「あまりに普通過ぎて実に下らない展開だ」 とウィトゥス・ガッダが言った時、その場には彼のほかに真佳一人しか会話の出来る生命体はいなかった。突然の話の転換に多少なりとも吃驚したが、ガッダと会話している最中にはよくあることなので深く突っ込むことはしなかった。 「っていうか私の元の服のことなんだけど」 返してもらわないと困るのだ。せめて隠し場所くらいは彼の口から聞き出しておかないと。でないとふりふりひらひらのロリータドレスで帰ることになってしまう。百歩譲ってさくららに見られるのはいいとして、初対面の人にこういう可愛らしい服を着ているところはあんまり見られたくないのが本音。 「無事に帰ることしか考えていないな、貴方は」 「……帰れるものだと思っているけど」 「どうして? 最初の約束を忘れたかい? “彼女”が助けに来ると聞かされて、警戒心が鈍ったのかな」 ……随分人の神経を逆撫でするような言い方をするのだな、と真佳は思った。どこか投げやりで、それでいて吹っ切れてもいるような……。 ガッダは微笑った。眼鏡のツルから垂れ下がる、繊細な眼鏡チェーンが微かに揺れた。 「貴方に一つ、良い知らせを伝えよう」 ……嫌な予感がした。 “良い知らせ”の顔を、彼がしていなかったからだ。 「貴方の友人はあの壁を、魔術のかかっていないただの障壁と成り下がった壁を突破して、街の中に見事侵入を果たして見せた」 だから言っただろう、と真佳は思う。 思ってしまったので付け足した。 「さくらなら解けるし、さくらは今一人じゃない」 だろうとも、と唇の形だけで彼は言う。敢えて口にはしなかった。――そして真佳にとって良い知らせ、即ちガッダにとっての悪い知らせであるにも関わらず、彼は笑ったままだった。 「だからもう、彼女は僕の手の内だ」 「――」一瞬言葉が出なかった。 「今僕が街を陥落させたら、犠牲になるのは誰だと思う?」 |
ブリスコラ |
何かを殴るような音がしてさくらは瞬時に振り返る。腰に差した銃を取ろうとしてから――ああ、常に臨戦態勢で持っていなければいけなかったのだなと自分に対して舌を打つ。銃口を向ける間もなく目に入った光景に、呼吸と心臓が一挙に止まった。 「ちっ」 ヤコブスの腕がさくらを守るように若干後方から突き出され、半ば強引にヤコブスの背中に隠された。思考が止まっていたところであったためさくらは若干たたらを踏んだ。 片方のサイドヘアーだけが若干長い金髪に、真佳よりも彩度の高い赤い双眸――赤目に金髪の。マクシミリアヌスから聞かされていたのと全く同じ容貌だった。長い外套で体のラインが見えにくく、長身なことと顔の造形が中性的に見えることで一見して男なのだと見紛った。けれどその声帯は女のはずで―― 「駄目だなあ、後ろくらいは警戒してくんなきゃ」 にっこり笑ってそう言った。彼女の片手にはどこから持ってきたのか角ばった木材が握られていた――振り向く寸前のことを思い出す。何かを殴ったような音がした――本能に従うままに視線を下方へ流してみれば、果たして音源のもう一つの相方が正体もなく床に倒れ伏し伸びていた。 「仕方がないから、僕が代わりにやっといた」 と彼女は言った。 「能力を使うと確実に殺してしまうからさ。それくらいは聞いてるんだろう? 勿論」 赤目を細めて小さく笑う――片側の口角をつり上げて片側の目を細める非対称的な一笑で、真佳には出来ない笑い方だとさくらは思った。 「用件は何だ?」 ヤコブスが牽制するように低い声音で問いかける。……後ろは見ていたはずだった。ヤコブスもさくらも、そこは抜かり無かったはずだ。さくらは無理でもヤコブスだけは。それでも彼女は現れた。 ……いや、現れたのは本当に彼女が先なのか? 「何って、護衛だよ」 何でもないふうに言い切った。 ヤコブスの背中に気の緩みは伺えない。 「ほう。一体誰の護衛気取りか知りたいものだ」 彼女が鬱陶しそうに髪と同色の眉を片一方だけ跳ね上げた。 「存外にねちっこい性格をしているものだな。まあ貴殿ら仲間を害そうとしたのは事実だけどさ。