――鏡の中でさくらが同じく絶句をしていた。鏡の中の状態を横目でちらと一瞥してから真佳は卿へ視軸を戻す。左目の下のほうが痙攣してきて目を眇めた。多分難しい顔になった。汗が頬骨を伝う感触に、体の芯のところを奮い立たせた。
 今、この館のすぐ外の側にさくらがいる。
 駆け出せば近づける距離だ。館の構造など知らなくても、真佳なら多少の無茶をして屋根をよじ登ることも可能だろうと自覚する。――自覚すると言うよりは、多少の不安要素なら組み伏せて実行に移せよ馬鹿野郎という鼓舞に近い。その程度の不安要素でまごつけるほどの状態か?

「殺すつもりは無いと言ったろう?」

 呆れたように笑いながら卿が言う。真佳はその言葉を信じない。いや、その言葉は真実であろう。ただしそれには但し書きとして続きがあった。ただし、真佳が卿を殺せた場合において――。

「理解してくれているようで嬉しいよ」

 頭の中を読んで卿が言う。つくづくやりにくい相手であると考えた。どのみち真佳に良策を思いつくような頭は無いが――この間真佳以外の人間の脳内に意識を向けることが叶わないのは救いと言える。

「その間にサクラが何とかしてくれるはずだと、貴方はそう考えるのかな」
「――……、多分無理だ」申し訳無いが断言した。「スサンナは強いし、さくらとヤコブスの二人を逃がしてくれるようなヘマはしない。さくらやヤコブスの頭を覗き見ることが出来ないからと言って、多分私たちにとって何のハンデにもなり得ない」
「では、貴方が今から館を駆けて彼女を助けに行くのかい?」
「…………」

 あからさまなまでに真佳は卿を睥睨して、その紫の双眸が邪悪に細まるのまでを見た。

「分かってるくせに意地の悪いことを言う。そしたらチッタペピータを“落とす”くせに」
「自覚があるなら実にいい。貴方のような人材をここでみすみす見逃して、街共々落とすにはあまりに勿体無いからね」

 憎らしいほどの玉顔でウィトゥス・ガッダは綺麗に笑った。


詰将棋


 ヤコブスがすかさず半歩前に出る。さくらは押されるように一歩後退する形になった。女の肢体が遠ざかり、高い位置にあるヤコブスの肩越しに彼女を見据えることになる。

「流石、騎士役は随分早く事態を把握するものだ」

 ヤコブスの右手が腰の後ろに伸びているのを視認した――さくらがもらったのとは別の魔術ガンが彼のそこに差されているのを知っている。その腕は震えていなかった。震えていなかった、が――。

「ガプサは随分面白いな」

 金髪赤目の彼女が言った。真佳よりも淡白な色を悠然と細めて見せながら。

「第一魔力保有者相手に引く気が無いのが実にいい。教会と相対してるとみんなそんな性質になるのかい? 教会につくのもやぶさかではなくなるな。第一魔力保持者と戦う機会が減りそうなのが難点だけど」
「ヤコブス……」

 小声でさくらは口にする。俺ではどうあっても倒せない、とさくらに向かって口にしたのはヤコブスだった。ヤコブスが言うように、第一級魔力保持者と第二級魔力保持者との力の差を肌で感じているわけではない。ただそれでも、彼は倒せないと口にした。負け戦に引き込むことは絶対に出来ない。だってこの件に関してヤコブスは巻き込まれただけの部外者だ。さくらと真佳がいなければ、彼がこの場に存在することもあり得なかった。

「また下らないことを考えているな」

 断定されて一瞬頭の中の考え事を引っ込めた。顔に出ていた――わけがない。たとえそうだったとして、女のほうだけを睨み据えているヤコブスにさくらの顔の様相なんかが確認できたわけがない。

「一応、貴殿らを殺すつもりはないんだぜ?」

 軽薄にしか聞こえない声音で彼女が言った。

「ウィトゥスからは街から出すなとだけ言われてる。貴殿らが、もっと言うとそこの彼女が」――さくらを示して。「街から出ていかないのであれば、僕としてはそれで十分仕事をしたことになるわけだ」

 ――空気の塊を呑み込んだ。
 ヤコブスは身じろぎ一つしなかった。
 彼女は煉瓦の道を踏む。足をクロスさせて、両腕をこちらに差し伸べた。慈愛すら伺える表情で――

「その上で言うよ。是非とも僕と遊ぼうじゃないか。第一級を前にして引かないその魂を、存分に僕に堪能させてくれないか」

 ――薄ら寒い声色で。
 さくらは苦渋に顔をしかめた。きっと自分たちでは勝てないであろうという直感――第一級、第二級の差以前の問題だ。きっと殺されることになる。殺すつもりはないと彼女は言ったが、彼女の能力を鑑みればそんな手加減が人体に通用するわけもなく。

