ヤコブスがちらとこっちを一瞥して、片肩だけを器用に竦めた。後ろでフゴがすまなそうな、まだ若干覚束なげな声で言葉を紡ぐ。「す、すいません……」「許容範囲内だ」短い言葉の応酬が始まって終わった時にはヤコブスはもうこちらに背中を向けていて、街に近い突端の側に歩み寄っていたところだった。下からビル風のようなものが吹き付ける。柵も何もないぎりぎりの突端をヤコブスは足で踏みつけて、睨み下ろすように街を見た。 ……ふらついた体をマクシミリアヌスに支えられて、一瞬ふらついた自分にびっくりしてから「……ありがとう」惑った状態で礼を言う。平衡感覚が可笑しくなるのだ……人が五人くらいはギリギリ通れそうな幅はあるものの、それが広大であるとは言いにくい。おまけにこの下は何十メートルもある虚空である。時々吹く風に持って行かれそうになるのだろう、とさくらは思った。この状態でよくギリギリに立てるものだと、ヤコブスに対して呆れ混じりの尊敬の念を送っておいた。 同じくヤコブスの隣の突端で遠い下方を見下ろしながら(こいつもこいつで当たり前のように凄いな……とさくらは思う)、トマスが言った。 「さァて……どうしやす? 登るのは楽でも降りるのはちいっとばかし骨が折れるかもしれやせんぜ」(登るのは楽、と言ったのか? とさくらはここで耳を疑う)。 「さて、どうするかね……」 炎が灯る音がした。ヤコブスの発言から暫くして、甘さを残した煙草の香りがさくらの鼻腔をくすぐった。眷属の顎を恐らく惰性で掻いてやりながらマクシミリアヌスがぼそっと言った。「考えていなかったのか……」 「何、登ることができりゃあとは何とかなるもんさ」 恐らくだけれどマクシミリアヌスの言葉を受けて、からから笑ってカタリナが気軽に請け負った。と言って…… ぐるりと街を見晴るかす。 ……街壁と街、あまりに接点がなさすぎる。 思わずさくらは眼を眇めた――まず第一に街壁に届くほどの高い建物がほぼほぼ存在しないのだ。例外はチッタペピータ中央にある貴族による貴族のための行政機関が林立している中央区画、そのさらに中心にある塔が一つ。それからあとは、街外れにある――今回の目標地点、ガッダ卿の屋敷の一つとして数え上げられる尖塔が一つ。 ……だがどちらもあまりに距離がありすぎる。中央区画は言うまでもないとしても、ガッダ卿の尖塔だって……ちょっとの足がかり程度では届かず落ちて死んでしまうであろう距離がある。そもそもガッダ卿の敷地内だ。今回の事件の発起人が、外からの侵入をそうやすやすと許してくれるとは思えない。 「レオーネでは越えられない?」 気持ちよさそうに顎を掻かれている彼の眷属を視界の隅に入れながら、マクシミリアヌスに向かってこっそり問うた。 ちらりとマクシミリアヌスはガッダの尖塔のほうに目をやって、鼻にシワを寄せてから難しいなとでも言いたそうな顔をした。 「無理だな」 「距離が足りない?」 「足りないというのもあるが、助走のための距離も無い。おまけにこれだけの人数全員運んで跳ぶだけの脚力はレオーネには一切無い」 難しい顔を崩さずに、 「……俺が魔力を最大出力すれば或いは……いや、今ここで魔術が使えなくなるのは痛い上、それでも尚届かない」 ぶつぶつ呟きながら自身の顎髭を表情はそのままにばりばり掻いた。眷属の最大出力とは即ち魔術師にとっての魔力の死。それは永劫のものではないが、確かに今このタイミングでマクシミリアヌスが戦力で無くなってしまうのは危ない橋に違いない。 前方ではトマスが、リュックから取り出した長めのロープを見繕いながら、「ちぇっ」軽く舌打ちを打っていた。 「駄目ですね、全然足りない。全員分合わせりゃそこそこの長さにはなりやすが、ここのつるっつるの街壁のどこに引っ掛けるかという問題も……」 振り返って、西の空を仰ぎ見た――月は徐々にさくらの背後に近付きつつある。満月に満たない月一つ。これがこの惑星と一体どういう位置関係にある月で、この月がどのタイミングにある段階で太陽が昇るのかということをさくらは知らない。 「一度ガッダの屋敷に近付くかい?」 というのをカタリナが口にした。 