布帛に沈む |
「はいはい、しつもーん」 というのを樽腹のグイドが、ネロをその背に背負い直しながら口にした。いつものことだが緊張感というのが丸切り見当たらない発音だ。 その質問は、どうやら先頭のベレンガリアへと向けられているらしかった。 「ベレンガリアちゃんって貴族のお嬢様なんでしょ?」 「……そうですけど……それが何か」 敬うという感情が入っていないことに不満を持っているのか、あるいは警戒しているのかは不明だが、ベレンガリアの受け答えはどうも硬くて冷ためだ。ここで仲睦まじくしておく必要性はないにせよ……。 「――アンタももし帰れるのなら、私たちに付き合う必要はなかったのよ?」 最後尾に居座ろうとするアルブスの薬草師に小声で言葉をかけてみたが、異界語が分からないのか不安そうな顔を返されてしまっただけだった。ベレンガリアが送る際に必要だと思われるので、あの長老が何らかの魔術を行使していると思うのだけど……。答えがなければ帰すのも気が引ける。一人で夜の森を帰るのは不安だとかいう話であるかもしれないし。何度かかけた提案だったが、仕方なくさくらはこの件については口を噤むことにした。このまま街の中に入るつもりなのかも分からないし……もしも入ろうとしても、危なそうなら外で待ってもらえばいい。 ずっと前のところで、グイドがせっせとベレンガリアに追いついているのを視認した。 「抜け穴って何ー? 何でそんなものわざわざ作って語り継いでんのかなって。だって貴族のお嬢様なわけでしょう?」 ……ベレンガリアが一瞬、変わらぬ歩調で歩きながらグイドを睨んだように見えた気がしたが遠目だったので気のせいであったかもしれない。 「……別にディ・ナンニ家だけではありません」 憤慨したように彼女が言った。 「うちをほかと比べて臆病者だと思い込んでいるのなら――」 「そんなのは思ってないけどさー」 「……思い込んでいるのなら」 割り込むな、とでも言いたげな力強い声音で彼女が同じ言を言い直す。 「それは間違っていると答えます。ウィトゥス・ガッダ卿がこの街を見下すようになってから、全ての貴族が考えていたことです――万一のときは逃げること。家の血を絶やさないこと。それが我々貴族にとっての絶対条件でもありますもので」 「え、じゃあ、いたるところにあるってこと? 貴族御用達の、その抜け道が」 素直に驚いた顔でグイドが言ったのに半ば釣られるようにして、さくらはチッタペピータの街壁の端から端を一瞬視線で薙いでいた。抜け穴らしきものがあれば昼の視察の時にでも気がついていると思うのだけど、万一存在するのなら魔術式の拘束が解かれた今、誰かがこっそりと外に出てきていないとも限らない。 「……どうでしょう」と乾いた声音でベレンガリアは口にした。 「ウィトゥス・ガッダは私たちを憎んでいる……というのは聞いています。もしもあっても、ガッダに見つかっていれば多分取り壊されているか、使えないようになっているはず」 「……ベレンガリアちゃんのは違うのー?」 「……」 一時唇を噛んでいるかのような間があった。何かを我慢しているような。 「分かりません……ただ、祖父は私に言いました。もしもの時はここを通って逃げなさいと。祖父が……祖父が私に言った以上、私はそれは真実であると信じます」 ……か細かったけれど、とても凛とした声だった。真冬の澄んだ空気の中で、小さなベルを鳴らしているのを想起した。――元の世界でまだアメリカに住んでいたころは、クリスマス・イブに行く場所と言えば無論教会だったから。 ふーんという相槌を打って、グイドが視線を少し彼方へずらしたらしい。スキンヘッドの後頭部が真っ直ぐ立って、それから再び、ベレンガリアに目線を合わせるように倒される。 「お爺さんのこと、大好きなんだねー」 ……それに関してさくらのほうも異論は無い。きっと厳しくて畏怖も抱いているのだろうけど、彼女がかの肉親に抱いている感慨はきっとそれだけでは無いだろう。少なくとも彼女にとって単なる交渉相手に過ぎないさくららを、自分で現状を確認する前にこうして真っ先に案内してくれる程度には、その言葉の重さを知っている。 