既望


「…………何で…………」

 ――という一言は、殺し屋の彼女の口から漏れた。キャンバスを握る手はいつの間にかすっかり色を失って、いつ落っことしても不思議じゃないほどに頼りがない。
 色を失っているといえば、さくらのほうだって恐らく負けてはなかったろう。今目にしているものが信じられない思いであった。彼女は――というのは殺し屋の彼女のことだが――キャンバスを壊せばウィトゥス・ガッダは死ぬのだと、そう口にしていなかったか?

「何で、と言われて困るのは、僕のほうだとは思わないかい?」

 嘲りも呆れも含まれていない声音で男が言った。眼鏡のツルから垂れたチェーンがしゃらしゃらと細やかな音を立て、ウィトゥス・ガッダの困惑と、それから若干の失望とが込められた吐息に添えられた。

「聞きたいのは僕のほうだぜ、アッサッスィーノ。僕はこれで、やっと生を終えられるのだと舞い上がっていたのだが」
「だっ――」

 殺し屋の彼女は一瞬言葉を詰まらせる。

「可笑しいのは今の現状だ。僕だって想定していなかったさ、何であんたは生きている? 僕の推測は完璧だった。だからこれでようやっと、無意味な今日に終止符を打てるはずだろう……!?」
「……――」

 不自然な、ぎくしゃくした動きで自然真佳を視軸の先に据えていた。“それではウィトゥス・ガッダは殺せない”――断言したのは真佳の喉だ。状況の説明は真佳であれば可能であったはずだった。この場にいる全員が、皆一様にそんなようなことを考えた。

「……だってそれしかないでしょーが」

 視線の放射に鼻白んだように真佳が言った。数分前の空気を自分が打ち破ったにも関わらず、皆の反応に困惑しているようだった。

「スサンナがキャンバスを貫いたところで卿は顔色を変えはしなかった。ってことは、解答が別にあるってことだ」
「解答だって?」

 スサンナ、と呼ばれた女が気色ばむ。――何だか成り行きで名前を知ってしまったが、彼女はさくららには自分の名前を明かさなかったのだ。聞かなかったことにすべきだとさくらの裡なる声がそう言った(……出会ったことが間違いだったのだと彼女は言った。まるで真佳と殺し屋が出会ったことは間違いでは無かったかのようだと穿ったことを考えた)。

「僕を殺せないという解答かい?」

 ……真佳の一睨みでウィトゥス・ガッダは即座に軽口を引っ込めた。抗議するように一度肩を竦めてみせたのを、視界の端にさくらは捉えた。

「だって現実はそうだ。言ったでしょ、それでは卿は殺せない」――何故自分がクナイを握り込んでいるんだと言わんばかりに彼女は自分の手元にちらっと片眉を跳ね上げて、服の中に獲物を仕舞い込むだけの時間を入れた。「キミはそれで、本当に卿を殺せるなんてまだ思い込んでるわけじゃないでしょう」

 ……殺し屋は返答しなかった。奥歯を噛み締めているのだということを、さくらは彼女の頬の動きを斜め後ろから観察することで理解した。

「でも、じゃあ……どうやって…………」

 その声はあまりに小さく頼りなく、恐らくそれを聞き取れたのは自分とヤコブスの二人だけであっただろう。彼女らしからぬ声音であるとさくらは思った。殺し屋の彼女はいつも、この世界との繋がりなど一つもありはしないのだというふうに飄々と世界から一センチほど浮いた部分を闊歩していたように見えたから。彼女を捕らえられるものは何もなく、彼女を沈めるものは何もない。
 けれどその気持ちはさくらにもよく伝わった。彼女がいつその方策に気がついたかさくらは知らない。ただ、これが唯一ガッダを殺せる道だと信じて、ずっと悩んできたはずだ。ウィトゥス・ガッダの悩みを断ち切れる斧であると同時に、それはガッダの命を奪う刃だと。だから彼女は使うことをずっと躊躇してきたし、ウィトゥス・ガッダ卿に知られることをも心底恐れた。それが――ただのまやかしだとは。
 苦労と結果が見合っていない。それはあまりにひどい裏切りで、世界から見放されたも同義であろう。