いつの時点からだろう、街壁のこの頂上にあぐらをかいて座り込みながら、カタリナはさくらやマクシミリアヌスや、ヤコブスやトマスの話す言葉を聞いていた。 「……行かない」 さくらは答える。 「どうやって辿り着くかが決まっていない段階で、不用意に彼のもとに近付くのはあまりに危険だ……」それより、とさくらは言った。「カタリナは考えないの? ヤコブスやトマスや、フゴやグイドと一緒に」 あっけらかんと彼女は笑った。小麦色の肌にとても良く合う太陽みたいな邪気無き微笑。 「あたしは実行する係。考えるのはヤコブスやトマスに任せるさ」 マクシミリアヌスが肩を竦めた。 「その女はそれについては動かんぞ」 ……全く、一見合わなさそうなピースでも回転させれば合うものだ(というのを以前二人組ませたさくらが思っていると判明したら、二人とても嫌そうな顔をするだろうけど)。 「…………本当に死ぬかと思った…………」 マクシミリアヌスの眷属の隣で、ようやっと心臓の動悸が収まったらしいフゴが本当に小さな声で呟いた。数十メートル落下したと思ったら丁重とは言えない形で掬い上げられたのだ、気絶していないほうが寧ろ奇跡だろうとさくらは思う。 ……ヤコブスとトマスがこちらに視線をやっているのに気が付いた。 何やら居心地悪そうにしているトマスはいいとして、その隣でヤコブスが何やら苦虫を延々噛み続けることを命じられているみたいな顔をしているのは何事だろう。 「姫さん」 トマスに鋭い囁き声を飛ばされた。……一度ちろりとマクシミリアヌスに視軸を放り投げてから、地表から数十メートル上空にあるこの街壁の突端を慎重に慎重に歩み切ろうと努力する。 ヤコブスとトマスが壁のぎりぎりのところにいたので流石にそこまで向かう勇気は無いぞと思っていたら、二人そろってさくらの側へ歩み寄って来てくれた。 「何? 何か策でも?」 街の側に寄ると思ったよりも夜風が強い。壁に囲まれた街の中では、風の抜け道が上空しかなくなってしまうということだろうか。ちょっと気を抜いたら体ごと持って行かれそうな予感すらして、改めて、そのぎりぎり端っこに立ち続けていた二人の神経を疑った。 「中佐殿のことなんですがねぇ……」 風に言葉が攫われないよう、耳打ちしながらトマスが言った。 「何というか……眷属を使わせることは可能ですかい?」 片眉だけを跳ね上げて続きを請うた。言っている意味が分からない……先程直に聞いたとおり、眷属で跳ぶにはあまりに心もとない距離である。 「眷属ならばここから降りても無傷で終わる」 ヤコブスが差し挟んだ声に思わず彼の顔を見た。さくらの目線よりもずっと上にある無精髭の散った男の顔は、相も変わらず忌々しげに歪められたままだった。ヤコブスの形のいい唇から小さな舌打ちが短く漏れる。 「出来得るならば使いたくはなかったのだ」 「まあそれは、半分オレが提案したようなもんでさあ……」 「だが現況速さを重視するならそれしか無いのもまた事実」 尻すぼみの声音でもって、トマスは「まあそりゃそうですが……」と言って気まずげな視線を彼方へ寄せた。ヤコブスがいかに嫌がっているかということはトマスのそれで分かったが、さて、眷属を使わせてもらうとなると……。 「それで私を呼んだのね」 断定口調で言うとヤコブスが短く「そうだ」と言って頷いた。 「こちらから頼むのは御免こうむる」 ……さくらは暫し呆れてからほんの少し苦笑する。さくらが頼んだほうが確率が高いとか、こちらから頼んだら断られるだろうから、ではなく、頼むのが嫌だからさくらに任せる…………。随分“らしい”話だなというのが最初の感想。 「いいわよ、じゃあ……落下してもらえばいいのね」 自分で言ってて、今から胃の底のほうが浮き上がるような感覚に晒されぞくっと背筋が強張った。何十メートルもある頂点からの落下、流石に気絶するような高さではないが……。 「多分、人数に限りがあると思うけど」 「オレらは別に構わねえんで……誰を連れていくかは姫さんのほうが決めてくだせえ」 それは結果的に誰を連れていくべきか言っていることにならないだろうか、とさくらは思う。まあいいか……一先ずはマクシミリアヌスに、打診するのが先決だ。 |
無音の市 |