「着きました」

 ベレンガリアが放った言葉で我に返った。進行していた隊列が号令に合わせて停止する。ふと横を見ると、薬草師の少女は既に口を噤み伏し目がちの視線で地面のどこでもない場所を凝視しているようだった。ガッダの話の続きを追求することは難しそうだと視認した。
 貴族のお嬢様が案内したのは、彼女が来るより前に居座っていた西門を南方向へぐるっと回った箇所だった。南門が辛うじて見える位置ではあるので、恐らく南門寄りになるのだろう。特に特徴の無さそうなチッタペピータの街壁の、一体何が基準の目印になっているのかということがさくらにもさっぱり分からない。真佳を連れてきたら片っ端から試してみようとか言い出しそうな気さえする。
 内側が宝玉で飾られているのは以前に見た通りだが、外側から見たチッタペピータの街壁は簡素な装飾に留まってかなり上のほうであっても何らかの宝玉が埋め込まれている様子は無い。継ぎ目も見えないその街壁を、ベレンガリアはぺたぺたぺたと手のひらで何度か探るように手を這わせ。

「ありました!」

 さくららよりもむしろ喜ばしそうにそう言った。祖父から伝え聞いたことが真実であることに誇らしさを抱いたのだろう、と、さくらは推測するしかないけれど。
 手を触れながらあったと叫んだその場所をたおやかな手で触れたまま、

「――」

 彼女は一度息を吸い――

Aprire(アプリーレ) Di(ディ) Nanni(ナンニ)……!!」

 小声で薄く呟いた。
 呪文……! と意外に思って驚いた。この国の魔術というものは、基本的に円と記号を数式のように組み合わせる類いの魔術式だけで事足りる。そこに言語を加えるというのは。

「アルブスの魔術の応用です」

 小さな声で誰かがぼそぼそと呟いていると思ったら、さくらの横にひっついたままの薬草師の少女がどうやらそれの正体だ。夜闇に隠れられるからだろうか、最初に会ったころのネロと違って外套に隠しもしていない米噛みの角と、服の布地から覗くふわふわした尻尾が暗い視界を通して確認できる。

「基本的には余り言語は用いません……我々は言語のみで魔術を行使できますが、そちらの方々はどうしても魔術式の補助が必要になりますため……必要というわけでもない言語を式に埋め込むことは、好まれるものではないようです」
「……でもディ・ナンニのお爺様はそれをした」

 少女が小さく首肯した。

「……恐らく……、恐らく、ウィトゥス・ガッダ様の目を逃れるためでございましょう。魔術式そのものの破壊は外の力だけで事足りますが、そこに言語が埋め込まれた、と、なれば……」
「……たやすく破壊することが出来なくなる、と」

 少女は何も言わなかったが、それが多分返答だった。さくらの解釈にどうやら間違いは無いという。
 魔術式は多分中に埋め込まれているのだろう。それまで辛うじて見えていた煉瓦か何かの継ぎ目の箇所から、ぼんやりした光が宵闇の世界に滲み出てきたことに気が付いた。
 ベレンガリアが一歩――二歩。後退する。その時には既に人一人が腰をかがめてようやく通れるだけの僅かな範囲の街壁が、全体的に淡い光を放って見えた――。
 ――薬草師の少女が僅か目を見開いたのはその時だった。

「……っ!?」

 咄嗟に彼女の名前を呼ぼうとしたが、さくらは薬草師から彼女の名を明かされたことは一度も無い。自分の服の裾を引っ張り後退させようとするアルブスの少女にかける言葉は結局出てこず、ただ彼女の引っ張るままにたたらを踏んで――
 びきっ、
 と、
 何かが割れるような音がしたのはその時だった。
 一度鳴った後は連続的に、ドミノ倒しのドミノが倒れるように継続的に力強い音が夜闇を走る。

「――っっ!!」

 誰かの声にならない悲鳴。走ったのは音だけでは無かった。ベレンガリアが手を触れていた箇所を起点として、街壁のその全体が――縦に、ぱっくり割れていた。

「ガッダ卿の仕業です…………」

 轟音が掻き消え土煙が立つ静寂の中で、すぐ耳元で薬草師の少女の声がした。……気が付いたら彼女に引っ張られるままに、どうやら尻餅をついていた。温度の低い荒野の感覚をスラックス越しの太ももで感じながら、「……どういうこと……?」我ながら呆然とした声で呟いた。誰かが土煙を吸ったのか、ごほごほと荒々しげな咳をしている。