それにしたって、現に今こうして貴殿らを助けてあげた僕に対して、それはあまりに不躾過ぎるんじゃあないのかな」 ヤコブスの横顔が眉をひそめる。視軸が若干下を向き、それから再び女の顔にシフトした。 「助けた?」 「そうとも」 女の答えは簡潔に。 「恐らくアルブスを狙ってたうちの一人だね。こんな粗野な男は旅人向けの商業区域にはよくいるが、貴殿らをわざわざ付け回すようなやつはそうそういない。まあ一つ向こうの路地のほうから周到につけ狙っていたようだから、気付くのが遅れるのも仕方がない」 ヤコブスの金の双眼が容赦もなしに女を睨み、「貴様は一体どこにいた?」 女が笑った。人差し指が空(くう)を指す。 「屋根の上」 導かれるままに仰ぎ見る――家屋の群れに囲われて、目眩がするような空いっぱいの星空と広大な星雲が目に見えた。夜空の鎮座する場所が見当たらないほどのこの満天の星空を、さくらはこの世界に来るまで一度も目にしたことがない。 ――随分夜が深まった。 「どこから?」 低い、獣が喉の奥から発す唸り声と思しき声音でガプサの頭目が短く問うた。どこから――そうだ。そういえば―― 可笑しい。 マクシミリアヌスが言っていた。奴の狙いはどうやらネロのようだった。アルブスを狙う“ついで”にこちらに刃を向けたと言っていた。彼女の狙いがネロであるなら、“アルブスを狙っていたうちの一人”を殴り倒すことに意味は無い。仲違い?――アルブスをガッダに、個人的に差し出すことで自分の家だけ難を逃れようとしている家がごろごろいるとか? まさか。そんなことはあり得ない――ベレンガリアは言っていた。彼は“貴族の全て”を憎んでる。贔屓が望み薄であることは何より街の人間が知ってるはずで、ここでアルブス一人手に入れたところで状況が覆らないことを恐らく彼らは知っている。それはガッダが嫌う貴族の機構そのものであったはずだから。献上するなら街ぐるみでないとあり得ない。 であるなら、今彼女は――どこから来た? どちらの側に帰属する? 「察しがいいやつは嫌いじゃないぜ」 極悪に笑って彼女が言った。ハスキーボイスと男口調が重なって、その時彼女が男である可能性をほんの少しだけ考えた。 「ご明察、貴族の側につくのは僕はもう既にやめたんだ。アルブスとあのデカブツと、それからガプサって言ったっけ? ちょっと変わった貴殿らのお仲間に偶然会ったその時にね」 マクシミリアヌスとカタリナがネロとベレンガリアをそれぞれ抱え、息せき切って駆け込んで来たのを想起した。逃げる途中、何かと彼女が会話を交わしていたようであったとマクシミリアヌスは言っていた。 「――ガッダの側についたのね」 確証はないが自信はあった。 「Eccellente」 女は否定しなかった。 さくらには意味は通じなかったが、どうやら褒められたらしいということは理解した。 ヤコブスの横顔をさくらは見上げる。恐らく彼は気付いていると思うけど――そう、女はずっと、さくらにも分かる異界語を敢えて使っていたらしかった。 「既知の仲だし羽振りもいい。ウィトゥスの側につかない理由が無いだろう?」 「それで?……そのガッダ側の人間が、どうして我々に益あることをするか分からんな」 「ウィトゥスに頼まれているもので」 ヤコブスの睫毛がぴくりと動く。 「貴殿らを生かすこと、面倒事に巻き込まれるような事態には陥らせないこと……とにかく僕にとっては、貴殿らが生きてここに留まってくれさえすれば仕事になるのさ。アルブス狙って野蛮なことをしそうな輩は、むしろ僕にとっては邪魔なわけ。これで理解出来たかな。今、貴殿らと僕との利害は一致しているということを」 出来てたまるか――と思ったし、実際にヤコブスがそう言った。 「襲ってきた前科があるというだけでも胡散臭い上、ガッダについてはいるが俺たちを害する気など無いのだという、そういうご都合主義が信じられると思うのか」 「ちょっと違うな。僕は貴殿らを害さないとは言っていない。ウィトゥスが貴殿らに存在価値が無いと認めて殺す契約になったなら、その時はすぐに殺す気だ」 ヤコブスが険悪に眼を細めて彼女を睨めた。議論は平行線に差し掛かったと考える。