重力の向きが変わった時点でさくらは瞳を押し開けた。「っ……」声は出て来なかった。さくらの前に空が広々と開けていた。地上の明かりが少ない分壮大なまでの星空が、長く続く街壁の先に。……その道中にフゴらの姿が見えていることに気が付いた。半ばマクシミリアヌスの胸板にもたれ掛かるような格好で、さくらは一時ほう……と息をついてから、慌てて眷属の毛並みを握り締め直す。マクシミリアヌスにばかり負担をかけさせるわけにはいかない。何せ眷属が駆けるこの数十メートル下は星空でも何でもない、無慈悲なまでに現実的な、死へ誘うための地表しか存在しないのだから。

「そろそろ体力が限界に来るはずだが、いやはや……」

 誰に聞かせるわけでもないぼそっとした言い方で、マクシミリアヌスが口にした。

「その無限の体力だけは、見習わせたい輩が何人かおるわい……」

 素直に賞賛するというよりは、どこか苦虫を噛み潰してでもいるかのような声色で。それがマクシミリアヌスらしくてちょっと笑ってしまった。そんな状況では無いのだが。

「……サクラ。街に入ったら、俺は真っ先に教会に駆け込ませていただく」

 今度はちゃんと、誰かに聞かせるための声色だった。誰か、というのは勿論、ここに示すまでもない。

「魔術式の縛めが解かれた今、街の皆を安心される責がある。場合によっては瓦礫を廃し、外へ連れ出すこともするだろう」

 ……顎を持ち上げてマクシミリアヌスの顔を見た。二メートル超えの大男はさくらの体をあまりにすっぽりと包み込み、その強靭な肉体はさくらを重力に晒させない。

「……分かった」

 さくらは言った。
 マクシミリアヌスは吐息する。安堵の意味にも溜息にも取れるが、多分そのどちらとも含まれているのだろうと思う。

「彼らに君を託すのはあまりに不安しかないのだが……」
「大丈夫。必ず戻ってくるわ……真佳も絶対引き連れて」

 むしろさくらはマクシミリアヌスに好感しか抱かなかった。そこで国の人間よりも見ず知らずの異世界人に貢献しようと言うのなら、それは国に使える治安部隊として間違った行動と言えるだろう。彼は飽くまで彼の仕事を、優先すべきなのだと思う。

「そうしてくれると助かる――、!!」
「っ、」

 上げかけた声をすんでのところで呑み込んだ。重心がずれたさくらの体を、まるでそれが分かってでもいたかのようにマクシミリアヌスが腕の動きだけで見事に支えた。「……ありがとう」礼を言うのが一拍遅れた。刹那。

「わぶっ――」

 後ろのほうで何か重いものが落ちた影響でまたしてもレオーネの移動の軸が僅かにずれたが、警戒していた最中だったので今回は重心が逸れずに済んだ。むしろ降ってきた何かのほうに驚いた。「何――」マクシミリアヌスの太い腕越しにギリギリ身を乗り出して何かの着地点を覗き見ると、フゴがぐったりした様相で伸びていた。

「フゴ……!?」

 どうやらレオーネの背に腹をしたたか打ったらしい。打ちどころが悪かったのか悶絶しているようだった。一応嘔吐はしていない。何か返事をしたらしいが、腹に力が入ってないので何を言ったのかはさくらの側には分からなかった。

「……落ちたの?」

 反射的に空を振り仰ぐ。当然というか勿論というか、天高くそそり立つ街壁の途中にフゴの姿は見られなかった。最後尾はグイドということになっている。一度こちらを気にしたような素振りを見せたが、グイド自身も気を抜いた途端重力に導かれるまま真っ逆さまという事態になりかねない。無理してこっちを覗き込もうとはしなかった。
 ――さっきレオーネが突然軌道を変えた理由が漸く分かった。フゴが落ちたのを確認したのだ。だから急遽救助のために軌道を変えた。マクシミリアヌスがその直前、レオーネを掴んだ腕のどちらかに力を込めて制御していたような気はするが、注視していたわけではないので正確なところは分からない。

