「別に追い返してもよかったんだが」

 とガッダは言った。

「追い返しても追い返しても這い上がってくるんだろう? 無論、貴方が一番知っていることだ」
「…………」

 真佳は答えなかった。ただ奥歯を噛み締めて、顔を俯けて、ガッダ卿のつま先だけを睨んで待った。待ったところでどうしようもないと知りながら。
 やれやれ、と卿は嘆息したらしい。

「サクラが来て困るのは、僕ではなくて貴方だろう? だから遠ざけようとしたんだが、やれやれ……スサンナも一体どういう甘言に惑わされたのか」

 それに関して真佳は本当に何も言えない。こと人を動かすにおいて、さくらほどダイレクトに揺さぶりをかけてくる女を真佳は知らない。

「彼女が来るまで時間がないぜ?」
「――」

 真佳は顔を上げられない。
 やるべきことはわかってる。街とさくらを心中なんてさせられない。

「彼女の前では殺せなかろう」

 とウィトゥス・ガッダはそう言った。
 全てを見通したような声で言葉でそう言った。

「ならばその前に――僕を殺せ、大英雄(カッチャトーレ・ディ・ヴァンピーリ)


まつり花


 ――殺しちゃえばいいのに。
 と、誰かに言われたことがある。
 コールタールみたいな粘着質な声色で、その時真佳はまだこの声の正体が何なのか、根本的なことを知らないでいた。中学の時のお話だ――真佳がまだクラスでいじめられていて、鬼莉の存在を知らなかったころのこと。
 殺さない理由さえ分からなかった。殺せない理由も分からなかった。ただその声に従ってはいけないと、本能だけが足掻き続けた。道徳的な判断とか、社会的な判断とか、そういうのでは多分無い。現に今、この状況、恐らくガッダ卿を殺したところで社会的制裁は絶対的に生じないであろうと確信している。それでも罰は下るのだ。真佳にとってのアストライアーはきっとそのことを許さない。

 ――コの世界カラ消してしまエばもう痛くなルことも無いノに。
 ――真佳の命を否定スるのはイナくなるのニ。
 ――もう何にも脅えル必要の無い綺麗な世界が待ッテるのに。

 いつも声がしていた。クラスメイトに何かされる度ごとに。まるでそれが真佳の望みであるかのように、彼女は楽園に住まう蛇のごとき醜悪さでもって真佳に言葉を投げかけた。

 ――生きたまま両目潰して全身の皮と爪を剥イでじわじわじわじわいたぶってやレる権利を貴方は持ってるでシょう?

 ……きっとあれがもう一ヶ月も続いたら流石の真佳も耐えられなかった。それは最初、真佳自身の声音であると信じていたのだ。真佳の裡から聞こえるのだからそれは真佳の声に違いない、それが自分の本性なのだと信じて疑っていなかった。
 ――そして同時に恐怖した。きっと〝あんな家系〟に生まれてしまった報いなのだと恐怖した。自分は人を殺す術を学ばされて来たのだから、人の血を求めて当然なのだと考えた。――醜悪な化け物なのだと考えた。

 ――まタそうやってカンタンに信用しテ。裏切る側にしたら格好のカモだよネェ。

 鬼莉との水面下での戦いは、あれから一度も終結なんかしていない。ずっと抗ってきた、つもりだ――人を殺すこと、人を享楽で傷つけること。彼女が好みそうなこと全部。傍らに彼女の声を聞きながら。
 …………長い――実に長い三年だった。
 ……何だ、まだ三年しか経ってはいないのか……。三十年も百年も共に過ごした気がしてた。

 ――殺しちゃえばイイのに、ウィトゥス・ガッダ。だって、本人もそれを望んでイるのだし。

 つい最近聞こえたはずのその〝音〟が、泡のようにぷっかりと浮かんできたのを自覚した。
 鬼莉は常に真佳に刃を握らせたがった。それは真佳を守るためだと言えるだろうか?
 ――まさか
 と、真佳は即座にそれを切り捨てた。
 ………………人を殺すのに資格なんてものは要らないさ、と、スサンナはあの日そう言った。
 ガッダ卿に自分を殺すよう最初に告げられた日のことである。つい昨日のことであるのだが、随分昔に言われたような気がしてならない。考える時間をくれと言い、ガッダ卿の前から暫し離れて屋敷を散策していた折のこと。

「この街の人間を皆殺しにする、だったっけ?」

 一度その会話が落ち着いた後、彼女は再び思い出したように付言した。

「大勢の人間か一人の人間、天秤にかけちまえば単純じゃないか。命を奪うことを躊躇う感覚は僕には理解しかねるが、単純計算ぐらいは出来る。命は大事であるんだろう? なら、より多くの大事を救えばいい。単純明快なことではないか?」