彼女はこちら側が信頼に値すると考える情報を未だに提供できてはおらず、こちらとしてもガッダの手先であると明かした彼女をそうそう簡単に迎え入れることも出来やしない。 「はあ……面倒臭いな。とりあえず貴殿らは何も考えずに僕に守られていてくれれば、それだけで十分なんだけど」 「貴様に背中は預けられん」 「警戒はそのまま続けるといいさ。僕はついていければそれでいいんだ」 「尾行中、貴様が何者かに連絡を取らない可能性は?」 若干女が鼻白む。さくらでも少し戸惑うほどに、彼は女を受け入れるつもりは無いようだった。それがさくらの命を預かっているからか、カタリナを危険な目に遭わせた張本人だからなのかは分からないけれど(……というか、もし後者であるならあまりにもひねくれた行動だ。彼はアルブスとカタリナとわざわざ共にして出立させた。あの時誰が一番危険であったかを言うのなら、それは間違いなくカタリナとマクシミリアヌスであったはず。だからして全てを許容しろとは言わないが)。 「あ゛ーーーー面倒臭ぇなあ」 後頭部をがしがし掻き回しながら彼女は言った。 「声なんかかけなきゃよかったぜ……害なくマナカのとこまで送っていってやるって言うだけで、有り難がるかと思ったのに」 「真佳……?」 その名前が出たことにさくらは条件反射的に反応していた。ガッダの側についている、と彼女が言ったその時点で、ガッダと接触しているであろう真佳との結びつきを考えていなかったと言えば嘘になる。それでも想定がもたらす感情と現実がもたらす感情とは別物だ。 「ああ、そうだよ。まさかいるって知らなかったのか? ウィトゥスはマナカに会いに貴殿らが来たというようなことを言っていたが、どこにいるかは知っていない?」 「……」 どう答えるべきかほんの少しだけ考えあぐねた。 ヤコブスの視線がちらりとこちらを振り向いた。 「……どこにいるのか推定はしている」 「ウィトゥス・ガッダの屋敷だと?」 女に聞かれてさくらは慎重に頷いた。女は笑った。チェシャーの猫のような邪気さを滲ませた無邪気さで…………――さくらは鬼莉のことを想起した。 「それが確信に変わったわけだ。マナカはウィトゥス・ガッダの屋敷にいる。割りといいご身分でね。怪我など一つも負ってはいない。 で、そういう情報を教えた僕を、暫くの間信用したところで神罰は下らないと思わない?」 「何でそこまで信頼されたいのか分からないけど……」 とさくらは言った。ヤコブスは目線で、どうやらこちらを牽制しているようだった。馬鹿なことを言うなよ、ということだろう。と言って、このまま彼女と押し問答を続けている暇も実は無い。 「私たちの前を歩くこと、という条件付きではだめ?」 ヤコブスの眉が強く寄る。やっぱり馬鹿なことを言い出したなと言わんばかりの顔だった。だって、とさくらは肩を竦めて弁解しようと試みる。 「いつまでもここにはいられないわ。私たちにはあまり時間がないのだし、彼女はこちらが折れないと暫くはどっかに行ってくれそうもないでしょう」 ……どこかへ行ったとしてヤコブスは恐らく追うか、或いはその前に潰そうと考えそうだし。ヤコブスがどれだけ強いかさくらは実際に見たことは無いが、彼女が第一級魔力保持者で、同じく第一級のマクシミリアヌスを手こずらせたほどの相手であることは知っている。 「折れなよ、お姫様がそう言ってんだぜ?」 あろうことか女のほうがそう言った。ヤコブスの剣呑を飛び越えて殺意すら滲み出そうな目が女を向いた。 それに怯んだ様子も見せずに、彼女は細い肩を小さく竦める。 「さっきから言ってるように、僕は貴殿らが、殊にお姫様が五体無事ならそれでいいんだ」 私が無事ならそれでいい……? 「それってどういう意味?」 「どういうって? 言葉どおりの意味だけど」 ……彼女の言葉に気になるところは多々あるものの、彼女自身が何か意図を持って動いているわけではなさそうだということは理解した。彼女はガッダに言われたことをそのまま実行しているだけで、それ以上のことは多分彼女からは出てこない。 ヤコブスのほうを仰ぎ見る。 ……ヤコブスのほうが疲れたように吐息した。 |