しかしベレンガリアはグイドのそれに感じ入ったふうもなく、視軸を前に固定したまま 「……貴方には関係の無いことですわ」 つんと高飛車に突っぱねられてしまっただけだった。それが照れ隠しであったかどうかは、彼女の表情を唯一見られるグイドだけが知っている。 「……ウィトゥス・ガッダは貴様らを――貴族を憎んでいる、と言ったな」 ヤコブスの声がぼそっと言った。さくらは若干の興味を覚えて彼の背中に視軸を合わせる。彼を振り返ったベレンガリアも、突然の物言いに少し驚いているかのようだった。 「何があった?」 ――一瞬、ベレンガリアは反抗的な視線になったらしかった。何だってそんなことを話さなければいけないのかと言いかけたのだと思うのだけど、途中気が変わったように黙するような間があった。 「……チッタペピータに、貴方がたのお仲間が残されているかもしれない、というお話でしたね」 十中八九ガッダと共にアイツはいる、と思ったが、さくらは何も言わないでおく。マクシミリアヌスに伝えないようにと過去フゴに言ったのは、さくら自身だ。――或いは、もしかしたらヤコブスには伝わっていることかもしれない。フゴや、あるいはトマスやグイドが、自分が見聞きしたことを頭目であるヤコブスに話さないとは思えない。 「……正直な話、何も無かったと言ってもいいお話ですわ」 ……湿度の高い声音だ、と、さくらは思った。岩に名残りを残す雨のように小さく無力で、でも人の心にすっと染み入るような声。 「何百年、何千年前にガッダの家に我々チッタペピータに住まう富裕層が何か失礼を働いたということは無い。……と、少なくとも私はお爺様から聞いています。我々は何もしてはいないが、彼奴は我々を憎んでいる」 ヤコブスは何も言わなかったが、ちらっと映る横顔で、その眉間が大いに顰められていることを視認した。先を促すときのヤコブスの癖のようなものだが、ベレンガリアはそれに気付いていないようだった。ヤコブスを知らない人間ならば当然の反応だろうとさくらは思う。それでも彼女は先を継ぐ。 「……彼が憎んでいるのは貴族ではなく、恐らく貴族の機構そのものです。これはお爺様から直接聞いた言葉ではありませんが……言葉の端々から、そんなような感覚をこのベレンガリア・ディ・ナンニが受け取りました」 「……機構?」 隣でグイドが合いの手のように口にした。ベレンガリアが頷いた。 「何であれ誰か一人でも生き残ることを優先させる体系、血を存続させる制度、長く栄えた家系こそ王者に君臨するべき思考。――そういうもの一切合切を、彼は憎んでいるのだろうと」 「それで抜け道を壊したりしてるの? あんたらの血を途絶えさせるために?」んー、とグイドは暫し思案しているような声を出し、「それはあまりに自分勝手で、理に適っていない行動だねぇ」 ベレンガリアはそれに心底ほっとしたようだった。「ええ、全く……いい迷惑にもほどがあります」答える声がどこかさっきよりも柔らかく、高飛車な様相もこの時ばかりは鳴りを潜めていたと言ってもいい。等身大の少女の声だとさくらは判ず。 「……多分ほとんど遊びです」 と少女は言った。 「以前、と言っても大分前です。祖父が若いころ、ガッダに物申したことがあると聞いています。その頃、中央区画にある行政機関を牛耳る貴族は随分ガッダに反抗していたと聞きました。その分ガッダからの報復は相当なものであったと聞きます。当時、祖父は中央区画の最高会議に名を連ねることはありませんでしたが、ガッダの報復が行政機関に関連する貴族だけに留まらなくなった段階で、最高会議に関係しない勇気ある貴族数人でガッダの館を、あの青年を訪れたことがあると聞きました。その時、彼は何と言ったと思いますか――『成る程! 貴方たちの言い分と身分は理解した。では、貴方がたは僕の報復リストから外してしまっても構わんぜ。せいぜい十数年程度だが。僕に面と向かって交渉してきたことに敬意を表して。行政機関を名乗る頭目気取りの連中には、悔い改めない限りまだまだきつく当たらせてもらうが――まさかほかの貴族の分まで、代弁に来たわけではあるまいね?』――」 まるでその場にガッダ卿がいるかのようにベレンガリアは滔々とそれを言い終えた。彼女の祖父から一体どういうふうに聞かされていたのか、今ので大体想像出来るというものだ。