どんっ――
 という衝撃は思ったよりも来なかった。マクシミリアヌスの眷属、フィアンマ・レオーネが足の動きで幾分吸収してくれたおかげだろう。主人――というか、さくらやヤコブスらの無茶振りによくぞここまで応えてくれると、その忠誠心に感服せずにはいられない。
 それでも胃への突然の衝撃に軽く咳き込むと、マクシミリアヌスの声が後頭部から降ってきた。

「無事か? 痛いところは」
「平気――」また軽く咳をして、「この子が頑張ってくれたから」

 レオーネのたてがみに右手を埋めてほんの少しだけ短く撫でる。レオーネが喉を鳴らした――気がした。ライオンだから……だろうか。ライオンを撫でるなんて体験を、まさか自分がすることになるとは思わなかった。
 ちっ、とヤコブスが舌を打つ。
 音に引きずり込まれるように、さくらは周囲を見渡した。壁の魔術が無効化されたことで様子見にここまでやってきていた面々だろう――数としては片手で数えられる程度の男たちが、突如上から降ってきたさくららを奇異なものを見るような目で見ていたらしい。こそこそとした囁き声はいわゆるこの国の母国語で、さくらは話の切れ端くらいしか聞き取れないがどうやら困惑しているらしい。そりゃ空から人(と獣)が落ちてきたら誰だって困惑はするだろう。

「視線があまりに鬱陶しい」

 というのがヤコブスの言い分らしかった。らしいと言えばらしいのだけど、本当に身も蓋もない言い方だ……チッタペピータの地に降り立ちながら、さくらはちらりと斜め後ろを振り仰ぐ。恐らくさくらよりも数瞬前に、ヤコブスはレオーネからは降りていた。
 あちらのうちの一人が何か問いかける言葉を口にした。レオーネから降りながら、マクシミリアヌスはさくらを一瞥。……それがどういった意味のものなのか、恐らくさくらは知っていた。マクシミリアヌスがチッタペピータの住人に答えを返す。

「――あちらの増援に回るつもりだぞ、奴は」

 ヤコブスが口にしたのは紛れもない日本語だった。でしょうね、とさくらは思う。恐らく自分の身分を明かして、教会の人間として助力するというようなことをスカッリア語で彼らに説明しているのだろう。マクシミリアヌスは事前にさくらに“教会に駆け込む”と話してくれていたけれど、駆け込む前に被害者が先に出迎えてくれたというわけだ。

「知ってる。初めからそういう話だったから」
「だというのに奴を連れてきたのか?」
「レオーネを操れるのはマクシミリアヌスしかいないのだから、妥当であると思うけど」

 ……ヤコブスはあからさまに不服そうな顔をした。マクシミリアヌス――というか、教会が絡むとなると途端に少し子どもっぽくなるのだな、とさくらは思う。
 マクシミリアヌスはもう一度きまり悪そうにさくらのほうを一瞥したが、今度はその意味をさくらも正しく認識していた自信があったのでマクシミリアヌスに向かってはっきりと、自覚を持って頷いた。

「行ってきたらいいわ。大丈夫。最初からそういう約束だったのだから。真佳のほうは――任せてくれて大丈夫」

“私に”と言うべきか“私たちに”と言うべきか一瞬間だけ迷ってしまって、少し不自然な間が空いた。真佳を救い出すことに対して、ヤコブスには未だ確認は取ってない。真佳が今どこにいるかマクシミリアヌスは(さくらが口止めしたので)知らないが、ヤコブスには多分、連絡が行っているのだろう。

「すまんな……」
「何で謝るの」

 謝る理由なんて皆無だろうに。マクシミリアヌスがここまでついてきてくれたことは、飽くまで彼の好意であって義務でも職務でも何でもない。

「大丈夫。凶悪犯が待ち構えているわけでもないんだし。真佳を捜して連れ戻してくるだけよ。街のことはマクシミリアヌスに任すから」

 そこまで言うと、漸くマクシミリアヌスは安堵したように薄っすら笑った。ヤコブスは何も口を挟んで来なかった。

「ああ、落ち合ったらここか、或いはホテルに戻っていてくれ。未だ懲りずに君を狙う不届き者がいないとも限らんから、どちらか安全なところでいい。あとは俺が請け負おう」
「ありがとう。頼りにしてる」

