見慣れない獣の毛並み(と言えるのかどうか不明だが)を掴んでみると、意外なことに全く熱さは感じなかった。炎がその温度を失って物質化したみたいな感じ。マクシミリアヌスの魔術が炎であることは知ってはいるので、多分誰にでもこういう感じというわけではないのだろう。でなければこれは単なる獣だ。――単なる、というのは適切でないかもしれないが。

「いけるか?」

 マクシミリアヌスが聞いてきた。

「炎は実際にはもっと強めに握っていたほうがいい。実際登る時には、ほぼほぼ壁から垂直になっているも同然なのだからな。多少のことなら俺が支えておけるが、念には念をという言葉もあろう。なに、レオーネはちょっとくらい強めに握ったところで痛がらんよ」

 ――というのを実際に飼い主(?)から言われると、遠慮がある程度すっ飛んでしまってありがたい。危うくマクシミリアヌスを巻き込んで地面に垂直落下するところ。マクシミリアヌスに限って、そんな事態だけは招かないだろうけど……。
 ベレンガリアが少し離れたところで本当に悩ましそうに吐息した。

「はあ……やっぱり素晴らしいですわ、魔術の王、神の恩寵たる炎の眷属……場合が場合でしたら、本当に私が買っていましたのに……」

 マクシミリアヌスがちょっと困った顔をした。「だから、フィアンマ・レオーネは商品では無いと言うに……」
 結果的に破滅的で絶望的な、街壁を登るという手段に出ると決まった時に、マクシミリアヌスが真っ先に提案したのがこれだった。さくらが自力で登れるはずもなかろうし、誰かが抱えて登るとなると双方に相当な危険がかかる(まあ実際君らだけなら危険に遭っても構わんのだが、と、マクシミリアヌスはヤコブスのいる方向を示唆しながらそう言った)、出来得る限り安全にさくらを上まで運ぶには、俺の眷属が適正だろう、と。
 第一級魔力保持者に特有の眷属、マクシミリアヌスの場合は炎で出来た獅子のような生体を彼がこうして引っ張り出したのはそういった次第があったため。だからさくらはマクシミリアヌスと二人、こうして炎の獅子に跨がらせてもらっている。マクシミリアヌスも乗るというのは意外であったが、多分さくら一人ではまだ不安であることと、それから、マクシミリアヌス自身、一人で登るにはちょっとばかし鈍重過ぎると考えてのことではないかと思う。マクシミリアヌスのような二メートル超えのがたいのいい大男が、不安定な足場しかないこの場所をスムーズに登れる様をさくらは想像できないために。

「まずオレが先導するんでいいですね」

 とトマスが言った。

「トマスがそれでいいのなら」

 自分にかけられた言葉ではないと知りながらさくらは無理に押し入った。足場の確定されていない、壁を最初に登るなんて自殺行為にもほどがある。いや、最初であるか最後であるかに関わらず、依然自殺行為であることに間違いなんて無いのだけれど。
 トマスは若干苦笑みたいなものを浮かべて短く、「へい」と言った。無論トマスがそれでいいことは尋ねなくとも知っていた。

「その後に首領、姐さん……あんたらの順番はどうだったかね」
「おれで、その次がフゴだよー」
「あんたは本当に俺らのことはどうでもいいんだな……」

 トマスはフゴのぼやきに対して、肩を竦めただけだった。当然だろうとでも言いたげで、その口角は片方だけが不遜な感じでつり上がっているのが見えた。
 ……大丈夫なのか、とさっきこっそり聞いてみた。マクシミリアヌスの眷属にこうやって跨るようになる直前だ。“……途中で瓦礫かどこかが崩落したら?”さくらの問いに、“そしたらまあ、神に祈りを捧げるだけさね”――そう答えたことに対して。
 そしたらトマスは、大丈夫も何もないでしょうよ、と通り過ぎ際に小さく返した。「どうせやるしかねぇんだから……多分今ここで行かなきゃ後悔するし、オレぁ後悔ってぇもんが嫌いなもんで……ならもうあとは、飛び込んだその先を神様にお守りいただくしか道はねぇ、そうでしょう?」
 ……そう言われるとさくらも続けて何かは言えない。時間がなくて、手っ取り早い方法がこれで、後悔したくないんなら。

「……で、最後は私とマクシミリアヌス」

 トマスが述べた順序の続きをさくら自ら引き受けた。安全度的に言うなら、ヤコブスとカタリナ辺りがもっとも安全圏であるとは言える。トマスが確認した足場を即座に通るのだから問題無い。ただし何度も踏みしめられた足場が幾つもの人間の体重に耐えられるかどうかは不明確。よって最後になるにつれて危険度が自然持ち上がっていくわけなのだが――。

「眷属の体重は人間のそれを優に越す」

 さくらのすぐ後ろで、マクシミリアヌスが頷いた。

「レオーネが前に行こうものなら恐らくそれより後は共倒れだろう。それだけは避けたい。最悪の場合でも、眷属ならば着地を誤つことは無かろうて」

 ……それは多分、さくらを安心させるために紡がれた言の葉だろうと思うのだけど、その傍らでカタリナとフゴがあまりにあからさまに表情を僅か緩ませたのを、この大男が果たして知覚していたかどうか。

「それで、私はここで待ってでもいればいいんですの?」

 名残惜しそうに眷属の側から視軸を外しながらベレンガリアが口にした。状況が許せば乗せてもらいたかったのにみたいな残念そうな顔をしている。
 マクシミリアヌスが頷いた。

「出来れば待てるだけの時間で事を収めたいが、何せ中の状況がよく分からん。が、この夜闇の中君だけを森に帰すというのも危険なことだ」
「あら、私、一応ここまで一人でやって来たんですのよ。……アルブスの力を借りて」