「これがディ・ナンニ家の開門かい!? 随分荒々しいね!」

 ――カタリナの声だと瞬時に気付いた。

「そ、そんなまさか……! お爺様は確かに突破口を築くと話してくださいましたが、こんな形でとは一言も……!」

 ごほっ、という咳嗽(がいそう)。いつの間にかヤコブスが、さくらの傍に立っていた。

「いや、違うな……」

 金色の双眸を土煙の向こう、僅か晴れ出してきた街壁の上空に向けながら。

「そもそもの話だ。……街壁は未だ、あいてはいない(・・・・・・・)

 ――亀裂が走って割れた街壁の向こうに壁が見えた。見慣れたチッタペピータの街壁と同じ色をした表面の。
 よくよく見ると、割れていたのは街壁の幅のうちせいぜい半分ほどだけで、街壁の一部を完全に真っ二つに叩き割ったわけではなかったのだ。成る程、街壁は未だ“あいてはいない”。これでは街の中には入れない。

「そんなっ! お爺様は私に、抜け道であるとおっしゃいました。開かないわけがありません、だってお爺様は――」
「ガッダ卿が書き換えやしたね」

 ベレンガリアの言葉を上塗りするみたいに冷静な声音でトマスが言った。いつの間にか割れた街壁のほうへ歩み寄り現場の状態を確認している。グイドもちゃっかりと亀裂を挟んだ反対側に陣取って、「んー」と長いこと呻きながら街壁の上のほうを精察していた。
 土煙に一つ咳をつきながら、さくらもしゃんと身を起こす。こういう緊急事態にすぐ動けるあたり場馴れしている……。

「お爺さんは街壁の中にこっそり魔術式を書き込んでいたようです。その一部が別の傷跡で上書きされてる。本来なら人一人屈んで通れるだけの隙間をあける手はずだったのが、こんな大掛かりで且つ半端なものになっちまった」
「は、半端ですって……!」

 祖父への批判と受け取ったのかベレンガリアが一瞬声を荒げたが、「まあまあまあ」カタリナは彼女が言葉を続けるよりも先に素早く場をとりなした。

「本来なら勿論上手く機能してただろうけど、ガッダの仕業なら仕方がない。それに無意味であったわけでもないさ。これならあたしらも先に進める」
「……何ですって?」

 ベレンガリアの問いかけに言葉は無かった。グイドが瓦礫を足がかりに「よいしょ、っと」二、三十センチ登って下りたのが解答だった。
 ……ベレンガリアが絶句したような間があった。

「……正気ですの?」

 恐る恐るとっいった感じで彼女が聞いた。血の気が引いてきた気がする、と、さくらは自身を分析にかける。この街壁、ずっと見上げていたいたからわかっているけど、二十メートルは下らない。建造物で言うなら七、八階建ての建物レベル。ここから落ちたら……無論どうなるかは語るまでもないことだ。

「まあ、高いところは慣れてるからさ」

 カタリナが何でもない顔で言って何でもない顔で容易く笑った。……場馴れしている、とさくらは彼らを評したが、場馴れしているで済まされるような段階では既に無い。

「いやー、流石にあのつるつるした壁は登る気すら起きやせんが、これくらいがたがたのならいけやすぜ。問題無い。むしろ登りやすいぐらいでさあ」
「……途中で瓦礫かどこかが崩落したら?」

 さくらが聞くと、トマスは憎たらしいくらいあっさり笑った。

「そしたらまあ、神に祈りを捧げるだけさね」

 ……目眩がしてきた。
 目頭を押さえつけながらさくらは思う。

「君は残ってるんでもいい」

 ……右斜め後ろから短くヤコブスの声がした。不明瞭な声。多分煙草を咥えてる。いつの間に。

「彼女を連れ戻すというだけならば、我々だけでも十分出来る。ここで待っている気はあるか?」

 ……まるで答えを知っているかのような口振りだな、とさくらは思った。それが強ち間違ったものでないことは、何よりさくら自身が知っている。

「行く気か?」

 マクシミリアヌスが咎めるでもない口調でそう聞いた。結果的に亀裂のすぐ傍にその身を晒すことになったベレンガリアを、どうやら支えてくれていたのはこの大男であったらしい。彼女の肩を支えていた腕を離しながら、視線をひたとこっちに据えて。

「……お荷物にならなければ」

 素直な気持ちを口に出来たことに感謝した。

オスクリタ

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