「ネロ……!」

 糸が切れたように地面に倒れ伏したときは血の気が失せたが、駆け寄って口元に手をやってみるとどうやらきちんと息はしている。脈も正常だったので、どうやら気絶しただけだったのだと思い至って詰めていた息を知らずに吐いた。魔術を無効にする魔術――ほかの魔術師では到底出来ないようなことをやってのけたことで、意識を保てないレベルまで魔力を使い果たしてしまったのだろう、とさくらは簡潔に推測を立てる。

「魔術は去った。……驚くべきことだが」

 とヤコブスは本当に恐れ入ったような声色でそう告げる。カタリナがその向こうで、「アルブスの真髄ここにあり、って感じだねえ」やっぱり同じ類いの声でそう言った。マクシミリアヌスに至っては未だ信じられていないような顔でそこにいる。

「入るのなら今しかないぞ」

 金の双眼をこちらに向けて、ガプサの頭領は短く述べた。

「ガッダが次の手を打たないとも限らない」

 ……ネロの頭に手を触れて、さくらはそれに首肯する。倒れた際、打ちどころが悪かったらと思ったが、見たところ強打したようなところはないようだ。ネロが無事であるのなら、彼が開けてくれたこの道をひた走るしか道は無い。

「しかし暫く時間はかかるぞ」

 とマクシミリアヌスが口にした。

「魔術が無くともこの街壁が頑丈であることには変わりが無い。第一級の魔力を放り込んだところで時間はかかろうし、何しろ俺は加減が出来んからな。あちら、というか――」短く吐息。「……街の人間にまず見つかる」

 ……ということは、折角開けた大穴に街の人間が殺到してこちらから入るのが困難になるかもしれないということだ。彼らは一日恐怖の中で軟禁され続けている。水が氾濫するかの如く押し寄せてくるのは避けられまい。

「それは一部の低俗な貴族だけでしょうけど……まあ、開ける場所によってその可能性が否めないことは認めましょう」

 つんとした声が背後にかかって、それでさくらは後ろを向いた。
 ――そこに立っていた人物を見たとき、さくらは素直に驚いた。無論、あんな高飛車な台詞を吐き出せるようなスカッリアでの知り合いは、さくらの考え得る限りたった一人しかあり得ない。それでも絶対に“無い”と思った。だってわざわざアルブスの助けを借りて森を抜け、ここまで歩いてくるメリットが彼女の中には存在しない。
 ベレンガリア・ディ・ナンニ――毒を受けてアルブスの村にて養生していた貴族の彼女が、何故だかそこに立っていた。

「私がここに存在するのが、不思議で仕方がないという顔ですね」

 とても正確な異世界語。マクシミリアヌスをお抱え第一級として勧誘しようとしているのとは、また声色が違って聞こえる。――その後ろにアルブスの女の子が所在無げな感じで立っていた。見覚えがある。ベレンガリアの治療薬を調合してくれたという、アルブスの村の薬草師。

「……あなた方が困っているだろうと想像しました」

 正確すぎて機会音声みたく聞こえる肉声でもって貴族のお嬢さんは口にした。

「私は、あなた方の悩みを晴らすことができると自負しています。恩を売るなら――もとい、恩を返すならここしかないと判断しました。毒を受けた私を助けたことで報酬をよこせと、後でディ・ナンニ家へ乗り込まれても困るので」

 肩にかかった金の長髪を高飛車な感じで後ろへ弾き、

「貴族として借りは返します。下々の者への借りなら特に。それが貴族としての、ディ・ナンニ家としての仕来りです」

 ――カタリナと二人顔を見合わす。カタリナもやっぱり困ったような顔をして、さくらの顔を見下ろしているようだった。
 借りを返す、と言われても――残念ながら貸した覚えはさくらやカタリナには毛頭なく、さらに悪いことには――

「ちょっと待て、ちょっと待て、ちょっと待て!」

 もしもベレンガリアが何らかの理由で不器用な優しさを発揮しようとしてるとしても、こっちにはマクシミリアヌス・カッラがいる。……それはつまり、更にひねくれたことになる可能性に直結するのだ。正直でまっすぐなのは彼の美徳ではあるけれど……。

「その申し出、物申すぞ!」

 マクシミリアヌスが獅子のように雄々しく吠えた。
 ベレンガリアが流石に驚いたようにぴゅっと肩を縮こまらせる。

「いいか、君は我々の戦いの煽りを食って生死の境を彷徨ったのだ。我々が君を治療出来得る場所まで運び込むのは至当のことだし、それが義務であったと言える。こちらは君に謝罪をしこそすれ感謝されるなど、ましてや貸しを作ったと評することすらおこがましい。君は本来ならば毒を受ける危険性もなかったのだ。それを――」
「ええい、煩い!」

 マクシミリアヌスのよく回る舌をベレンガリアの怒号が遮った。流石のマクシミリアヌスも一瞬間だけぽかんとしたように言葉をとめたが、「しかしだな……」嗜めるように続きを言われて、今度はスカッリア語で多分「煩い」と怒声を上げた。

「私は、そのことを、黙っていろと言っていますの!」
「そのこと……?」
「貴方がたの戦に飛び出したことまでは覚えています。それから毒を受けたのだと。そのような事情で街を出、あまつさえ貴方がた下々の力を借りなければならなかったことを、黙っていろと言っているのです」
「……?」

 マクシミリアヌスがきょとんと緑目をしばたかせ、自分よりも何倍も小さい貴族のお嬢さんを見下ろした。その後ろでアルブスの薬草師は、とても所在無げな感じで立っている。

「……だから!」

 薬草師がお嬢さんの突然の大声に、後ろでびくっと身を震わせた。

「第一級魔力保持者に夢中になってこのような失態を晒したこと、私のお爺様には黙っていろと……いてくださることを貸しとして、私はお話しています」

 ……外に出る直前、トマスが彼女のお爺さんのことを教えてくれたことを思い出す。行政機関塔の最上部での話し合いにはギリギリ参加できない伯爵の位で、虎視眈々と陞爵の機会を狙っているとか。……成る程、そんなお爺様が今回の件を知ったら、ただでさえ余裕の無い立場であるにも関わらず教会の人間に迷惑をかけ、貸しを作り、ディ・ナンニ家の名に一体何重の泥を塗るつもりかと――そういうような話になってしまうらしい(チッタペピータの貴族の人間にとって、どうやら教会に恩を作ることはこれ以上無いほどの屈辱だ)。こちらとしては彼女はただの被害者であるが、命の恩人に対して貴族たる人間が言葉のみで解決出来得るはずがないと。……加えて恐らく、彼女は日頃から“お爺様”とやらに第一級魔術師の眷属に傾注していることを何かと咎められている。

「……私はこれから貴方がたを、お爺様が作らせた抜け穴へと導きます」

 一つ咳払いをしてから彼女は言った。

「例の件を誰にも語らないと言うのなら……無論私も、アルブスのことは話しません。話したところで何の益もありません。……内密にしてくださいますね?」

 いつもの高飛車な物言いに反して少し自信なげになったその言に、異議を唱える者はもはや無かった。



メビウスの帯

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