 後ろでマクシミリアヌスが面食らったような、ちょっと困った顔をした。どちらを優先するかは難しいところだ。夜の街外で、こんなどこからどう見ても貴族の彼女を放っておくことも危険だし、アルブスと一緒とは言え帰らせることも気にかかる。
 ベレンガリアが肩を竦めた。幼き外見に似つかわしくない、妙に大人びた動作であった。

「ま、構いません。ここは見通しもいいですし、何か危険な香りがしたらアルブスと共に戻ります。あの森をアルブスの村まで歩ける者は、アルブス以外にはいなさそうですから……比較的安全ではあると思います」

 それでもマクシミリアヌスが微妙な顔をしていたままだったので、ベレンガリアは少し焦れたようにもう数言言葉を継いだ。

「もうぅ、血なまぐさい軍人風情が騎士の顔をするのはやめてください。これでも当家以外全員敵である状態でここまで生きてきたんです。危険を感じ取る力には人より長けているつもりです」

 さくらがマクシミリアヌスを見上げると、「むうぅ……」ちょうどマクシミリアヌスが小さく唸った。向こうでヤコブスが、「ふん」と鼻を鳴らす音。

「眷属だけ置いて貴様が彼女の護衛に残るというなら俺は願ったり叶ったりだが」
「誰が貴様なんぞにサクラやマナカを任せられるか!」
「であるならばとっとと決めろよ、武人殿。貴様の良心に付き合っている時間はこっちには無いんでな」
「…………」

 振り絞るような間があって、マクシミリアヌスが頷いた。――若干顔が青い気がするのは――命を天秤にかけるような冒涜を犯した故の、結果だろうか。

「薬草師殿」

 マクシミリアヌスの声が低く響いたせいか、唐突に話題を振られたからか、彼女は怯えたように肩を小さく震わせる。

「ディ・ナンニ嬢のことをどうかよろしくお願い申し上げる」
「は、はぃ…………」

 消え入りそうな声で彼女が言った。
 それがマクシミリアヌスの耳にも届いたかどうかは定かではなかった。

「ネロのことも……ごめんなさいね。もしも動きにくいようであるなら、私が抱えて一旦中で教会に保護してもらうこともできるけど……」
「い、いえ!」

 半ばそうだろうなと思ってはいたが、彼女は慌てたようにさくらの申し出を断った。――彼女の華奢な両肩には、ネロの白い両腕がそういう置物か何かのように力なく垂れ下がって揺れている。恐らく彼女には重いだろうが、多分手放そうとはしないだろう。アルブスの存在価値は狙われる側の彼ら彼女らが誰より明確に知っている。
 だからこそ彼らをここに置いていくのは不安極まりないのだが……どちらにせよ、外にも中にも安全圏と呼ばれるものはどこにも無いことを知っている。心苦しいが決断は下さねば。あとさくらに出来得る最大限は、可能な限り早く事を片付けることをサポートするだけ。

「行きやすぜ、姫さん」

 トマスに声をかけられた。亀裂に近い側から順に、トマス、ヤコブス、カタリナ、グイド、フゴ――それからマクシミリアヌスとさくらと眷属。整列とは行かないまでも、いつの間にか予定のとおりに間隔あけて、綺麗に列していることに若干の緊張をさくらは抱く。全員無事でいられますように。出来れば、どうか。どの神様でも構わないから――…………、
 ああ、確かに。
 こういうときに縋りたくなる相手をこそ、きっと神と呼ぶのだろう。

「行きやす――間隔あけて、しっかりついてきてくだせえよ!」

 トマスが一番に助走をつけて弾丸のように発射した。ぱっくり分かたれた壁の両端、そこに走った亀裂や瓦礫の残骸を足場にしながら、壁蹴りの要領で登っていく様に状況を忘れて思わず見入った。例えば自分が同じ状況に置かれたとして、やらなきゃならなかったとしてもあれだけ迷いなく登っていくのは不可能であろうと思われた。トマスの足には迷いがない。たった一瞬壁に爪先をつけた時点で、次の足場に最適な箇所というものを、瞬間的な本能でもって恐らく察知してるのだ。慣れているから、というより――多分それは度胸の問題。ほんの寸瞬迷っただけで、足元に狂いが生じただけで、場所を見誤って奈落の底に落とされる。これはそういう、まるで神話で語られるような神からの挑戦であるかのように思われた。眷属の毛並みを掴んだその手に自然力が篭もったが、マクシミリアヌスの眷属は身じろぎ一つしなかった。
 一定の間隔をあけてヤコブス、カタリナ、グイド――トマスが昇ったのと同じような箇所を正確に爪先でつきながら、先導しているトマスの跡を追いかけているのが爽快だった。隣でベレンガリアが愕然とした声を出す。「信じられない……彼らは猿ではないかしら?」

「彼らより間隔をあける」

 さくらの耳元で、ぼそりとした声でマクシミリアヌスが口にした。最後にフゴが飛び出した。

「眷属の歩幅は人のそれより広めな故な……恐らく彼らの四歩ほどが、レオーネの一歩と同じだろう」

 それは随分と差があるものだ。レオーネが前足の片方だけをちょっと後退させてから重心をずらした。耳を時々ぴくぴくさせて、主人の合図を待ってでもいるかのように見受けられる。
 最後尾のフゴが中間より手前あたりに差し掛かったとき、マクシミリアヌスのレオーネを掴んだ右手の指が、ぴくりと唸った。フゴが中間地点を突破して――

「跳べ、レオーネ!」

 マクシミリアヌスの号令に準ずる形でフィアンマ・レオーネが地を蹴る瞬間、凄まじいまでの風圧を感じてさくらはぎゅっと目を瞑る――

翔け、上がる

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