それを彼女は一言一句暗記した。間違い無しに怒りのために。 「祖父はそれで帰りました」 憤懣やる方ないといった態で彼女は言った。 「まるでその家さえよければほかはどのようにしても構わんのだろうといった扱い、非常に憤慨いたします。……けれど祖父は引き下がるしかありませんでした。ええ、貴族は己の血こそが重大です。ここで変に刺激して、ディ・ナンニの血を絶やすことだけは許されませんでしたから……ガッダにはそれが出来るのです……」 恐らく意識的に潜められた肉声が、夜の荒野に不気味に沈んで夜気を層一層寒々しげなものにする。 「……彼は我々の反応を楽しんでいる。嬲って、いたぶって、それで我々がどういう行動に出るのか……ウィトゥス・ガッダの思うとおりの行動に出ることを、恐らく面白がっているのです……」 …………。 ……。 ――。 祖父が若いころ、とベレンガリアはそう言った。 さくららの世界の感覚では、それはせいぜい六十年か五十年ほど前のことを指すと思う。六十年か五十年くらいの昔なら、そこにウィトゥス・ガッダその人がいても不思議は無い。 「……不老不死は、不老は、結果カバネという骨になる」 さくらのすぐ目の前でフゴの背中がそう言って、自分の言葉に呪われたみたいにぶるりと体を震わせた。吸血鬼。五百年前にも存在していた、ウィトゥス・ガッダという名の青年――そう、ベレンガリアはついさっき、ガッダのことを青年であるとそう言った。 「……ウィトゥス・ガッダ様は特別です……」 何かに恐怖するように、震える声で――アルブスの民の薬草師であった少女が自ら口にしたことに、さくらだけでなくフゴと、そのすぐ隣を歩いていたトマスまでもが驚いた。 ……異界語を話すための術を、長老から与えられていたのか、と、その時初めてさくらは知った。三人の視線が一斉に自分に集中したことに、彼女は居心地悪そうにもじもじ肩を縮こまらせる。 「……どういうことですかい?」 耐えられなくなったのかトマスが言った。ネロよりも長めの白髪を困ったように弄くりながら、彼女は視線を更に下方へ下ろしてしまった。 ……遺骨となるのが神の裁きであるのなら、とさくらはその時思考する。 「ガッダは神に許されている、ということ?」 「い、いいえ! いいえ!」 恐れおののくみたいに彼女は言って、「い、いいえ……」自分で声を張り上げたことに対して羞恥したのか真っ赤になって俯いた。張り上げた、と言っても、彼女の通常の声量と比較してのことだけど。ころころと表情が変わるので、可愛い子だなと思ってしまう。 「ウィ、ウィトゥス・ガッダ様は……」 つっかえつっかえ彼女は言った。 「ウィトゥス・ガッダ様は、神に許されている、ということではなく……ただ既に、受けるべき罰は受けている、ということです……」 「……受けるべき罰?」 糸目をさらに細くしながらフゴが言う。暗闇の中で彼女は小さく頷いた。 「……それはウィトゥス・ガッダ様個人に対する罰ではなく……ガッダ、という家に対する、永劫の罰です。……彼らは神の御下に下ることなく、永遠に地中を彷徨っています……何百年も。ずっと」 「彼ら、というのは……誰のこと?」足元にぞわぞわするものを感じる。ソウイル教にとっての悪や不浄は必ず、太陽の恩恵を授かれない地中に収まることになっていることをさくらは既に知っている。 「――ウィトゥス・ガッダ様を不死に落とした張本人」 密やかな声で言われたことに、うっかりその場が夜の不穏に侵されたみたいに静まった。不死に落とした張本人……? 自らであれ他人であれ、人を故意に不死に落とすことは果たして本当に可能になっているのだろうか。 「……ってことは、本当にガッダは不老不死……?」 その単語を口にするのでさえ穢らわしいとばかりにフゴ。どうやらこの手の話はあまりしたくないらしい。チッタペピータに着く前にカバネ出会ったあの頃のことを思い出すと、それも当然であろうと思えるが……。 薬草師の少女が頷いた。 「我らアルブスの民は、ずっとガッダ様から目を離さないようにしています……何十年も……何百年もずっと……」 質量を伴った彼女の声が宵闇の帳に沈んで消える。 |