかったとも。その全てを覚えている。鮮烈な記憶としてここにある」

 ――ウィトゥス・ガッダは緩く握った拳を、心の臓に押し付けた。眼鏡の奥に秘められた双眼は薄く閉じられ、その隙間からは多分――ここでは無い、どこかを覗き見ているのだろうと考えた。この瞬間、充満していた血のにおいすら遺却した。

「……しかし結局はそれだけだ。代えがたいものは幾つもあるが、それは通常、人の枠を超えてまで手に入れるべきものではない。……人の生は神の決めた枠の内――それを超過することでさえ罪悪であるのに、悪いことに僕は幾つもの掛け替えのない思いを手に入れた。
 ――分かるだろう? それに充足感を覚えたとして、次に現れる感情は愛念ではなく悔悟の念。神への懺悔と、早くこの生を終わらさなければならないという焦燥だ」
「――」

 息を呑んだのは真佳か殺し屋か、あるいは――
 それは個人ではなくこの世界、この場そのものの集合としての畏敬であるかもしれなかったと、さくらは承服を禁じ得ない。ウィトゥス・ガッダだって、何も軽い気持ちで死を希求し続けているわけではない。覆らない。そのことだけは。――たとえ誰が言葉を募らせ続けようとも。
 心の中で謝罪を述べた。スサンナと呼ばれた少女に対して。生き延びさせるなど、安直なことを発したことを。――殺し屋はきっととうの昔に理解し尽くしていたのだろう。だから彼女は、己の年月を振り払って男を殺す道を採る。その結末が、つい先程の顛末だ――。

「だから殺させる?」

 真佳は言った。

「そういうことだ。強引であったことは認めよう。済まないと思ったことも認めよう。僕は、僕の想いを曲げないが」

 ――真佳は短く吐息する。

「成る程、スサンナが諦めるのも道理だな」

 そこに承服の色は無かった。苛立たしげな色こそあれ、容認したような色合いはそこに微塵も無かったのだ。

「卿。私はね、キミが死にたがっていることに対してどうとも思っていやしないし、別に死んでもらっても構わないと思ってる。私が手を下すんでなかったならば、キミの思いを尊重するさ。私の道のりは死と隣合わせであったもの。日常化しこそすれ、死を特別なものなどと思ったことは一度も無い」

 夜闇というフィルターのかかったウィトゥス・ガッダの紫色の双眼が、僅か見開かれたと直覚的に考える――感覚に頼るしかできないくらい、その反応は微弱であった。その眼光に――敢えて直訳を述べるなら、紫色の情熱を持って(・・・・・・・・・)いるかも分かりにくい。

「死ぬな、とは言わない。それは人間の持つ、最後の自由であるべきだから。――自分では自分を殺せない、と、前に卿は言っていたね」唇を湿す。再び真佳は言を継ぐ。「自刃するならとめないが、やむを得ないでも人を巻き込むのならそれは卿の我が儘だ。我が儘である以上、こちらも我が儘を通させてもらう」
「――――――貴方が?」

 ガッダの声は平淡だった。冷淡であった、と言い換えてもいい。先程ガッダが一席ぶった、皇帝もかくやとばかりの物の言い方を想起した――人を従えることに慣れ親しんだ人間、人の上に立つことを当然のことと学び続けた圧倒的な重みと一度限りの寛容さ。そういう、“支配する側の人間”から温かみを一切合切差っ引いたのが、今のウィトゥス・ガッダの声だった。
 ――王者が民を想うことをやめたのだ――
 胃が屈服を表するのも道理であろうと、ぎりぎりのところで踏みこたえながら思量した。

「私以外の誰がいる? 悪いけど私は諦めない。私が諦めない限り、卿が死ぬことは許さない」

 ――矛盾しているように聞こえたとしても可笑しくはない物言いだ。自刃するのを認めていながら、納得させない限り死なせないと口にする。
 ウィトゥス・ガッダは思案を見せた。革手袋に覆われた左手で顎に触れ、視線を彼方へ転換させる。白くしなやかな顎に赤い血痕が残ったが、ガッダは気にも留めていなかった。

「――まあいいだろう。死ぬ方法は分かっているからね。貴方のおかげで。これぐらいの恩返しなら付き合おう」
「まあそうは長引かないさ……」

 その意味合いはどうやらガッダには通じなかった。きっと正確な意味を伝えるつもりも無かったのだろう。血のにおいが決して掻き消えない部屋のほとんど中心で、真佳はクナイを仕舞いもせずにこう告げた。

「さて、卿、ウィトゥス・ガッダ卿、ロード・ガッダ。私はキミに、ご謹聴を要求しよう」

 ――どうすれば真佳が納得する事態に成り得るのか、いつ諦めてくれるのか、詳しいところを真佳は結局語らない。奴が何を求めているのか、そこのところが、さくらにもてんで分からないまま――秋風真佳は次の言葉を口にした。

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