「有り体に言うと僕はさ、あいつを殺したかったけど、殺したくなかったんだよ」 と彼女は言った。 今より少し前の頃合いのことである。 途中尖塔に寄り道したと思ったら、何かを掲げて一人で出てきた。さくらとヤコブスはその間ずっと外にいた。 「僕だって一応スカッリア教の恩寵厚き国の出だ。神の加護の環から外れて不死になるなんてぞっとする。ウィトゥスの今の状況についての心境は、誰より理解しているさ。神の均衡から滑り落ちたカバネを見たのは、一度や二度じゃなかったし」 彼女の手元にあるものは、長方形の、どうやらキャンバスらしかった。それほど大きいものではないが、裏を向いているのでそこに何が描かれているかは分からない。 「それがガッダの対抗策か?」 怪訝な顔でヤコブスがそう口にした。煙草を咥えた不明瞭な肉声で、直前に行われていた彼女の会話の内容など知らんとばかりに突然流れをぶち切って。 彼女は、気を悪くはしなかった。 「そうだよ」 と言って表を向ける。ウィトゥス・ガッダが描かれていた――玄関ホールに飾ってあったのと同じ構図。だからさくらは会ったことがなくても、これがガッダであると知覚が出来る。 大きい画布に描く前の見本のようなものだろうか。それが尖塔に飾ってあったということだ。 「絵画に魔術措置を施すことを人類が思いついてから様々な絵画が世に出てきてはいるけれど、人の生命を繋ぎ止める絵画に関しては流石に僕もこれが初見だ」 「……人の生命を繋ぎ止める?」 正確にヤコブスは肝であるその部分だけを再び述べた。……絵画にそのような魔術の刷り込みが可能なのか? とさくらも尋ねたかったが、その前に彼女が頷いた。 「そう。にわかには信じられないだろう? それも当然と言えば当然だ。ガッダの血筋意外には不可能なんだから。――より正確に言うならば、ガッダの血筋並みの、歴史を超えた執着を見せない限りは」 ヤコブスがちらりとこっちを向いた。 動く絵画とか、日差しだけが本物の日光であるかのように煌めいている絵画とか、音が絶えず流れ続ける絵画とか、そういうのならさくらもちょくちょく見たことがあったと記憶している。どれも教会関連の建物や、相当に裕福な家にかかっているのが普通のもので、恐らく一般庶民には手を出せない娯楽物なのだろうと想像している。 ――まるでその肖像画から人物だけが忽然と姿を消し去って―― いつかのトマスの伝え話を想起する。絵画のままに時を止めた貴族の男。 「その絵画に流れる時間が、ウィトゥス・ガッダ卿の時なのね」 そうだよ、と答えた声は呟きのように聞こえたものだ。しかし声質は飽くまであっけらかんとしていたために、彼女の真意を読み取ることは不可能だった。 「実に浪漫的なことを言うなれば、ね。実際には絵画に流れる時間なんてものは存在し得ない。だからあいつは永久の時を歩み続ける。――多分歩きもしないけど。座っているだけで勝手に世界が過ぎていく、そういうもんなんだろう。ウィトゥスにとって、生というのは」 声が湿り気を帯びた気がする。まるで間違いであったみたいにそれもすぐに掻き消えた。 「ともかくこれがあれば案ずることはもう無いよ。こいつを壊せばウィトゥスは没す。貴殿らの快い通りに物語は進むだろう。ウィトゥスの唯一の願いを叶えてやろうっていうんだ、マナカを繋ぎ止めておく理由は無くなるさ」 「――」さくらは少し吐息する。驚きに息が詰まったために。「……殺すの?」 「ああ。でないとウィトゥスは止まらない。あいつが存在を認可するのは、自分を殺してくれる存在に対してだけだから」 「…………」 さくらは少し言葉に詰まる。言うべきか言わざるべきか、ほんの少し悩んだ。ガッダを殺してくれとまで願い入れた過去は無い。さくらはただ館に入れてもらえるだけでよかったし、真佳を返してもらえさえすればそれで十分なわけだから。それにさくらは彼女に対して、ガッダを生き延びさせると口にした。 ……しかしきっと彼女の解は別だった。彼女はウィトゥス・ガッダを知っている。楽観を排して考えた結果がどういうものか、考えた結果がきっとこれなのだ。 「でも……アンタはいいの?」 こちらが助力を請うたのだ。こうまで尽くしてくれた相手に尋ねてしまうには、あまりに非礼ではないかと考えた。それでも……彼女の心境を知らないフリして付き合ってもらうなんてこと、できない性格なんだというのをさくらは悟る。 絵画を抱えたまま彼女は一瞬呆気にとられた顔をした。改めて尋ねられるなど思いもよらなかった顔だった。 「おかしなことを聞くね。マナカを助けたいんだろう? この状況は貴方にとって、願ったり叶ったりの状況では無いのかい?」 「…………」 奥歯を噛んだ。彼女が“殺す”と口にして漸く分かったのだ。人の願いを踏みにじって無事に帰してくれるなんて展開が、どれほどに楽観的であったかを。 或いは――真佳ならどうにかしてくれると、きっと無意識に考えた。 そこまで考えていなかったのか、とは、彼女は口にはしなかった。フム、と彼女は口にした。 「言ったろう? 僕はあいつを、殺したかったけど殺したくなかったんだ。五分五分だったその盃の片方が少し水嵩を増しただけ。だって殺さないことこそ酷な話だ。ウィトゥスは今、僅かな希望に縋ってる。