「登る箇所は同じである故な。一人くらいは助けられようと思っていたさ」

 ……何だかんだで見捨てるところが無いあたり本当に素直じゃないんだから。見捨てられないというのが正確なのかもしれないけれど。毒の使い手に関わるカタリナの話を聞いてると。
 うぅ……と呻きながらフゴが身を起こそうとしたらしかった。

「動くと落下の危険が高まるぞ。ここから落ちかけたところで、俺もレオーネも助けてやれん」

 向こうの気配が面白いくらいぴたっと止まった。“糸目”のフゴは相も変わらず裏表がなく正直だ。

「すみません……足を滑らせてしまいまして」
「構わんさ。むしろ自らの幸運のほうをこそ賞賛するがいい。レオーネにこの壁を上らせるならギリギリ三人が限度な故な。貴様が二人目であれば容赦なく見殺しにしていたところだ」
「ぅ……って、それもしもこれから首領が落ちてきたら見殺しにするってことですか!?」
「馬鹿め、あやつなど人数に余裕があっても見殺しにするわ」

 出来ない癖にとさくらは思ったが口にはしないことにした。

「落ちないようにね、フゴ」

 向かい風に負けないように声を張り上げてさくらは代わりに釘を刺す。

「ヤコブスの安全のためにって身を投げ出したら、あの世に行ってとっちめてやるから」
「はは……あの世ってソウイル神のお膝元のことですか? 相変わらず容赦の無い……いえ、大丈夫です。今は飛び込みませんとも」

 ……今は、ね……。
 敢えて突っ込まないことにした。

「着いたな」

 もうか、と思ったが、マクシミリアヌスが言ったのは何もさくららのことを指してのことでは無かったようだ。風を切って走るレオーネの進路に惹きつけられるようにぐんと上空を仰ぎ見る。下から見上げるよりも登ってからのほうがずっと遠くに感じていた。一番突端のところで、トマスが頂きに手をかけた。続いてヤコブス、カタリナと……突端に手をかけたのを見届けたところで、後ろでフゴがあからさまに吐息した。

「思ったよりも早く着いた」

 マクシミリアヌスの言葉が吐息となってさくらの頭頂部に落ちかかる。「これならもう少し早めに出ても何も問題はなかったな」……。
 レオーネが蹴った足場から瓦礫の粒がからからと落ちる音がした。

「……意外でした」

 と言ったのはフゴだった。振り返ろうとして、ちょっと振り返っただけではフゴのほうまで視界に入らないのを思い出す(何せマクシミリアヌスのガタイがあまりにも良すぎるために)。
「あん?」と粗野に聞いたのはマクシミリアヌス。
 ちょっと怯んだ感じでフゴがもごもごと口にする。

「いえ……、結局俺たちはここでは異教徒で、教会の人間は皆俺らを目の敵にしてる……と、思ってましたから」
「目の敵にしているとも。状況が違えば、俺は貴様らを一人残らずひっ捕らえていたところだ」

 向かい風の轟音にまぎれて、ひゅ、と、後ろで短く息を吐く音。甲高いそれはさくらの耳に微かに響いた。

「……それでも、能力は認めてくれるのだと」

 ふん、とマクシミリアヌスが鼻を鳴らした。

「こういう状態である故な……サクラとマナカにせいぜい感謝するといい。君らの同行を認めたのは、ひとえに彼女らの言動あってのことと肝に銘じておくがいい」

 それは本心なのか建前なのか、さくらには分からなかったけど。
 感謝されても困る、とさくらは思った。あの時ガプサに助けられたのは自分であり、その彼らが教会に連行されるかもしれないと思うと黙ってなどはいられなかっただけなので。強いて言うなら恩義を返しただけである。本当にここまでついてきてくれるとは思わなかったけど。
 ……不思議な人たちだな、と思った。
 この世界の人間でもないほとんど見ず知らずのさくらに対して、ここまでやってくれるとは。

「私が寧ろお礼を言いたい」

 とさくらが言うと、マクシミリアヌスは鼻を鳴らして半ば大袈裟に肩を竦めた。いい意味でも悪い意味でも、その動作には大分感情がこもっているように見受けられる。

「突端だ」

 というのをマクシミリアヌスが口にして、レオーネが最後の一蹴りでもって街壁の頂上にその四肢を下ろした。
 風が、ほとんど真下から吹き抜けた。

中空の、

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