「スサンナが私に言ったんでしょう」

 当然のように真佳が言った。

「私が行っていた尖塔に、私の望む答えがあると。だから私は言われたとおり戻ったし、スサンナはそれを許容していたはずだった」
「――ああ、そうだとも」

 低い声音で彼女は言った。

「僕の思い描いていた解はこの絵画であったはずだった。その口振りなら、貴方も魔術の施された絵の具を見てはいたんだろう? ならば魔術の施された絵画が出来て当然だ。この絵画には無駄な魔術が施されている形跡は見られない。ならもう、消去法でそれ一つしかないだろう」
「そう。でも、消去しなきゃいけないものならもう一つあったはずだった」
「……もう一つ?」

 殺し屋が当惑したように奥歯を噛んだ。そのもう一つがどうやら彼女に浮かばなかった。これが解答で凶器であるのだと、きっと信じ切っていたからだ。……そして信じたくなどなかったからだ。
 ――ただ私は、キミが自分のしたくないと思ったことをする奴だとは思わなかったから――。
 ……ああ、全く本当に、真佳の言うとおりであったと是認しよう。今がどうであったとしても、少なくとも彼女は過去、こういう結末になることを一つも望んではいなかった。そうして味方に引き入れたはずであったのに、なぜ彼女に殺させることを自分はああも容認したのか。
 ……どうにもならないことであったことも分かっていた。唯一の希望を奪われたウィトゥス・ガッダのその後のことを解決するような妙案を、さくらは未だ思いついてはいなかった。
「うん」と真佳は頷いた。

「だってそれだけじゃない、ガッダ卿を描いたのは。私が見つけたのは魔術のかかった絵の具であって、魔術のかかった絵画じゃない」
「……? だからその絵画が――」

 殺し屋の声音が不自然な箇所でぶち切れた。
 ……そうだ、そうであるはずだ。あの絵画に実際に魔術が施されているか否かなど、誰も確認しなかった(・・・・・・・・・)

「……冗談だろう?」

 殺し屋を営む女が引き攣った声でそう言った。真佳は肩を竦める要領で両の眉を跳ね上げる。受け入れがたく思う心情が理解出来ないという態で。

「――っ可笑しいだろう! ガッダの悲願があんなところにあるわけがない、あんな、誰もが拝める無防備な状態で飾られることを、ウィトゥスを不死にしたガッダの首謀者が認めるなどと……!」
「でも尖塔にあった絵画も無防備だった。多くの目に触れるか触れないかの違いだけで。逆に言えば、触れられたほうが良かったんだよ。だってまさかそんなものが、ガッダ卿の命を奪える唯一のものだなんて誰も思いはしないでしょう」
「……実際には」さくらの斜め後ろでガプサの首領が独りごつ。「“アレ”もそう容易く触れられるものにはなっていまい」

 ガッダの過去の血筋としても、それに関しては予想だにしなかったのじゃなかろうか。今回、ウィトゥス・ガッダが極端に人を嫌った故に、ガッダ邸に人が寄り付くことは無くなった。それに追従する結果として、玄関ホールすら人目に触れる機会が減ってしまったのは明白だ。ウィトゥス・ガッダの肖像画がいつから飾られるようになったか知らないが、思うにその絵は想像以上に注視されることがなかったろう。
 ――ウィトゥス・ガッダの唯一の弱点、その心臓。
 屋敷の中の目立つ場所にて、それは誰の目を引くこともないまま永劫の時を辿り続けたことになる。

「――ではあれが」

 ウィトゥス・ガッダの肉声は震えを帯びてシッティングルームに広がった。そこには全ての情が在る。焦燥と銷魂と悦楽と――……真佳が何を考えているかさくらは知らない。そこにあるのは中正であるような気もするし、さくらと同じく焦燥を抱えているようにも見える。感情を消しているのだ(・・・・・・・・・・)。さっきから――なんだってそんな煩瑣なことを。