「ヤコブス……」

 表情はそのまま短く言った。ヤコブスが倒せないと言ったのだ――多分この状況の危険性を誰より直に感じているのがヤコブスだ。
 ヤコブスが短く吐息した。

「下らないことだ、と言っただろう」

 下らなくなんかないだろう、とさくらは胸中のみで言葉を返す。己の命を下らないと投げ出す輩がいたならば、それこそが下らない種類の人間だ。

「私が残る」

 ヤコブスが強く舌を打つ――さくらの言葉は彼女に聞こえたらしかった。聞こえるように強い口調で言い切った。
 彼女は表情を変えなかったし、あからさまに不機嫌になったりもしなかった。ただただ微笑ったそのままに、「本気か?」とだけ口にした。

「勿論」
「ヒメカゼ――」
「殺すつもりは無いのでしょう。そもそも街から出ていくつもりはない。ガッダの館には入りたいけど――それはさせてもらえないんでしょうね」
「大分都合が悪いもんで」

 肩を竦めて彼女は言った。さくらは落胆はしなかった。入れてくれるつもりがあるのなら、そもそもガッダの館の眼前とかいうこんな場所で待ったをかける意味が無い。
 彼女に許されないからと言ってそのチャンスが全く訪れないとは思わなかった。どこかで隙は出来るだろう。そのときに彼女のその目を盗めばいい。真っ向からやり合ってヤコブスが傷つくか、或いは殺されてしまうよりかはよっぽど現実的だと考えた。

「ヒメカゼ…………」

 ――まるで狼が唸るような低い声音がヤコブスの喉から絞り出た。プライドを傷つけてしまったろうか? でも死して得る栄光よりも、地を這って生きる明日のほうが重要であるとさくらは思う。
 彼女がつまらなそうに吐息した。

「そ。まあそうだろうな。ここまで僕が煽ったんだ。無闇に命を散らすことを、男のほうは許しても貴殿のほうは決して許しはしないだろう」

 ……案外あっさりした反応だったのでさくらは心ともなく拍子抜けしてしまったらしかった。ひどい戦闘狂に見えたから、無理にでも戦闘に持ち込まれることすらあり得るだろうと思量していた。

「随分心外な顔をしてるじゃないか」

 と彼女が言った。

「妥当だろう。貴殿らのお仲間の第一級魔力保持者ならまだしも、第二級をそこまで追いかける必要はありゃしない。炎の第一級魔力保持者とか、垂涎ものの希少品だからな」

 ……そういえば、同じようなことを外で待っているであろうベレンガリアも言っていた。“魔術の王、神の恩寵たる炎の眷属”――。
 炎を持って生まれた者が単純に少ないのだろうと認識しかけたが、そうだ、そういえば、スカッリアで許されている(・・・・・・)唯一の宗教、ソウイル教が奉るソウイル神は、炎と関連付けられることの多い太陽神か。

「……俺たちを見逃すのか?」

 ヤコブスが怪訝そうに口にした。

「見逃す、というのとはちょっと違うな。僕としてはどっちでもいいんだ、貴殿らがここにいてさえくれればね。事が終わるまでそうしてくれさえいれば片がつく」
「片がつく……?」

 ヤコブスが依然怪訝げにそう言って、さくらはそれに言葉を重ねた。

「事が終わるまでって……いつ?」
「それがいつかはそのときになったらすぐ分かる」

 ――気のせいだろうか。モルモットでも見るような機械的な冷たさで、一瞬こっちを見たような――。

「それまでずっと街の中にいろってこと?」
「そう」
「……ガッダの屋敷に入れられないまま」
「そ」

 念を押したが当たり前のように肯定された。どうしても入れてはくれないらしい……。「ああ、別に、そっちのガプサのほうはどっちでもいいよ。外に出るなり何なり自由にすればいい」ついでみたいに彼女が言った。
 ヤコブスの横顔を仰ぎ見れば、彼は若干気持ちが定まっていないようなしかめっ面でさくらの視線を受け止めた。

「外に出てる?」
「下らない話は十分だと言ったはずだが」

 苦々しい声で一音一音わざわざ区切って一蹴された。割りと真面目な提案だったのだけど、まあ、そうだろうな。彼がさくらを置いて出ることは無いだろう。

「話は決まった?」

 彼女が言った。

「街の中ならどこにでも、好きなところに行くがいいよ。僕もついていかしてもらうけど。どこかでうっかりおっ死なれたりなんかしたら、ガッダに何言われるか分かったもんじゃないからね」

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