月の広がり



 男の喉からかふっという呼気が漏れた。「ア゛、あ゛ーー……」発声しながら喉を塞ぐ血に海に通り道を作成している。濁った声が声を出すごとに清明になる。鬼莉はさっきからしきりに“なるほど”と関心していた。死ねない場合、人間はそういう行動に移るのか、という。男がまた一つ咳き込んで、唾液混じりの血を吐いた。

「――出来ればもっと穏当に殺してくれるとありがたいんだが……」
「だっテそれはしょうがない」

 鬼莉としては何回も何回も、こうして手を煩わせてやっているというだけで感謝してほしいくらいだし。肩を竦めて言葉を継いだ。

「真佳は何か得たようだけど、ワタシはそれを知らないもん。さっき言ったでショ――何回目に殺したときだっケ?」
「六回の気がするし百回の気もする」

 ガッダの声色に色が無いのが若干興味深かった。喉に空いた穴から血の泡が湧いてすぐ消えた。
 死なないとは言っても、通常死ぬレベルの衝撃を加えたらそれなりに衝撃はあるらしい。血は湧き出るし皮下出血もどうやら見られる。死斑が見られないことから恐らく窒息死させても溢血点は見られない。死なない、と言うよりも一瞬で復活するというのが正しいのではないかと思う。喉に開けた刀傷は多分既に塞がった。血がリバースする場面を鬼莉は確認していないので、恐らく切り取られた箇所はそのままガッダの組織からは切り離されて、どこからかやってきた新しい組織がガッダの体を繋ぐらしい。この部分が恐らく魔術で、肉片がそうだということはきっと血液もそうなのだ。脳もそうなるのかな。或いは情報量の多そうな眼球も? 殺し方を知らないというその時点で、恐らく逐一試さなければならないんだろうと思われる。全く七面倒臭い真似を……。殺し方さえ理解出来れば、一人を何十回と殺す苦行から逃れられていたというのに。

「貴方はそれを引き出せないのかい」
「引き出したいのは山々ダけど……」

 唇を分からないように尖らせた。真佳が鬼莉を知らなかった時分は勝手気ままに彼女の視点から全ての世界を捉えられていたのだが、彼女が鬼莉を知ってからはどうやらそうもいかなくなった。秘匿する術を学んだのである。もともと主人格は彼女のほうであったから、鬼莉はそれには抗えないし真佳の意思を覆すことは難しい。奴が秘匿すると言ったのならばそれに服従するしかない。つまり、奴が考えを変えない限り鬼莉は答えを知り得ない。或いは、鬼莉自身が謎を解くことでしか。
 でも勿論鬼莉はそういう七面倒臭いことは断固お断りなのである。それなら自分と、あとはせいぜいサクラでも連れて街を脱出するほうが建設的というやつだ。

「貴方はマナカには逆らえない?」

 癪だが鬼莉は頷いた。いい加減一人を延々と殺す方法を考えるのにも飽きてきた。

「彼女はきっと教えないだろうね」
「どうかナ。サクラを殺すと脅してみれば? ワンチャンスくらいはあるかもね」
「サクラがそこいる状況で? 自分の命が危険に晒されているくらいでは、彼女はマナカに人を殺す行動を許可することなどしないだろう」……しばらくしてからガッダは笑って付け足した。「――ああ、無論、マナカの裡に潜むサクラの肖像を垣間見ての見解だけど」

 確実にやる気を削がれるのを鬼莉は感じてげんなりした。殺されることを笑顔で待ち受けてる獲物とか狂気以外の何者でもない。でも殺さなきゃいけないんだからこの世はあまりに理不尽だ。
 大クナイでもって男の胸部を貫いた。何十回目かになるかと思うが、新たに肉を裂く感覚は確かにあった。魔術で生成された肉片なんだと理解した。

「――」

 一瞬ガッダの呼気が止まるような無音があって、

「けはっ……」

 何十回目かの血を吐いた。いつのときの血だろうと鬼莉は思う。もうそれがいつ口元にせり上がってきたものなのか、ガッダ自身も知らないだろう。額には脂汗が浮かび続けているし、ガッダが座り込んでいる床や壁には、ガッダ自身から放出された真っ赤な鮮血がべたべた塗りたくられている。鉄さびの味は絶えず味覚を支配しているはずで、痛覚は今や麻痺に変わっているはずだった。これだけの致命的な打撃を何十回も加えられて、体は無事でも神経のほうが健常であるとは信じがたい。いかに不老不死であろうと、酸素の供給が途絶え続ければ脳に弊害は出そうなものだ。

「――試してみるかい?」

 ――一拍遅れて、それが鬼莉の思考に直結するものだということに気がついた。ああ、あの馬鹿野郎――と、真佳を指して鬼莉は思う。よくもこんな頭の狂いそうな会話方法を、ああも容易く受け入れたものだ。どこから会話が繋がっているかも確かなことは言えないというのに。
 そして卿の言ったことが酸素の供給を止めるということに関連付けられていることを理解して、鬼莉は本当に心の底から不快な顔で卿を見た。

「ふザけたこと抜かすようならワタシはこの街を出ルけれど」
「――ふむ、出られるだろうね、貴方なら。サクラを回収して二人で抜け出すことは可能だろう。マナカのように他人を顧みることはしないだろうから、何の障害を感じることなく。貴方が先程、ちらりと考えていたように」

