さくらが早速(もっと正確に言うなら遠回しに。幾つかのどうでもいい提案を犠牲にしてから――)マクシミリアヌスに話を振ると、大木のような大男は暫く苦いような渋いような顔をした。

「君は何を言っているか理解しているのか?」
「勿論」

 さくらとしても最初聞いた時は受け入れがたかったのは事実であるけど。落下のスピードは流石に相当なものだろう。レオーネの足があるとは言っても、落ちた時の衝撃で鞭打ち症になる可能性だって否定は出来ない。また、レオーネが安心して落下するのに足る広さというのも必要だ。門から続く東西を結ぶ大通り付近が最も可能性があるとは言えるが、そこら辺の詳しいところもマクシミリアヌスに聞いてみないと分からない。
 マクシミリアヌスは暫くもにゃもにゃと苦い泥でも咀嚼するような顔をして、何らかの解決策を探してでもいるかのようにのったりと視軸を彷徨わせていたけれど、やがて観念したかのように動かしていた視線をとめた。

「三人が限度だ」

 とマクシミリアヌスは先に言う。

「それ以上は魔力が持たん。落下の衝撃と人の重さとにレオーネが耐え切れなくなるからだ。三人までなら何とか衝撃を和らげることは可能だが、四人目の圧には耐え切れまい」
「三人目までならいいのね?」
「どうせ君も乗るのだろう?」

 質問に質問で返されたが、特別何かを思うことはしなかった。頷いて答える。「ええ、無論そのつもり」……そして多分、マクシミリアヌスもついてきてくれるのだろう。自惚れというのも多分にあるが……騎乗者であったほうが安全性に確証が持てるという理由も、実際のところあるかもしれない。
 マクシミリアヌスはさくらの返答に頷いた。

「ならば三人が限界だ。よもや君を危険な目に遭わせるわけにもいかぬしな」

 ……人数に制限があるのは覚悟していた。それが三人だろうが四人だろうが、誰かが置いていかれることは避けられない。さくらが行かないことで制限が四人に増えるとしても、結局全員は赴けない。ならば自分が行くことに躊躇いは無い、悪いけど。……と、誰に伝えるでもなくさくらは思う。

「残り一人は誰でもいい?」
「誰でも。……と言っても、君の返事は分かっているが」

 さくらは薄く微笑する――この落下の提案が誰からのものか彼が薄々感づいているのか、それとも単純にさくらの性格が分かっているが故のことなのか、判別がつかないあたりが本当に油断のならない…………。


射程距離



「密着はしてくれるなよ……」

 一言一言区切るような形でマクシミリアヌスが後ろに向かって念を押す。「はっ、誰が貴様などに」……ヤコブスの心底嫌そうな声がマクシミリアヌスの巨体越しにさくらの耳に飛んできて、流石に心中で突っ込んだ。いやいや、今から落下しようって話になっているわけだから、そこは安全のためにもくっついてたほうがいいだろう……。言ったところで聞くとも思えなかったので、口には出さなかったけど。

「サクラ、口と歯とはしっかり閉じておくように。衝撃で舌を噛んでしまわんとも限らんからな」

 小さく頷くだけでさくらは返した。
 登りの時と同様に、マクシミリアヌスの腕に抱かれるような格好でさくらはレオーネのたてがみのあたりを握り込む。
 ……数十メートル上からの落下。
 もとの世界の高層マンションと比べるとそれほど高いというわけではないし、さくら自身特別高所恐怖症というわけではないけれど、それにしたって、何と言うか……。
 三人の人間を乗せて若干窮屈そうにレオーネが頭を左右に何度か振った。
 ……何と言うか、緊張からは逃げられない。
 ――――マクシミリアヌスの手のひらがぽんと頭に降ってきた。

「何、大丈夫だとも。後ろの奴は別として、何があろうと君だけは俺が全霊をもって守ってみせよう」

 ――小声で言ったが、多分ヤコブスには聞こえていたのではないかと思う。それでも口を差し挟まないのは、ヤコブスもマクシミリアヌスも、どちらもさくらを気遣ってくれているから……ということになるのだろうか。ちょっと自意識過剰が過ぎているかもしれないが。

「……ありがとう」

 まだ硬い声ではあったけど、肩の力は微かに抜いた。多分、マクシミリアヌスには伝わったことと予測する。
 レオーネの双眸がこっちを向いていたことに一拍遅れて気が付いた。
 その時にはもう彼(或いは彼女? 眷属に性別があるのなら)は興味を失してしまったように視軸を戻していたけれど。

「気をつけてくだせえ」

 レオーネから少し離れたところで、さくらに負けず劣らず緊張した面持ちでもってトマスが言った。

「そっちも気をつけて」

 ――吐息して。

「暫くここに留まっていなきゃならないでしょう?」

 言うと、トマスの隣でカタリナがからから何でも無さそうな顔で陽気に笑った。下方から飛んでくる冷たい夜風が、カタリナのウェーブのかった茶髪をすくい上げるように戦がせる。

「何、じっとするのにかけては、あたしらは皆専門家みたいなもんさ。あんたは自分が生き延びることだけ考えなよ。安全地帯にいるあたしらのことじゃなくってさ」

 それが清々しい激励に思えてさくらは小さく微笑した。勿論ここが完全なる安全地帯だと決まっているわけでは無い。ウィトゥス・ガッダはベレンガリア家の抜け道を生成するための魔術式を、中途半端に壁を割る仕様に書き換えるようなふざけた嗜好の持ち主だ。街壁の突端に何らかの仕掛けを施していないとは限らないし、これから仕掛けて来ないとも無論限らない。
 ……カタリナの言った“専門家”には、多分にそういった意味も付随するのだろうとさくらは思った。

「今生の別れでもあるまいし」

 とマクシミリアヌスが後ろで言った。笑いを含んだ声だったが、それは悪い意味には聞こえなかった。

「跳ぶぞ、サクラ。今我々が成すべきことはたった一つしかあり得ない」

 僅か顎を引くことでマクシミリアヌスの言葉に応えた。歯を合わせて衝撃に備える――!