 大男の大きな背中がスカッリア語を操りながら、街の住人のほうに歩み寄る。眷属のレオーネはマクシミリアヌスが命じた故かちょっと目を離した隙に消えていた。つくづく便利な生き物であるとさくらは思う。

「“凶悪犯が待ち構えているわけでもない”ね……」

 さくらの斜め後ろから、皮肉っぽい口調で漸くヤコブスが口火を切った。
 不明瞭な物言いからして、恐らくどこかの段階で煙草を咥えて吸っている。甘ったるい匂いが一拍遅れてさくらの鼻孔を掠め去る。
 振り返って無言でヤコブスを睨みやると、彼は肉付きの薄い頬を片方歪めて皮肉げに短く肩を竦めた。

「随分調子のいい嘘を吐いたものだ。凶悪犯どころか、奴はこの事件の黒幕だ」
「……」

 やっぱりフゴは喋っていたか――さくらは飽くまで“マクシミリアヌスに”言わないように念押ししていたのであって、ヤコブスのことには触れていなかったのでそれはどうでもいいのだが。

「別に……問題無い。喧嘩をしに行くわけじゃないのだから……」

 そう、目的は真佳の奪還であって、何もウィトゥス・ガッダとやり合う必要性は全く無い。

「……見つからないように真佳だけ連れて帰れば良いのでしょう」

「そんなに上手くいくもんかね」とヤコブスは言った。
 半信半疑であるようだった。……さくらだって上手くいくとは思っていない。

「……別に、来たくないなら私一人で何とかするからいいけど」

 後ろを振り返らずに呟いた。前方ではマクシミリアヌスが、大勢に取り囲まれて何やかやと言い募られながら中央区画へ歩いて行っている。忙しすぎてこちらを振り返る余裕が無さそうなのは良いことだ、とさくらは思った。
 ヤコブスが吐息したのを音の振動で理解した。

「ペシェチエーロのときには素直に助力を請うてくれたものだが、致命的な退化だな」
「それほど濃密な半月だったものですから。スッドマーレでの出来事は」

 チョコレートによく似た甘味の吐息。

「再度の信頼の構築が必要か?」
「ええ、勿論」


アップタウン・アップダウン



 結局、“ヤコブスがもしかしたらついてきてくれないかもしれない”なんてこと、起こり得るわけがなかったのだ。何のために街に入る方法を考えてくれて、ここまでついてきてくれたのだと思っている。
 ……理性的な部分では分かってはいたが、感情的にはどうしても受け入れることが出来なかったのだろう。さくららのために命を張る理由などヤコブスには無いし、こちらから無理強いすることも勿論出来ない。命に関わる物事に他人を巻き込めないという考えは、やっぱりどうしても今でも思う。かと言って、自分一人でどうにかする力を持っているわけでもないのだが。

(真佳なら或いは……)

 ……言うまでもなく真佳が自分の立場なら突っ走っているのだろうが。アイツは何でも一人でこなす。こなせる力があるからだ。だから今回もたった一人でガッダの屋敷に乗り込んだ。

「くだらないことを考えているな」

 煉瓦造りの路面を靴の裏側で叩きながら男が言った。金の色した双眼を抜け目なく周囲に走らせながら早足で。さくらはそれについていくのに精一杯だが、お互い走ったりはしていない。人がいないこの通路、走る人間がいたら即刻誰かの目に留まる。

「顔に出てた?」

 とさくらが聞くと、「さあな」とヤコブスは口頭だけで否定する。

「俺は後ろを振り返っていない。そんな余裕が無いというのは分かるだろう」
「喋る余裕はあるのね」
「口と目では担う役割が異なるからな」

 本気で揚げ足を取るつもりも無かったさくらは軽く肩を竦めただけで特別追求はしなかった。ヤコブスの視軸はコンマ一秒の速度で脇道から脇道、窓から窓、屋根から屋根へと移動し続け一度も休む素振りが無い。
 以前この街から逃げる際、カタリナとマクシミリアヌスと三人で、赤目の女と出会った通りを思い出す。ここはあの通りにとてもよく似ているけれど、多分同じではないだろう。景観や壁からの距離が僅かに違う。