 ――舌打ち。
 ガッダの顔色は変わらない。――気持ち悪いと素直に思った(もともと鬼莉は言葉を飾ることの意味を知らない)。脂汗を浮かべ血に塗れ顔面を蒼白にさせたまま、滔々と軽やかな言葉を吐き続ける男をただ正確に狂っていると鬼莉は断じた。自分を大事にしろとかいう、気持ちの悪い万人受けする主張を信奉する気は断じてないが、脳に弊害が出るかもしれない行いを何の衒いもなく“試してみるか”とは。生命としてトチ狂っているとしか断言できまい。

「――ふふ」

 そうしてガッダはこの期に及んで尚も狂気に気安く笑った。

「……ああ、いや……そうだね、本来ならば貴方を繋ぎ止めるために、僕は口を閉ざしておくのが正解だろうとは思うのだけど」

 そりゃあそうだ。殺しにもらいに来ているんだから――こういうふうに表現するのも可笑しな話だ。鬼莉は今回の件でずっと使い続けていたクナイを捨てた。無駄に毛の長い絨毯に吸収されて、音は鬼莉の耳まで届かなかった。
 随分と返り血を浴びたなと一瞬思ったが、着ていたのがガッダが用意した黒衣だったのですぐに思考を手放した。肉を断ち続けた腕が痛い。

「狂っている、と評されるのが、何だかとても愛おしくてね」

 と、ガッダはトチ狂った顔のままでそう言った。流石に眼鏡のグラスにこびりついた血は気になるらしい。親指の腹でぞんざいに拭って、血の筋がグラスに薄く広がった。

「心の中でさえ僕に対して狂っていると宣う輩はそうはいない。畏れを抱くか忌避感を抱くか、或いはそれが当たり前のように全てを受け入れてくれるかだ。後者はまあ、分かるだろう? 最近では、貴方の半身やスサンナがそっちの類。長い年月、どちらの対応にもいい加減飽きが来ていたところでね。僕を受け入れず且つ異端とも排しない貴方の応対がいたく気に入ったものだから」
「だからもう死ぬのはヤめたとか言わナいよね?」
「ああ、悲願だからね」

 面倒くさいなあと素直に思う。そう思うと、それを聞き入れたらしいガッダは再び楽しそうに呵呵と笑った。

「殺害を依頼したことで面倒くさいと思われたこともそうそうないよ」

 ……実に楽しそうに、外見年齢よりも若い段階の少年みたいな顔で笑うのだ。ともすると底に沈んだ暗黒の淀みを見逃しそうになるくらい。けれど鬼莉にはよく分かる。こいつの狂気は、表面に浮かぶ邪気無き笑みによって浄化される類のものではないことを。まるで人生を謳歌しているみたいに笑っていても、その実この人生に何の希望を抱いたりなどしていない。だから、実はこいつは死にたくなんてないんじゃないか、なんていうような考えは、あまりにもナンセンスな冗談にもなり得ない。

「そこを取り違えてくれていないのならば有り難い」

 鬼莉の思考を読み取ってやっぱりこいつは綺麗に笑った。真佳が何度か思考せざるを得なかったように、こいつの顔はどうしても人の視線を引きつける。……吸血鬼の要項にそういう項目が無かったか。

「何だ、貴方も知っているのか、吸血鬼」
「別ニ。あまりにモ有名ってイうだけだから」

 ……それにそういう吸血鬼吸血鬼しているところも正直気持ちが悪かった。全く形の違うものを、無理矢理吸血鬼という型枠に押し込めたみたいだ。それは薄っぺらい概念やおとぎ話を連想させこそすれ、今目の前に居るという現実感を叩きつけてくることはない。でありながらその鋳型の人間が現実として実在していることは紛うことなき事実であって、そういった相反した現実が鬼莉に気持ちの悪さを感知させているのであった。

「そうかい? 忠実というのは実に良いことだと思うけど……」と言って男は笑った。「忠実であればあるほど、それは人の知る概念自体に近付くものだ。例えば僕。僕が吸血鬼であるという噂が広まってから、街の住人は僕を見れば即と吸血鬼という概念を連想させるようになる。僕が吸血鬼であろうとなかろうと、彼らが本来の吸血鬼という概念を知っていようといまいとね。人の意識や思い込みというのは、時に現実をも超越させて非現実を現実世界に落とし込みすらするものだ。彼らが形作った網の目状の連絡網はやがて強固な術式となり、やがて僕を、誰もが納得する吸血鬼にまで仕立て上げた。僕が吸血鬼として振る舞えば振る舞うだけ彼らは思い込みを強くする。つまり、忠実であればあるほど僕が吸血鬼たる現状を現実として人は受け入れてしまうということだ。そこに疑惑の介入はあり得ない」

 ふん、と鬼莉は鼻を鳴らした。床に流れる血の広がりが止まっているのを見下ろした。長広舌を振る舞いながら致命傷を完治させることが出来るのだから、無自覚の生命維持活動とはほとほと便利なものだと鬼莉は思う。

「虚偽が現実の格好をしてルだけだ。偽りが偽りであることに変わりはないし、偽は真にはなり得ない。絶対ニ」

 ――ウィトゥス・ガッダが唇の端だけで薄く、笑った。

貴方なら(・・・・)、理解できるものと考えているのだけれどね。真に憧れる偽(・・・・・・)の心象、というものを」

 鬼莉は不快に顔を顰めた――
 ガチャン、という不必要に大きな音が死角の側から飛び込んだ。

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