「行くぞ!」

 マクシミリアヌスの怒号が手綱のように鋭くしなり、レオーネが大きく宙を駆る。

■ □ ■


 起きた時、そこには誰もいなかった。自ら一人になりたいと言ったのだろうか。実際あまりよくは覚えていない。視界がやけにぼやけているなと思ったら、まるでそうするのが当然であるかのように眼鏡カテーナ(チェーン)に吊られるように胸の辺りで揺れていた。ほとんど惰性で拾い上げて装着すると、途端に世界が身近に感じた。

(…………成る程一切の無駄は無い)

 多分これもほとんど惰性。一人の人間の思考を覗き見ることは、ウィトゥスにとってただ単純なる惰性であった。

(こちらに最速で向かう術を最優先で思考する。焦りは無い。ただ焦れている。“あの時こうしていればこういうことには成り得なかった”……打ち消し。成る程、後悔への憂いを異世界人は打ち消せる。ならば成長の幅は大きかろう)

 惰性、惰性、惰性――本能的に第三者の介入を拒絶する人間の心中を覗き見ることに、ウィトゥスに躊躇いや惑いは無かった。それは思考能力が備わっているが故に考察するのと同義であった。
 実際に邪魔者が外から乗り込んできたことを、不思議と何とも思っていない。彼女らはここへ来るだろう。一部の人間ではあるが、マナカがここにいることも十分想像がついている。そうなったら……
 マナカはウィトゥスを殺さない道を選ぶだろうか?
 否。
 ――解を出すのに間は要らない。彼女を観察していて理解した。あの子にとってチッタペピータの人間がどうしようもなく他人であっても、この世界にただ一つ、他人でいられない者がいる。

「すぐに殺せと言うかと思った」

 唐突に降って湧いた言に流石のウィトゥスもぎくりと体が強張った。光源の届かない暗い自室の両扉が、片方だけ開け放たれていたことに気が付いた。真っ暗な廊下からひたりと殺した足音で、女が一人ウィトゥス・ガッダの部屋に立つ。

「マナカ……?」

 では、ない――思わず声を発してしまってから気が付いた。声があまりに――あまりに違う。特別彼女の声を意識して聞いていたわけではない。ただ、ただこの声色は――まるで真っ黒な泥を呑み込んだみたいな粘性の。

「他所へ意識をやっているトキは、周りに意識を配れないのね」

 彼女が薄く微笑んだ。背筋に怖気が走ったのをウィトゥス・ガッダは自認する。嗚呼、そうか、これが――

「貴方がキリか――!」

 彼女は微笑っただけだった。爽やかなものでも妖艶なものでもない、ただただ人を見下すような嫌な笑い。少女の中に悪魔が棲み込んでいると言われたほうがまだ理解はしやすかろう。聞いていたとおりだ――! “彼女”にマナカの面影は見当たらない。“彼女”は子が何の罪もない昆虫を解体することができるように、人間に対してもそれをする。漸く“会えた”――ちらちらとマナカの内側に巣食っていた、“彼女”の片鱗の集合体に。

「熱烈に歓迎されたのは初めてだけど、でも残念。今は様子見」
「様子見? 何故」
“彼女”は答える前に間を置いた。微笑を一度も崩すことなく。「だってワタシ、まだ興が乗っていないから」
「貴方が合法的に殺せる相手がここにいるのに、かい?」
「ソウ。人に言われて殺すだなんて、機械的で事務的で、あまりにロマンを感じない」

 流石にウィトゥスも困惑した顔をしたと思う。殺すことを拒否されるとは思わなかった――だって聞いていた“彼女”像は、享楽的な凶悪殺人犯であったから。それでも言い分には納得できると考えた。命乞いされて殺害することを快楽の一つに数え上げる殺人犯もいるだろう。

「では、どうしたら殺してくれる?」
「興が乗ったらね」

 と言って彼女は微笑った。マナカのそれと似ているような気もしたが、それよりももっと虚ろで吸い込まれそうな闇がある。深淵を覗く者は――という格言か何かを、五百年前の異世界人がぽろっと零してなかったろうか。

「いつまで待てばいい?」

 尋ねることに躊躇は無かった。彼女の心中は暗闇に毒され過ぎていて上手く読み取れなかったし、尋ねることがウィトゥスにとっては新鮮な作業でもあったので。
 ここで仮初の命乞いをしてみようとも思わなかった。そんな虚構に意味は無い。彼女はウィトゥスが死にたがっていることを、恐らく誰より知っている。

「マナカを説得して見せたら」

 突き放すような言い方だったが、言葉としては疑問形と捉えるべきだ。可能ならばやってみればいいんじゃないか、という。

「それは、説得したら貴方が殺してくれるということでいいのかな。それともマナカ?」

 音も立てずに微笑したのを、闇に慣れてきた視界のおかげでウィトゥスは辛うじて視認する。次の言葉を彼女が発声するのに、間はほとんど挟まなかった。

「キミにとって、それはどうでもヨいことでしょう」

 ……波打つ黒髪を最後に中空になびかせて、彼女の気配が霧のように掻き消えた。
 違いない、とウィトゥスは一人短く笑う。
 月は未だ落ちる気配が見当たらないが――…………。

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