「単純なことだ。今この場で、君が口を噤んでまで考えることと言ったらくだらないこと以外あるものか」
「くだらない、くだらないと……本当に何を考えていたか心当たりがあるのかしら?」
「知らん。ただくだらんことはだけは明白だ」

 ……あまりの断定口調に流石にさくらもむっと来た。周囲に警戒を張り巡らせすぎて気遣う余裕が皆無なのかもしれないが――いや、ヤコブスの場合いついかなるときでも人を気遣うことはしないだろう。

「一つだけ言っておくが」

 とおざなり気味に彼は言う――

「人にはそれぞれ、役割というものがある。だから人は無数にいる。神はそういった意味で多くの同胞をお創りになられた」
「――」

『神が生物を多く創りしは決して繁殖のためにあらず』――雑音。
 そう遠くない過去に送られた、それは聖書の断片だった。黒縁眼鏡の奥の緑色した双眼が、真っ直ぐこっちを見つめ続けて。
 同じことを言うんだな、と薄く笑う。彼はスッドマーレで一体何をしてるだろう。

「聖書の一節?」

 ヤコブスは瞬きをしながら一瞬こっちに視線を向けた。

「一言一句ではないが、創世記に同じことが書いてある。聞いたことが?」
「一度ね」
「マクシミリアヌス・カッラじゃあるまいな」
「何で。違うけど」

 この場合の“何で”はどうしてマクシミリアヌスだと思ったのかというよりも、彼だったら何かまずいことでもあるのかという意味である。言ってしまってから伝わるだろうかと思ったら、どうやらきちんと伝わっていたらしかった。舌打ちをして、「別段理由はあるまいよ」明らかに不機嫌な声と雰囲気で警戒作業に再び戻る。……同じことを言ってしまうのが嫌なのだなとさくらは察した。それは多分同族嫌悪の域ではないか。言わないが。

「……随分人が少ないな」

 しばらくしてからヤコブスが、意外そうな声で言う。確かにここまで歩いてきていて、一度もヤコブスから警戒を促されたり人の視線を感じ取ったことがない。チッタペピータを門から真っ直ぐ突き進んでいたならば、恐らくもう中央区画を過ぎていてもおかしくないくらいの頃合いだ。現に今、街の中央に聳え立つ建築物はさくらの後方に去りつつあった。

「思ったよりも勇敢な者が少ないのか、あの時出会ったので全部だったのか、或いは連絡を受けて全てが奴のもとに集っているのか……」

 奴、というのは恐らくマクシミリアヌスのことだと思う。そしてその可能性は大いにあるとさくらも認めた。チッタペピータには中央区画がある。情報を得たらどこへ持っていくのか、どこへ行けば最新の情報が手に入るのか、チッタペピータの誰であっても当然知っているだろう。皮肉なことにウィトゥス・ガッダという共通の敵を前にして、どこよりも強固に情報の伝達に長けた街となったのだ。おかげでネロを狙っていた連中に鉢合わせるような心配は、一先ずは必要ないということか……。

「安堵しすぎるなよ」

 と釘を打たれた。若干気を抜いたのが伝わったのだろうか。器用な奴。……いや、或いは“通常ならそう反応するだろう”ということを、単純に予測して口にしているだけかもしれない。難しそうなことに思えるかもしれないが、結局のところハッタリだ。

「万が一未だアルブスを諦めていない輩がいた場合、ガッダによるこの有り様だ。少しでもご機嫌を取るために、是が非でもアルブスへの糸口を掴みかからんとも限らない」
「ご機嫌取りね……」

 壁の向こうに置いてきたネロの存在が気になった。
 今この場で襲われたところでいないものはいないのだからどうとでも抜け出すことはできるとして、街の外にいるネロは平気だろうか。彼を守ることの出来る誰かは、今あの場にはいないのだ。

「急ぐぞ」

 ヤコブスが言った。
 彼のそれは、恐らくネロを気にしたものではないだろうとは思うけど。

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