 合理性で人の命を取捨選択はできないよと、かつて考えただけで口にしなかったことを真佳は言った。しかしスサンナの切り返しは真佳の想定するより早かった。

「いいや、合理的に判断しなければならない問題だ。人の命は全て平等であると言うのなら、そもそもの話ガッダ卿の提案自体が間違いだってことだろう。しかしながら問いは現実に投げかけられているし、貴殿はそれを選ぶ義務を押し付けられた。この結果こそが真実だ。合理性云々で考えられる場合では、もう既に無いんだよ――そも、命の公平性を謳うということそのもの自体が強者から見た傲慢なのだと思うがね」

 ……ああ、そうだろう……そうだろうとも、と真佳はその時思ったものだ。どれほど平等を主張しようと、賽は既に投げられた。どれほど否定しようとも、真佳は真佳のルールではなくガッダ卿のルールのもとに動かなければならなくなった。それが現実。変えようのない事実であった。

「まあ同情はしよう。厄介なモノに目をつけられてしまったものだと。それで何かが変わるわけでもあるまいが」

 スサンナがそう言ったとき、真佳はふと降って湧いてきた感慨を案外あっさり受け入れた。舌先に乗せることにも何も抵抗はいだかなかった。

「スサンナは卿を殺してほしいの?」

 彼女は驚くような素振りも見せず、その双眼をにんまり細めて食えない微笑でこう言った。そのときは確かに、驚いた素振りは微塵も見せなかったのだ。きっと予期していたんだろうと今の真佳は思考する。

「――貴殿にはそう見えるのかい?」

 …………それからしばらく時間を置いて、真佳はスサンナが卿の殺し方を既に知っていることと、知っていて尚実行に移さないことを聴取する。が、それはこれから未来の話。この時の真佳は、まだ何の情報も得ていなかった。

「少しだけ本当のことを言おう。僕は物事を俯瞰的に見れるということ。自身の感情も他人の感情も削ぎ落として、客観的に冷徹に人の群れを見れるということ」
「……? そうしたらどうなるの?」
「みんな同じだというのが分かるのさ」

 一足す一の答えを口にするみたいな言い方で、スサンナ・マスカーニはそう言った。

「人は等しく人を殺せるし、人は等しく人に殺される。人を殺すのに資格は要らないって言っただろ? 他人であろうが身内であろうが恋人だろうが関係ない。彼らは衝動もなくその隣人を殺せるし、自らの隣人に殺される。何も可笑しなことは無い。人は誰しもが殺し屋足り得るということさ。しかし大概の人間はそうであることを恐れているので、人殺しをした人間こそが異質であると言いたがる。だってほら、殺人犯が通常人であることが知れてしまったら、安心して街を歩けもしないだろう? 殺人者は異質であったが自分自身は正常で、そして隣人もまた通常だ、安心できる、自分は人を殺せないし、隣人もまた自分を殺しはしないだろう――それでようやく人間というのは日々の生活が出来るのさ」

 ――〝あなたがたは犯罪をヴェスヴィアスの噴火のように思っていられる。しかし、それよりはこの家に火がつくほうがよほど恐ろしい〟――誰の言葉だったかは覚えている。同じ本の中で、J・ブラウンは殺人者の心境を実感できるようになるまで考え抜くと言っている。そうすることで自身の裡に宿る殺意に気がつくのだと、世界三大探偵の一人は言った。
 ああ、彼女はその境地に辿り着いているのだな、と、真佳は小さく考える。

「やっぱりキミは、私に卿を殺してほしいんだろう」

 真佳が言うと、彼女は笑った。

「その行動に何らの特別性は無いのだと、僕は言ったつもりだよ」

 ……。
 ………………。
 そして現実に立ち返る。そこにはウィトゥス・ガッダがすぐ目の前に屹立していた。客間と呼ぶか居間と呼ぶかは諸説あろう。ウィトゥス・ガッダとスサンナ・マスカーニとで、過去出会った異世界人の話をした場所。他と比べて華美でない、彼が機能を維持し続けている数少ない部屋の一。

「事態は何か変わったかい?」

 思考の迷路を彷徨った末を、まるで見てきたように男が言った。――見てきたように、という言い方はこの場合間違っているのだろう。実際見てきたのだと思われる。だって彼は全てを見通せる千里眼を有しているから。

「彼女が来るまで時間は無い。スサンナはどうやら、真っ直ぐにこちらを目指せる道を選んだらしい。僕が最初に貴方を連れて来たのとは全く別の方向をね。まあ、僕の館を観光名所に扱われても困るので、それに関して文句というのは無いんだが――」

 眼鏡のグラス越しに紫の双眸とかち合ったとき、彼は少し驚いたような顔をした――紫の割合が、黒縁眼鏡の中で若干大きくなったから。

「時間が無いんでしょう?」

 と呟いた。だって彼がそう言った。自分の直感もそうであることを告げている。嘘は無い。彼女はもうすぐ来るんだろう。
 彼は笑ったらしかった。多分ここに来て、一番穏やかで順当な顔で微笑んだ。

「……そうか、ではやっぱり、僕を殺すのは貴方ということになるんだね(・・・・・・・・・・・・・)――」

 そうだよ、とは言わなかった。
〝鬼莉〟はただ、声も立てずに静かに笑った。

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