マナカという希望の光だ。あいつの願いを叶えないままその希望だけを奪うだなんて、酷以外の何者でもない」 「…………」 それに関してさくらは何も言えなかった。彼女の話を聞く限り、どうやら本当に――ウィトゥス・ガッダは死にたがっている。何故“誰にも殺せないから”真佳を選んだのかは分からないが、さくらはもしもの場合真佳が――否、真佳の裡なる存在が男を殺せることを知っている。もしも何らかの理由で――もっと詳しく言うなら千里眼等の力でもって、真佳の別の一面を知ったとすれば、奴の存在はガッダにとって希望だろう。切望であると言ってもいい。 そんな理由で“アイツ”に人を殺させるわけにはいかない。アイツが人を殺した場合、間違いなく真佳の精神にこれ以上ないほどの打撃が加えられるから。でも、それじゃあ彼女の言うとおり、希望だけを奪って去るのが正当なことかと言われると……――。 「だから、僕がウィトゥスを殺すのさ」 殺さないで、と言うことはさくらには出来なかった。真佳も救ってウィトゥス・ガッダも救うだなんて、そんな神がかりなこと――自分には行う器量が無い。ガッダを殺さないで済む道を頭に思い描けない。殺し屋の彼女がそれを酷だと言うのなら、さくらに反論できる余地は無い…………。 「勘違いするなよ、聡明な人」 彼女は呟くように静かに言った。 「ここが潮時だということさ。遅かれ早かれいつかは僕はあいつを殺した。そこにちょうど貴方がたがいたということに他ならない――」 …………。 ………………。 |
黒緋のヌークレオ |
「………………」 血の滴る音もにおいもしなかった。 最も、においは既に充満していた。鬼莉が行った蛮行故に、ガッダは既に血まみれで、ただし満身創痍というわけでも無いらしかった。形状記憶合金……のようなものだ。不老不死と言うよりは。絵に描かれたそのままの似姿で、彼はこの世界に強制的に繋ぎ止められている。 その精巧に描かれたキャンバス上のウィトゥス・ガッダに、疵がついていた。 喉元に彼女の――毒の刃が突き刺さっていた。 「…………」 どこか遠くで吐息が鳴った。 「キミは私に、卿を殺して欲しいのだと思っていたよ」 ――聞き覚えのある声で、聞き覚えのあるイントネーション。さくらはすぐにその存在を理解した。 「真佳……!」 いつの間にか鬼莉から主導権を奪っていたのだ。或いは、鬼莉が敢えて真佳にそれを譲渡したのかもしれないが。 「あんたはなかなか面白い人格をしているらしいな」 殺し屋が真佳と鬼莉の関連性について触れたのはその一言だけだった。ウィトゥス・ガッダから一度も視軸を離さなかったのだ。キャンバス上に突き立った刃に彼女はその手を触れていない。柄も刃も全て毒である以上、術者の彼女にも触れることは出来ないのだろうと推理した。 「ウィトゥスが頼ったものを今漸く理解したよ。でも安心するといい。あんたはもうこれ以上、何もする必要はない」 「私の代わりに卿を殺してくれるって? お優しいんだね、殺し屋サマは」 「……何が言いたい?」 彼女が口に出したとき、さくらも同時に疑問に思った。あからさまなな挑発だ。真佳がわざわざそんな言葉を放つ意味をさくらは知らない。 「別に? ただ私は、キミが自分のしたくないと思ったことをする奴だとは思わなかったから。若干失望しただけだ」 ――そこまで言われて彼女が怒り心頭に発しないわけがない。一体どうしたと言うのだ? さくらの知る真佳がここまで攻撃的であったことは今まで無い。全てを風のように受け流すような奴のはずだった。しかし今の真佳は、鬼莉という憑き物が落ちているにも関わらずやけにフルスロットルで舌が回る。 ――真佳がこっちを敢えて見ないようにしていることに、遅まきながら気がついた。 「……誰がしたくないことをやっているって?」 ……キャンバスを掻き抱いたままの彼女の周りに、毒の刃が浮いていた。 その刃先は真っ直ぐ真佳を向いているが、奴は赤目を涼しげに細めただけで怯んだ様子は見られない。 「真佳……っ」 困惑に押し出されるようにしてさくらは彼女の名を呼んだ。間違ってはないはずだ。そこに鬼莉はいないはず。ではこの違和感は何なのか? 「僕はあんたを助けようとしているんだぜ、マナカ。そのあんたに、僕の行動をあれこれ言われるいわれは無い。第一何だ、ウィトゥスを殺したくは無いだって? 僕がいつそんなことを口にした? 殺す資格が無いから殺さないのだと口にしたのはあんたのほうだろう、マナカ……!!」 もはや殺し屋はキャンバスを掴んではいなかった。いや、その手にあるのはあるのだが、彼女の意識と思考の全てが真佳のほうに押しやられてしまったために彼女の手にぶら下がっているだけの代物だとしかさくらには思えなかったのだ。刃の先端は僅かに震え、いつ飛び出しても可笑しくないような状況だった。流石のさくらだって肝を冷やす。いくら真佳であると言っても、毒を食らって生き続けられるほど人間をやめているとは思わない。 「真佳……! アンタは一体――」 「それにそれではウィトゥス・ガッダは殺せない」 ……誰が息を呑んだか分からなかった。殺し屋ですらその時一瞬憤懣の矛先を恐らく忘れた。 反射的に振り向けた視軸の先で、ウィトゥス・ガッダが当惑した顔で平然とそこに生きていた。 |