「スサンナ」

 ガッダが短く彼女を呼んだ。

「僕は敢えて貴方に問おう。貴方は動くつもりかどうか」
「――」

 一瞬間だけ無音がまさった。殺し屋は何も言わなかったし、真佳は彼女から視軸を外したりはしなかった。
 ウィトゥス・ガッダ卿も長く待つことはしなかった。

「……ではマナカ、キリを呼んでくれるかい」

 ……真佳から視線を外してウィトゥス・ガッダ卿を見るに至ったのは、自分で考えるに実に反射的なものだった。――対して真佳は殺し屋から目を離すことさえしなかった。

「キミを殺したがっているのは鬼莉のほうだけで、私はキミを殺したいとは思っていない」
「断る、と? 貴方にその選択はできないはずだが」
「――」

 言を続けないのを不思議に思う。
 間違いない、ウィトゥス・ガッダは鬼莉に自らを殺させるために真佳を選んだんだと、今では確信しているが、それでは何故今まで真佳が外に出ようとしなかったのか、肝心なところは分かっていない。“その選択はできないはず”というのは――……脅迫か?

「死ぬことができればそれでいいんだろう」

 ――言葉は意外な場所から落とされた。
 さくらのさらに斜め後ろ、面白くもなさそうな顔で立っていたヤコブスからのものだった。距離があるにせよ、ウィトゥス・ガッダよりは数センチばかし高いその身長で物理的に不死の男を見下ろして。

「何も、彼女らのどちらかに殺されたいという異常性癖はあるまい。或いは女がいいのであれば、俺の仲間には貴様を殺せるやつがいる」
「…………」

 ウィトゥス・ガッダが浮かべたのは、驚きとか歓喜よりももっと単純な相形だった。思うに男は、ヤコブスの存在をこれまでの段階で明確に認識していない。ほかにも喋ることのできる生物が存在していたのかという、そういう意外じみた顔だった。

「――何だ、貴方が殺してくれるのかい」

 本当に単に確認するような感触にさくらには聞こえた。思えばネックであったのはウィトゥス・ガッダの殺し方が分からないことのみであり、それさえ分かれば誰が実行しても彼には構わないはずである。単純に殺されたいということならば。

「殺すことについてはどうとも思わん。殺されたいと言うのなら、羽虫を一匹潰す感覚で殺してやっても支障は無い。絵画が焼け崩れることになるが、異論は無いな?」――ヤコブスは皮肉げに声のトーンを若干ながらつり上げた。「焼け死ぬのだけはごめんだ、などと言い出すタマでもあるまい?」
「ああ、殺し方なら何でもいいとも」

 対して涼し気な声音でガッダが言った。彼の足元には彼自身の血が、乾くことなくぶちまけられたままであるにもかかわらず、既にそれと男との因果関係が見えなくなるくらい、ウィトゥス・ガッダは健勝だ。咳き込むことも、体を大儀そうに引きずるでもなく、男は実に自然に体の向きをこちらへ変えた。

「むしろ焼死は理想的だと言えようよ。せめて苦しんで死ななければ神の国に迎え入れてもらえまい」

 笑ってそんなことまで口にした。――単純に、異常であると考えた。焼死が理想的だと何でもない口調で言えるくらい、こいつの感覚は長年の生で焼き切れている。部屋中に充満したむせ返るような血のにおいを、この時いやに意識した。

「スサンナ――」

 真佳が口にしたとき、鉄錆のにおいが若干和らいだ気がしたが、無論気のせいであるのだろう。こいつだってウィトゥス・ガッダに負けないくらいガッダの返り血で汚れているし、たった四文字の揺動だけで空気循環はなされない。

「――これでいいわけがないだろう」

 真佳に表情は無かったのではないかと思う。彼女が“スサンナ”と呼ぶ女のほうにすら視線を向けていなかった。何もない、強いて言うならこいつは自分の左足のつま先あたりを、親の仇のように睨み下ろしているだけで。

「自分を見もしなかった男の機微なら、気を使う必要も無いだろう、スサンナ!!」

 ――その時初めて、真佳が怒号を上げて吠える様相を視界に入れたと考えた。

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